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2009年1月13日 (火)

川戦:風雲編⑩天文十三年Ⅱ

 前稿の②で参照した士林証文天文十三年九月二十五日付長井秀元書状には、関連する二通の書状があります。内容的に一連の文書であり、戦国時代の外交交渉の実相を垣間見えさせる内容となっております。出典は新編岡崎市史所載のものからです。文書の日付はA-B-Cの順ですが、史料はC-A-Bの順に並べられていることもチェック・ポイントです。

A 天文十三年九月二十三日付斉藤左近大夫利政書状写
  差出人:斉藤左近大夫利政(斎藤道三)
  あて先:安心軒、瓦礫軒 
B 天文十三年九月二十五日付長井秀元書状写
  差出人:長井久兵衛秀元(斎藤道三)
  あて先:水野十郎左衛門(水野信元?)
  使者:瓦礫軒
C 天文十三年閏十一月十一日付織田信秀書状
  差出人:織田弾正忠信秀
  あて先:水野十郎左衛門尉(水野信元?)
  使者:林新五郎(林通勝)

 Aの文書は斎藤道三が部下である安心軒、瓦礫軒に対して送った指令書です。内容は一昨日に起こった加納口合戦の勝利の報を『首注文』と一緒に水野信元に届け、これを期に水野は斎藤道三側味方して、現在不和になっている松平広忠との関係を修復することを勧めるべし、という内容です。
 安心軒、瓦礫軒は濃尾国境は織田信秀によって封鎖されていたので、そういう封鎖をかいくぐれる立場をもった人物だったようです。~軒は雅号で僧や連歌師等が名乗っておりました。穿って見れば忍者・乱波の類という解釈も不可能ではありません。さらに穿てば、この書状が出された同じ年宗牧率いる連歌師集団が京から駿河へ興行の旅にでております。その際朝廷から女房奉書を言付かって十一月に織田信秀に勅使として面会しております。その際、宗牧と同行した連歌師達が先触れとして街道筋の国人領主の所に行って連歌興行のセッティングを行っているのですね。信秀と会った宗牧はその後松平広忠にも面会を求めております。なので『勅命』を帯びた連歌師というセンも無きにしも非ずと言う感じです。
 Bは前稿の②の史料です。二十五日付の手紙ですが、二十三日付と同じく加納口合戦を一昨日と表現しています。内容としてはAの史料と同じものですが、差出人と宛て先の名前が異なっています。斎藤道三は何度も名前を変えており、長井秀元は昔の名前のようです。あて先は水野十郎左衛門。本稿では信元と比定しますが、水野家は諸家分立しており、正確には不明です。ともあれ、水野十郎左衛門にたいする使者にAの手紙のあて先人でもある瓦礫軒が立っているのですね。
 Cは織田信秀が林通勝を使者に立てて水野信元送った書状です。この前段に水野信元から在陣中の織田信秀の許へ書状が出ていたようで、その返信です。

『ここに許しの儀、差しつかえの儀、なきの候。御心を安ぜられるべく候。まずもってその表に異儀無き候よし、もっともと存じ候。いよいよご油断なく仰せ付けられるべき儀が肝要に候』

 水野の手紙の内容はこの文面から判断するに、織田信秀に『差しつかえ』、つまり不祥事の報告であり、それに対して『許し』を求めているものであるようです。信秀は差しつかえないので安心するように回答しているのですね。何に対する許しであるかは、史料集に続く二つの文書が語っているでしょう。水野信元と斎藤道三の接触です。信秀は信元対し、異心がないことは信じると言いつつも、これからも油断せずに報告をあげろと釘を刺しています。
 以上は私の解釈です。以下、そのように読んだ理由を申し述べます。

