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2009年1月 8日 (木)

川戦:風雲編⑨天文十三年Ⅰ

 土岐頼芸は織田信秀に庇護を求め、織田信秀は土岐頼芸のために一肌脱ぐことにしました。土岐頼芸はあわせて、かつて越前に放逐した兄頼純(説によっては甥ともいいます)にも働きかけて、朝倉家の名将朝倉宗滴の派兵も得ました。朝倉宗滴は1506年(永正三年)に加賀国一向門徒が三十万の兵力で越前国に攻め込んだ折、僅か一万の兵でこれを撃破した戦歴を持つ勇将です。今回は老骨に鞭打っての参戦でした。朝倉氏は永正年間に領国から本願寺教団門徒を追い出して以来、禁教令を敷いて領国内での一向宗の活動を禁じております。さらには1527年(大永七年)に京を追われた細川高国の支援勢力でもありました。ここで美濃の斎藤道三に向けて出兵するのは、頼純擁立という大義名分もあったかも知れませんが、反本願寺・反細川晴元という部分もあったろうと思われます。

 織田信秀は越前の朝倉宗滴の南下に呼応し、尾張から美濃国稲葉山へと北上します。斎藤道三は稲葉山城を根拠地にしておりましたが、そのふもとの井ノ口に織田勢が殺到します。日中、この町を放火し、日が暮れたので一度夜営地に退却しようとしたところを斎藤道三が急襲して打ち破りました。荒田川の加納口という場所で雌雄は決し、織田信秀は五千の戦死者を出したといいます。この合戦のことを加納口合戦というそうです。

 この合戦は1547年(天文十六年)の事件といわれてきましたが、先行研究者の業績を踏まえて本稿ではこれを1544年(天文十三年)説にて記述してまいりたいと思います。

 やっとこさ、天文十三年の話ができると思うと、心がうきたちます。この年には色々なことが起こっています。にもかかわらず、江戸期の史料でこの年に起こった事件が前後に散らされていますので、一見すると地味な年にしか見えません。
 この年に起こったのは加納口合戦です。小瀬甫庵版『信長記』に加納口合戦は織田信長の元服(1546年(天文十五年))の翌年、すなわち1547年(天文十六年)と書かれております。これを他の史料や同時代史料などと付き合わせると、1544年(天文十三年)のようなのです。

 加納口合戦が天文十三年と考える根拠は三つです。

 ①東国紀行
 >今度於濃州不慮の合戦勝利をうしなひて。弾正忠一人やう々々無事に帰宅。
 >無興散々の折ふしながら早々まかり下るべきのよしの返事あり。

 ②士林証文
 >仍って一昨日辰刻、次郎(土岐頼芸)・朝倉太郎左衛門(教景)・尾州織田衆上下、
 >具足数二万五六千、惣手一同至城下に手を遣り仕り候。此方、無人に候と雖も、罷り出て一戦。
 >織田弾正忠(信秀)手へ切り懸け、数刻相戦う。数百人討ち捕り候。頸注文進ぜ候。
 >此の外敗北の軍兵、木曽川へ二三千溺れ候。

 ③朝倉宗滴話記
 >六十八歳(天文十三年)濃州陣。九月廿二日井之口悉放火

 最初の史料は連歌師宗牧が1544年(天文十三年)に京から駿河へ連歌興行をした折の紀行文です。宗牧は連歌師といっても、朝廷とのコネクションをもっており、この駿河下向は女房奉書と呼ばれる勅書を携えた勅使としての旅でもあったのです。
 第二の資料は武家文書集で、天文十三年九月二十五日付の長井秀元から水野十郎左衛門宛ての文書です。水野十郎左衛門は水野忠政の息子の水野信元のこと、長井秀元は斎藤道三の昔の名前のようで、改名した道三が差出人である水野の認識に合わせて旧名をなのったと思われます。本文書には合戦の様相が克明に記されております。
 第三の文書は朝倉宗滴が子孫に残した訓辞書で、彼の戦歴が記されたものです。②の文書を見ても判るとおり、この合戦には朝倉氏も参加しております。但し、この合戦は②の文書がいうとおり、朝倉・織田軍の大惨敗なのですが、その事は③の文書には書かれていません。牛一版『信長公記』、甫庵版『信長記』ともに織田軍の大惨敗を語っていますので、記述は一致するのです。

 ③の史料をみるに、朝倉宗滴は1544年(天文十三年)に井ノ口を焼いただけとしか書いていません。そして、甫庵版『信長記』には加納口合戦を1547年(天文十六年)としているので、東国紀行等の言う天文十三年の合戦と甫庵版『信長記』の天文十六年の合戦は別の合戦であり、織田信秀と斉藤道三との戦いが二回あったという説もあるのです。が、①②の史料で1544年(天文十三年)に織田軍が大敗を喫したことが明確だし、天文十三年説にあるほどの規模の敗戦が史書に書かれていないことは不自然です。
 ちなみに牛一版『信長公記』にはこの合戦がいつ起こったのかは書かれていません。私自身は牛一版『信長公記』に書かれていなくて甫庵版『信長記』に書かれていることはまず疑ってしかるべきだと思っております。以上の理由をもってこの加納口合戦は1544年(天文十三年)に起こったものと考えております。

 今回の根拠とした士林証文の史料を追うと、興味深いことに斎藤道三と水野家、そして松平家が連携関係にあったことが伺えます。本稿の最初のほうで水野家の描写を長々としたのはその辺の意図がありました。伏線回収の意味で、次稿ではそのあたりについてもう少し深堀りしてゆきたいと思います。

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