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2009年1月 6日 (火)

川戦:風雲編⑧毒蝮左近大夫

 1531年(享禄四年)、加賀国で加賀三ヶ寺が山科本願寺の決定に逆らって、超勝寺、本覚寺討伐行います。それに対して本願寺が加賀三ヶ寺討伐を行うという大小一揆が勃発しました。三河国土呂本宗寺の実円は山科本願寺派として三河兵を動員、飛騨国白川郷経由で加賀に派兵をしました。三河の兵を加賀に送るためにはルートにあたる各国の領主勢力と話をつけておく必要があります。本稿においては、三河国においては松平清康、尾張国においては織田大和守達勝、飛騨国においては内ヶ島氏を協力者としてあげております。さりながら、それだけでは三河兵を加賀国に送り届けることは出来ません。
 その経路を考えるにもう一つの勢力に兵の通過を求める必要があります。言わずとも地図をみれば一目瞭然ですが、美濃国です。松平清康の守山出兵の前振りとして、美濃三人衆(稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全))と呼ばれる美濃国の重鎮達が清康の美濃攻めに先導すると申し出をしたと三河物語には書かれています。雑駁ですが、美濃国の事情をその頃あたりから描写し、信秀とのかかわりにつなげて参りたいと思います。

 美濃国は土岐一族の支配圏でした。鎌倉時代から美濃国に勢力を伸ばし、鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇や足利尊氏に助力した功をもって、土岐頼貞の代に美濃守護となりました。その子頼遠は足利尊氏の北朝方につき、南朝方の北畠顕家が東北から上洛を目指した怒涛の進軍を青野ヶ原の戦いで止めるなどの抜群の戦功を顕したものの、光厳上皇に矢を射掛けるなどバサラ大名らしいお茶目な悪戯をしたために処罰されました。しかし、足利将軍家も観応の擾乱に始まる有力御家人の離反に乗じ、次代の土岐頼康には伊勢・尾張の守護を兼ねたりもしています。その勢力伸張が足利義満ににらまれて頼康の子の康行は美濃国守護の座を奪われました。美濃国守護は別流である西池田土岐氏出身の頼忠が継ぐことになります。土岐一族の末流がいきなり本家となってしまったため、以後の守護家としての土岐氏は一族の指示を充分に得られず、替わりに斎藤氏などの家臣を重用して守護代に起用します。応仁の乱においては、時の守護代家出身で幕府奉公衆となっていた斎藤妙椿が西軍について主家である土岐氏以上
の働きをした結果、守護の土岐氏は斎藤氏の傀儡となりました。戦国時代の相次ぐ内乱で斎藤氏も一度没落するのですが、それを再生したのが松浪庄五郎、後の斎藤道三でした。

 松浪庄五郎は斎藤道三になるまでに、松浪庄五郎>西村勘九郎・新左衛門尉>長井新左衛門尉・左近太夫規秀>斎藤利政と何度も姓名を変えているのですが、途中長井氏を名乗った折にどうやら代替わりしているらしいのです。長井新左衛門尉が父親で長井左近太夫規秀が子供の方らしい。この辺りの事情は不勉強で満足の行く描写はできません。ごめんなさい。

 その斎藤道三が守護代の長井氏に仕えていた1527年(大永七年)に時の守護土岐頼武に対して斎藤氏の支族である長井長弘が頼武の弟頼芸を担いで主家に叛旗を翻します。戦況は概ね長井――土岐頼芸ペースで進んだようです。一方、翌1526年(大永六年)には阿波国に逼塞していた細川晴元が三好元長とともに挙兵。1527年(大永七年)に起こった桂川の合戦で、破れた管領細川高国は足利義晴とともに京を放棄します。その後、土岐頼武は破れて越前国へ亡命します。
 その結果土岐頼芸が美濃国太守となるのですが、実質的には守護代長井長弘の傀儡だったようです。この時点で、松浪庄五郎(父親の方)は長井姓を名乗っていたようです。ややこしいので、以下斎藤道三で統一して当時の呼称は括弧書きの中に入れますね。

 土岐頼芸は斎藤道三(長井新左衛門尉)に自らの愛妾を下賜して抱きこみをはかったといいます。この時愛妾深芳野は妊娠していて、生まれた子供の斉藤義龍は自らの身体に流れる土岐氏の血により、父斉藤道三を討ったというエピソードなんかがあったりします。でも、これは中国の故事である、呂不韋と秦王政(後の始皇帝)のエピソードに似ています。美女を与える側ともらう側の役回りが逆転している以外はほぼ同じですね。なので私はこれは後世の付会だろうと思っております。

 1530年(享禄三年)織田達勝が率いる兵三千がおそらくは美濃領を通過して上洛します。これに前後して土岐頼芸は斉藤道三(長井新左衛門尉)と結託して長井長弘を謀殺します。そして、斎藤道三(長井新左衛門尉)が守護代になって、子の左近太夫(新九郎)規秀に代を譲ります。
 このクーデターの直接の契機は織田達勝上洛にあたり兵の通過を認めるか否かだったのではないか、そんな風に思えるのですね。長井長弘を葬った後、今度は実円が率いる三河兵が小一揆征伐のため、美濃領を通過します。織田達勝の場合は、足利義維、細川晴元を支援するものと解釈できますが、大小一揆は単なる本願寺教団の内訌です。そこに抵抗が生じることを察した斎藤道三(長井規秀)が先手を打ったものだと思われます。それと同時に松平家とのパイプが出来上がりました。この後、松平家は織田家との抗争にあたって、斎藤氏と連携するケースもでてきます。

 この直後、本願寺は幕府と戦争して負けますが、ここは空気を読んで対応したと思われます。松平広忠が流亡している間は大きな動きはありませんが、1538年(天文七年)にもう一人の守護代、斎藤利隆が死んだ折、斎藤道三(長井規秀)は斎藤家の名跡を継いで斎藤左近太夫利政となります。道三は号なのですね。
 土岐頼芸が斎藤道三の野心に気付いたのは、自らの居城である大桑城が斎藤軍に取り囲まれた後だと言います。支える重臣はすでになく、一門親族も自らが放逐したり、斎藤道三が暗殺していたりしておりました。美濃国に彼の味方はどこにもおらず、1542年(天文十一年)尾張国に亡命します。このえげつないお家乗っ取りが諸人の顰蹙をかって、斎藤道三は美濃の蝮(まむし)という二つ名を頂戴することとなります。

 これが織田信秀にとっての転機となりました。

1527年(大永 七年)革手城の戦い。土岐頼芸、兄頼純を越前国へ追放。自ら美濃国守護となる。
1530年(享禄 三年)西村勘九郎、長井長弘を攻め殺す。長井新九郎規秀と名乗る。
1538年(天文 七年)守護代斎藤利隆没。長井規秀、斎藤利政と改名。
1540年(天文 九年)朝倉孝景、美濃国侵入。
1541年(天文 十年)斎藤道三、土岐頼満を毒殺する。
1542年(天文十一年)第一次大桑城の戦い。斎藤道三vs土岐頼芸。頼芸、尾張に亡命。
1544年(天文十三年)加納口合戦
          織田信秀、美濃を再攻撃するも、織田彦五郎が古渡を襲ったため、退却。
1546年(天文十五年)斎藤道三と土岐頼芸・頼純が和睦。
1547年(天文十六年)土岐頼純が病死。
1548年(天文十七年)斎藤道三と織田信秀が政略結婚により和睦。

1552年(天文二十一年)第二次大桑城の戦い。斎藤道三vs土岐頼芸。頼芸、甲斐から上総国に亡命。

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