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2009年1月20日 (火)

川戦:風雲編⑫今川西漸

 今川氏が三河国に軍を進める時、最初に標的になる地があります。それが今橋です。永正三河乱においては、そこを領していた牧野古白が時の今川家当主の氏親とその配下の伊勢宗瑞に討たれております。今川氏親はその後間もなく中風で倒れ、伊勢宗瑞も関東争奪戦に専念するようになると、東三河に一時の平和が訪れます。今橋は牧野伝蔵をはじめとする四兄弟で守られるようになりました。
 そこに現れたのが、西条吉良の名代として攻め込んできた松平清康です。1530年(享禄三年)牧野伝蔵ら四兄弟は一所懸命に防衛線を戦いましたが、利あらずことごとく討ち取られます。
 清康は今橋に代官を置きましたが、1531年(享禄四年)に清康が守山崩れで倒れると、代官は岡崎に引き上げ、変わって牧野成敏が今橋に入りました。今川氏や松平氏に攻略された今橋は牧野一族にとって『いまはし』⇒『いまわし』いものでした。その験の悪さを嫌って牧野成敏は今橋を吉田と改名します。それから間もなく、桜井松平信定に岡崎を追い出された松平仙千代が阿部定吉に連れられて吉田に流れてきます。
 牧野成敏がこの流亡の若君をどう扱ったかは判りません。1536年(天文五年)の秋から1537年(天文六年)六月に仙千代が岡崎に復帰するまでの間、三河における岡崎復帰運動の根拠地となておりましたので、おそらくは保護をしていたものと考えられます。この間阿部定吉や松平仙千代は吉田と駿府との間を往復していたとみられます。今川義元と会見し、支持を取り付ける必要があったのですね。
 その甲斐あって、岡崎城でクーデターがあり、仙千代は城主として迎え入れられることとなりました。それと相前後して、牧野成敏は吉田城を失います。大崎の戸田宣光が吉田に攻め込み、牧野成敏を追ったのです。今橋=吉田の地は牧野氏と戸田氏が争奪戦を繰り返した地でした。牧野成敏に油断があったように思われます。
 真喜姫輿入れから察するに、松平家と戸田家との仲は悪くありません。おそらくは仙千代の吉田滞在時、牧野氏と一緒に戸田氏も仙千代支援に動き、東三河国人達に借りを作った形になっています。水野於大を離縁した松平広忠は吉田領有によって高まった戸田氏のプレゼンスを利用することを考えました。はっきり言って東三河まで目が行き届かないというのが実情だったでしょう。
 一方の今川家はそれを当面は黙認しました。今川義元も武田家から妻を娶ったことが、北条家との関係を悪化させ、駿河国河東地域を北条に奪われ、戦争状態になっています。西に目を向ける余力がありませんでした。

 吉田を手に入れ、松平家に娘を輿入れさせた戸田氏の当主は戸田康光といいます。彼は松平広忠の重臣として活躍する阿部定吉の手口を学習しました。松平家臣団は幼主によってまとまるということも。今の広忠は清康に比べると器量不足は否めません。器量の足りない松平家当主がどうなるかは信忠が証明しています。戦国の動乱の中、隙をついて勢力拡大をはかる戦術を取ってきた戸田氏にとっては、実にわかり易くつけ込み易い家風でした。真喜姫を松平広忠の後妻にいれ、来るべき広忠の自滅を待ち、阿部定吉のように立ち回って、主導権を握る。これが戸田康光のシナリオだったのではないかと思われます。
 さりながら今川義元は戸田康光に松平広忠が自滅するまでの時間を許しませんでした。1545年(天文十五年)河東の乱は今川義元が河東地域を取り返す形で和睦を結び、終結しました。この和睦は後の甲相駿三国同盟への流れへと繋がります。東の憂いを取り除き、今川義元は西に目を向けます。父氏親の時代、今川家は遠江を狙っていた斯波氏を駆逐し、勢力を三河国にまで広げておりました。今再びその地を見るに、斯波氏は没落はしていますが織田家が勃興し、監視につけていた今川氏豊は那古屋を追われています。織田家は信秀が優位に立ち、美濃や三河に勢力を伸ばそうとしているところです。今川義元は西に勢力を伸ばすことを決意します。
 その際に通り道になるのは吉田でした。牧野古白は攻め滅ぼしたはずですが、いつのまにか戸田宣成が居座っております。この時までに今川家は分国法を定め、領国に検地を進めるというドラスティックな改革路線です。それを三河国にまで推し進めるためには吉田の地はどうしても自らの掌中に納めておく必要がありました。

 1546年(天文十五年)今川義元は吉田城を攻撃します。これは少し不思議な様相を呈しておりまして、攻撃理由が吉田の戸田宣成が背いたからということですが、具体的な理由が見えてこないのですね。戸田一族も宣成支援に動いていません。そしてあろうことか松平家も今川側としてこの合戦に参陣しているのですね。吉田城はあっけなく陥落。あとに今川の代官を入れて東三河は今川家の支配下にはいってしまいました。この頃、戸田康光は家督を息子の尭光に譲っておりますが、実権は握っていたようです。今川家が吉田に入ったため、戸田康光は身動きがとれなくなりました。一縷の望みは岡崎にいる真喜姫の存在ですが、それも今川支配下ではあまり派手な行動はとれません。
 それに過去の例から今川家の三河進出は長続きしませんし、竹千代も僅か五歳です。広忠の自滅はもう少し先になるはずでした。ここは下手に刺激を与えないことにしたものと思われます。

 しかし、今回の今川家は本気で三河を狙っておりました。太原崇孚は今川義元の片腕として三河攻略のための手を次々に売ってゆきます。その一つ一つが戸田康光を締め上げるものでした。崇孚が見据えていた攻略目標、それは松平氏であり、さらに西にいる織田信秀だったのです。

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