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2009年1月 1日 (木)

川戦:風雲編⑦三河守の価値に関する考察

 本稿においては、織田信秀が得た『三河守』という官職の価値についての考察をいたします。本稿は歴史家今谷明氏の著書『戦国大名と天皇』と、以前に読んだ歴史雑誌に掲載された今谷氏の著書に対する反論(著者は多分掘新氏だったと記憶していますが、タイトルを失念)に基づいて構成しております。

 織田信秀の弾正忠家では、嫡男が代々元服して弾正忠、備後守の官途名を名乗っております。その官途名は自分で勝手につけたものではなく、守護の斯波氏が、斯波家内における身分や地位に応じて室町幕府を仲介に朝廷に奏上してもらっていたものである、と考えていいでしょう。織田家や朝倉家が戦国大名化する以前、彼らの主君はあくまで斯波氏です。室町殿からみれば家臣の家臣、つまり陪臣でしかなく、直属の家臣に対して与える『御恩』の一つである官職名を与える必要などありません。しかしながら斯波家が有力な家門であることもあり、織田家、朝倉家のような陪臣にも与えるケースがまま、ありました。戦国時代になると、朝倉家は主君である斯波氏を越前国から追い出して、自ら室町将軍から越前国守護の座や朝廷の官職名をもらうようになります。織田家はそのまま、斯波家の家臣として尾張国守護を支えますが、斯波氏の弱体化につれて自立を図るようになってゆきます。

 その後将軍は管領や、敵対勢力に京を追われて留守にしがちになります。幕府が朝廷との仲立ちをして、武家に官職を与える窓口としての役割が機能しなくなり、手続きが滞って行きます。官途名は祖父や親から受け継がれるものです。主家もその人物の能力よりも、親の名乗りを重視してその名乗りを決めていました。これを家格といいます。また、そもそも官途名は儀礼的な名乗りであり、実質を伴いませんから、正式な手続きなしに子孫がなのっても僭称のとがめだてはなかったようです。
 堺に進出した足利義維は正式に征夷大将軍についたわけではありません。にもかかわらず、堺公方、堺大樹(大樹は将軍の唐名)などと呼ばれておりました。将軍家からしてそういう実態だったのです。
 但し、足利義維については結果的に上洛できなかっただけで幕府組織は堺に立派に作り上げておりました。上洛して朝廷に申請すれば、文句なく正式な征夷大将軍となれたでしょう。上洛できなかったのは結果でしかありません。

 朝廷にしても幕府が京都にいてスポンサーをしてくれないと、何の儀式も執り行えないのです。武家政権の誕生以来、朝廷の財源である御料所や荘園領は武家に蚕食され、わずかばかりに残った収入の道も、戦国時代の到来によってその僅かながらの収入も京にいては手に入らず、殿中の公卿たちは地方に下って諸侯に芸を売りながら生計を立てるしますです。幕府も財布に余裕はもはやありません。流通は破壊され、富は織田信秀のような在地の有力者の所に溜まるだけになっていたのです。、

 後柏原天皇は1526年(大永六年)に亡くなりましたが、即位して二十二年間、手元不如意の為、即位の礼を執り行えませんでした。二十二年後に幕府を説き伏せてようやく行えたわけですが、その時も幕府は資金提供を渋りました、その補填をしたのが山科本願寺の実如です。天皇は在位中にやらなければならい儀式たたくさんあるのですが、その中でも大嘗祭は最も重要な儀式です。それを一度も執り行えなかった天皇は半帝あつかいされるのですが、この天皇も在位中に結局大嘗祭を開くことが出来ませんでした。また、天皇は生前に譲位するのが通例ですが、金がなくて譲位もできませんでした。譲位をすると上皇にかかる予算と、天皇にかかる予算と、東宮にかかる予算がかさむわけですからね。
 なので、後柏原天皇は天皇として生をまっとうしました。死の直前に死後の世界について『善智識』を伝授するという儀式があるのですが、ここでその儀式を務めたのは、知恩院の住持でした。名を超誉存牛といいます。彼が松平長親(道閲)の弟であったということは奇縁といえるでしょう。こういうことは本来、延暦寺のような護国の使命を与えられた寺社がやるべきことなのでしょうが、そうならなかったのは、ひとえに朝廷に金がなかったせい。知恩院にとっては寺格を上げる契機となった画期的な事件でした。

