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2009年1月15日 (木)

川戦:風雲編⑪戸田真喜姫

 斎藤道三の説得も空しく、水野信元は松平広忠と手切れをし、織田信秀と結んだことは、前稿のCの手紙にて明らかであると思われます。その意思の堅きを知った松平広忠は妻の於大を離縁します。二人の間には三歳になる竹千代がおりましたが、それを岡崎に残したままの涙の別離です。
 水野・松平家の手切れと同時に形原松平家広もこれに倣って、水野忠政の娘であり於大の姉の於丈を離縁します。水野忠政の娘たちはこの他に、石川清兼(忠成とも)の妻がいるのですが、清兼はこれを離縁しておりません。一門衆と家臣団には温度差がどうもあるようです。この清兼の妻は三河一向一揆後、さらに後に石川数正の一族が岡崎を出奔した後の西三河本願寺教団門徒の束ねとして、徳川家康との交渉人を勤めております。石川清兼は松平家の家老であると同時に、石川宗家の惣領として西三河本願寺教団門徒を束ねる立場にありました。
 於大、於丈離縁には水野信元の頑なな態度が原因であることは確かですが、それ以上に松平家、形原松平家の今川義元に対する憚りがあったものと思われます。
 石川清兼の場合、摂津石山の本山があてに出来たという事情があるやもしれません。一向一揆は天文一揆で大打撃を受けたものの、壊滅はしませんでしたし、その実力を天下に誇示しております。実円が三河兵を動員できたように、独自に兵を変成する能力ももっており、単に松平家の従属下にあるわけでもありません。そしてこの時期の松平家は家臣の力が主家・一門を凌駕しておりました。石川清兼には主人の意向の外にある独自判断する余地があったものと思われます。水野信元にしてみても、手切れをしたのは松平家とであって、石川家と松平家は別と見ていたのかもしれません。

 於大を離縁した翌年、松平広忠に再婚話が持ち上がります。田原の戸田康光の娘、真喜姫です。戸田氏は渥美半島と知多半島の一部を領する三河の大勢力の一つですが、それぞれの地域に別家が立ち、独立して一族一揆としてのまとまりを失いつつありました。この辺りの状況は松平家と同じと思われます。戸田家と松平家は戸田宗光・松平信光以来の関係を持っており、広忠が流亡中に吉田に滞在していた折、戸田家とも親交をもったものだと考えられます。
 そして、戸田家は松平家のお家騒動の顛末の一部始終を見ておりました。東三河の国人達は斯波・今川・西条吉良・松平・織田と目まぐるしく変わる周辺勢力の変転をいち早くキャッチしてより優位に立つ争いをしておりました。そして今、今川氏が再び西に目を向けようとしています。そうした中、親今川勢力である松平家がどのような状況になっているのかは重要関心事だったろうと思われます。
 その観察の結果、明らかになったことは松平家は幼主を立ててまとまるという事実でした。道閲が大樹寺に入って以降、信忠、清康、広忠と三代の当主が十三歳前後で松平家をついでおります。しかも、世代交代に際しては強引な手段がとられております。信忠は押籠め、清康は暗殺。広忠は先代と比べると明らかに力量が劣っております。これまでの事例を考えるに、広忠の嫡男が長ずれば、広忠が強引に退場させられるという事態は容易に想像できました。そして今、阿部大蔵定吉が家老として広忠に近侍している状況です。もし、広忠がいなければ、天文十四年になっても阿部定吉は浪人のまま諸国を流亡していたことでしょう。松平家を抑えるためには松平家の幼君を掌中に入れておけばいい。それは誰の目にも明らかなことでした。そして、それは家臣達も気づいていたことではありましたが、それが露わになるのはもう少し先のことです。

 1545年(天文十四年)、戸田真喜姫は松平広忠の元に嫁ぎました。岡崎城に入ろうとした真喜姫を広忠が押し止め、本城は竹千代の城であるため、戸田の姫は新城の方に入るべしといってるのですね。城郭構造やら、当時の武家の家族のありようにはよくわからないところがあるのですが、於大はどこにいたのか気になるところです。あるいは、新城は真喜姫のために広忠が新調した廓だったのかもしれません。家臣の考えであるなら、竹千代と真喜姫を隔離しようとする画策かなとも思いますが、あまり意味のない行為だろうと思います。いずれにせよ真喜姫手元には前妻の息子である竹千代がいたことは確かなのですから。同じ年、今川義元は奪われていた駿河国の河東地域を北条氏康から取り戻し、武田晴信の仲介で停戦。九年間続いた河東の乱が終結しております。これによって今川義元は西に目を向けることが可能になりました。
 そして同じ年、織田信秀は平手政秀の仲介によって清洲織田家と和解します。この前後、織田大和守達勝は引退し、守護代の座は織田因幡守家の彦五郎信友が引き継ぎます。信秀の居城古渡を焼いたのは彼ですが、彼との妥協がなったのでしょう。信秀は古渡を棄て、末盛の城に移ります。
 このあと、土岐頼芸、斉藤道三の二人の面子を潰さない形での講和が美濃国と尾張国の間で模索されます。その過程において信秀は東に眼を向ける余裕ができたのです。
 三河国が東西角逐の場になるのは時間の問題でした。

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