 1541年(天文十年)水野忠政は娘の於大を松平広忠に嫁がせます。水野忠政は松平家の有力者と常に婚姻関係を結ぶよう動いております。自らは岡崎(大草)松平親貞の娘と結婚し、嫡男の信元は桜井松平信定と、そして信元の妹於大は松平広忠といった具合です。そして、その翌年の十二月二十六日、二人の間に嫡男竹千代が生まれます。後の徳川家康です。ところがさらにその翌年、1543年(天文十二年)の七月十二日に水野忠政が死にます。後を継いだのは桜井松平信定の娘を妻とする、水野信元でした。水野信元は松平家と手切れし、織田信秀に味方をするようになります。
 その翌年の1544年(天文十三年)九月に織田信秀が斎藤道三に大敗を喫し、これを好機に斎藤道三が反撃します。十一月上旬、その当時織田方にあった大垣城を囲むのですが、それに対抗して十一月十七日、信秀は濃尾国境を再度越えて意地をみせました。道三は果断に大垣城の包囲を解いて因幡山に戻ると、今度は清洲衆、つまり上四郡守護代の織田大和守家家臣達が織田信秀の居城、古渡城を焼き討ちしたのでした。甫庵版『信長記』では率いていたのは清洲三奉行のうちの因幡守家の彦五郎信友であると言っております。これにはたまらず、信秀は美濃を撤収し、織田彦五郎信友らとの戦いにはいります。どうもこの古渡急襲は斎藤道三の差し金であるようなのですね。なので水野信元もこんな手紙を斎藤道三とやり取りしていたことが知られれば織田信秀にどんな目に合わされるかはしれません。また、水野家が織田方についたのは、ほんの一年前のことに過ぎません。このことが先に織田信秀に知られれば、誅罰されるされることは必定です。なので、先に接触の事実を織田信秀に報せたものと思われます。そして信秀の返書は水野信元が欲しがっていたものでした。これで後々、斎藤道三側からこの件を蒸し返されても、そのことそのものが致命傷になることはありません。織田信秀はその件を知っており、その上で許したからです。この三つの文書が後世にのこされたのは、その証拠としてであると思われます。

 もう一つ肝心なことを申し述べておきます。斎藤道三が水野の手紙の差出人の名前を長井秀元としていることです。斎藤道三が長井姓から斎藤に改めたのは1538年(天文七年)のことでした。A、Bの手紙には斎藤道三と水野家が美濃・尾張両国の確執により長く音信不通だったことが冒頭に述べられているのですが、それがいつからいつのことなのかは書かれていません。しかし、Bの手紙の差出人名が長井姓になっているということは、1538年(天文七年)以前から不通であった可能性があります。天文七年は桜井松平信定が失意の死を遂げた年です。信定の死は尾三連合の終焉と同時に、濃尾対立の端緒であったという見方もできなくはない。それ以前は、長井秀元の美濃と水野忠政の緒川河口域、そして松平清康・信定の西三河エリアは連合体を組んでいたと見ていい証左なのだと私は考えております。

 1544年(天文十三年)十一月(閏ではない)十二日に宗牧一行は大浜につき、その翌日に称名寺住持の案内で鷲塚経由で矢作川を陸路北上して岡崎に向かおうとしますが、岡崎には目当ての阿部大蔵がいませんでした。聞けば『をはりざかい(尾張国境)まで出陣のことありていまた帰らず』とのこと。どうやら斎藤道三の誘いに乗っていたようです。この時点で安祥城が陥落し、矢作川西岸が織田信秀の勢力下にあったなら、尾張国境までの出陣は無理だと思われます。急遽大林寺(この寺は松平清康の墓所です)に宿舎が割り当てられ、阿部定吉の帰りを待つことになりました。大林寺側も急のことなので用意が整わず、宗牧は不快な思いを隠しませんでした。『ここのたびね(旅寝)不弁又その興なり』とか、『軒主馳走おもひもかけぬ煩いどもなり』と不満たらたらです。翌日阿部定吉が帰陣し、石川右近(清兼かその長子の康正と思われます)が茶の湯でもてなしますが、宿舎が大林寺のままであることに加え、石川右近の茶の湯も『ずいぶんなふるまい』とこき下ろしています。宗牧には松平広忠に女房奉書を届ける用があったのですが、どうも広忠本人には会っていない模様です。織田家の平手政秀のもてなしぶりに対する評価と比べると好対照となっています。戦国の風流人宗牧の目でみたこの時代の人々のありようは読んでいて飽きることはありません。

 以上のようにあまり手垢のついていない史料が散見されるのが、この天文十三年の出来事です。研究のし甲斐のある年であると私は感じております。

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