 後柏原天皇の後を後奈良天皇が継ぎましたが、手元不如意な事情は好転しません。後柏原天皇の代には永正(十七年)、後奈良天皇は天文(二十三年)と、明治になって一世一元の元号制度が定められる以前としては、異例の長期間にわたって同じ年号が使われております。これも改元に金がかかるせいで、幕府がそのスポンサーとなることを嫌がったからです。
 承久の乱で後鳥羽上皇が流刑にあって以来、政治の実権は武家に握られた天皇は祭祀王としての務めを果たす存在となりましたが、その祭祀すらままならぬ状況に追い込まれていました。

 織田信秀がそのあたりの事情を知ったのは、那古屋城を今川氏豊から分捕り、古渡に城を構えて熱田を第二の津島として傘下に入れた頃だと思われます。熱田神宮は地元の信仰を集める有力寺社でした。その大元締めである伊勢神宮の建物は全て白木作りです。耐用年数にくると建て替えるというのがしきたりでした。ところが朝廷が先ほど述べたような有様だったので、長く建て替えが出来ないでいました。
 1542年(天文十年)、信秀は伊勢外宮建て替え費用七百貫文を拠出します。この挙に天皇は痛く感激し、三河守の官職を信秀に与えたという話が『伊勢外宮引付』に載っているそうです。着目すべきはこれは斯波義統や織田大和守達勝の指示ではなく、織田信秀が勝手にやったことです。そして、三河守も主家や将軍家を通さず、朝廷が勝手に信秀に与えたものであるらしい。
 らしいと書いたのは織田信秀が三河守をもらったと書いているのは外宮引付のみなのですね。歴史学者の今谷明氏は『戦国大名と天皇』の中で、これは1540年(天文九年)に安祥城を手に入れた織田信秀が三河支配を朝廷に認めてもらった実利支配の実例であると述べております。この後、今川義元と徳川家康が織田信秀と同じように、幕府を介さず直接三河守の称号を得ております。これは三河守が象徴的な意味ではなく、朝廷が支配権を認めた実利ある官職であるというのですね。
 とても刺激的な説であり、戦国時代の朝廷の位置づけを考えるにあたり極めて重要な問題提起だと思います。

 ただ本稿においては私はその説を採用しません。まず安祥城の陥落は前稿の下克上編で述べたとおり、1547年(天文十六年)説をとっております。第二に、これが一番大きい理由ですが、『外宮引付』以外に織田信秀が三河守を名乗ったとする同時代史料がないのです。信秀が朝廷が発給する官職に何らかの価値を見出していたとすれば、当然それを利用するでしょう。三河守の権威に従えと、尾張の部下達や、三河の国人・土豪に号令を発してもおかしくないはずです。その形跡がないということ自体、織田信秀に三河守の官職自体に意義を見出していなかった顕れであると思います。
 信秀自身備後守を名乗っており、三河守はそれより目立って偉いわけでもありません。朝廷の支持の有無は多少の違いとしてあるでしょうが、それを信秀は表に出しませんでした。三河守にそのような価値はなかったとみてよいでしょう。むしろ、江戸時代に幕臣が将軍家より葵紋入り紋付羽織を下賜されるようなものだったのではないかと思われます。御紋を下賜されること、それ自体名誉なことではありますが、それによって松平・徳川一門に入ったことを意味しません。それは家宝として退蔵され、表に出せない名誉だけのものだったのではないか。そんな風に思います。

 ただ、熱田や伊勢神宮の神職達に三河に勢力を伸ばしたいという希望は伝えたと思われます。勝幡から古渡に根拠地を移したのは木曽川対岸の長島願証寺からの襲撃に対する備えであり、本願寺という宗教勢力に対抗するために、熱田神宮――伊勢神宮のスポンサーとなって、息子信長に天道思想を吹き込んだ。それらは究極的には今川氏と対等な競争相手となるために、周辺に展開する本願寺勢力を敵として勝利すべく、腹をくくったのではないかと思うのです。それは織田大和守達勝であり、三河の松平家臣団勢力のことですね。
 それは同時に財力という力の誇示でもありました。財力があるということは戦争遂行能力をもつということです。信秀の周囲に織田一門衆を始め、尾張国人衆が集ってきます。そして、そこに大義名分が伴って始めて、織田信秀は尾張衆を糾合し戦争を始めることができたのです。そしてその財力は大義の実現を求める者すらひきつけます。

 そのきっかけは朝廷が『支配』を認めた三河方面ではなく、北方からでした。その人物の名を土岐頼芸といいます。

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