« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月26日 (木)

川戦:崩壊編⑨忠俊の発心Ⅰ

 広忠が死んで、桶狭間合戦後に松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰するまでの期間を三河家臣一同の暗黒時代であり、そんな時代を主君との絆を頼りに生き抜いてきたなんて意味のことが大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』に記されています。かなり恨みがましい文章で、今川家は松平譜代衆に故意に危険な軍役を課し、全員戦死することを望んでいたのではないか、なんてことまで書いてあります。

 実態をみるなら、今川統治下の松平家家臣達の状況については、今川家に厚く遇された者いれば、冷遇された者もありました。酒井忠尚や、石川党等は前者に属するものと見られます。松平家に近い酒井氏や、西三河の門徒衆の束ねとして地元の経済活動に密着している勢力については、今川軍進駐後もその勢いを削ぐことなく、積極的に取り込んだものと思われます。
 また、松平家の菩提寺である大樹寺については、これを勅願寺(天皇の為に祈りをする寺)とし、寺領に守護不入権を与えたりしています。今川義元は今川仮名目録追加において、自らの裁量にて守護領における不入権を認めないと宣言しているはずなのですが、城主不在の岡崎城において大樹寺の寺格を上げることにより、一門衆と家臣団を宥めたのやも知れません。
 阿部定吉は冷遇の範疇に入っていたようです。この年の十一月、阿部大蔵定吉は死にます。広忠暗殺を命じたといわれる佐久間全孝の暗殺を賞する感状を発したのが最後の活動でした。弟の定次は生きており、それ以後も軍功を重ねたと寛政重修諸家譜が謳っておりますが、具体的な記録に残るような活動は見受けられません。ここに阿部家は事実上絶家したと思われます。穿った見方をするならば、広忠がいてこその阿部定吉であり、広忠の死とともにその役目を終えてしまったとも言えます。

 そして大窪家です。『川の戦国史』では仮説に基づいて大窪家を本願寺教団の門徒扱いしておりますのでご注意ください。
 大窪家は合歓木松平信孝に一族の者を仕えさせておりました。広忠の家臣達が広忠に迫って信孝を放逐した時、忠俊は信孝付属の一族衆を引き上げさせました。この事に怒った信孝は大窪家の本拠の和田郷に攻め寄せ、報復のために同地の女子供を拉致して磔刑にしようとしましたが、それに先んじて大窪忠俊は和田郷の縁者達を針崎の勝鬘寺に預けました。勝鬘寺は領主権の及ばない禁域でしたので、本願寺教団に報復を阻まれた信孝は歯噛みして悔しがったといいます。但し、この縁者の最中、根拠地である上和田から切り離され、食糧も行き渡らず過酷なものだったといいます。

 本稿ではこの大窪家の苦難の期間を、安祥陥落1547年(天文十六年)説に基づき考察します。
 三河物語では勝鬘寺への避難期間を一、二年と言っておりますが、その後段に織田信秀が松平忠倫に命じて大窪氏の根拠地である上和田に砦を作らせております。

 その時までに松平信孝は安祥近隣の山崎という地に砦を築いて根拠地にしておりました。安祥城陥落1547年(天文十六年)説をとった場合、信孝の山崎築城は1547年(天文十六年)以前にはありえません。また、本多忠豊が殿軍で戦死したとされる1545年(天文十四年)の『安祥合戦(清畷の戦い:寛永諸家譜図伝には記載なし)』においても、この砦の存在が無視されていますので、実際に信孝が山崎に根拠地を得たのは1547年(天文十六年)頃ということになります。
 信孝は自分を追放した広忠家臣達に報復しようとした時に、附属の大窪一族の離反によってそれを果たせませんでした。信孝の報復を可能にするためには、やはり手足となる部下と根拠地が必要です。織田信秀は安祥城を落しましたが、それと同時に佐々木松平忠倫が広忠に叛旗を翻している所を見るに、放逐されてから、山崎に砦を築くまでの間、松平信孝は織田信秀に資金をもらって地下に潜って調略活動をしていたと考えられます。調略の対象は松平忠倫だけではなく、佐々木上宮寺の門徒衆も入っていたものと思われます。天文の一向一揆後、土呂本宗寺の実円は播磨国英賀本徳寺の経営に重点を移し、三河門徒は伊勢国長島願証寺の指揮下に入りました。その際、西三河の門徒衆の統括するために三河三ヶ寺のうち、野寺本證寺と石山本願寺との接触を深めています。その野寺本證寺の大檀那は石川一族だったりします。前述しましたが、1563年(永禄六年)の三河一向一揆の折、蜂起した佐々木上宮寺の門徒衆のリストの中に、石川一族は含まれていません。松平広忠は石川清兼を家老としていましたが、石川家の影響力は佐々木上宮寺には比較的薄かった結果ではないかと思われます。さらに穿った見方をすれば、酒井忠尚、大原左近右衛門、今村伝次郎らが広忠に反逆するときの言い分、『石川安芸守清兼への遺恨』とは彼らに附属された上宮寺系の門徒家臣の野寺本證寺に対する遺恨なのかもしれません。

 閑話休題。合歓木松平信孝が上和田の大窪一族を襲撃することが可能になったのは、佐々木松平忠倫が上和田に砦を作った時に前後してのことだと考えられます。その年の内に松平忠倫は暗殺され、その翌年小豆坂合戦を経て四月十五日の耳取畷合戦で信孝が討死します。この間、一年弱。正月を挟んでいるので、最大二年と数えることもできます。三河物語の一、二年かろうじて命を繋いだという言葉に合致するわけです。

1543年(天文十二年)          合歓木松平信孝追放。
                       大窪忠俊、信孝附属の大窪一族を信孝から離反させる。
1547年(天文十六年) 二月  四日 大窪(宇津)忠茂没
              六月  六日 安祥城陥落
                       松平信孝、安祥近隣の山崎に砦を作る。
                       松平忠倫、大窪氏根拠地の上和田に砦を作る。
                       大窪一族の妻子、勝鬘寺に避難?
              ?月  ?日 松平忠倫、松平広忠に暗殺される。
                        上野城の攻防。阿部次重討死。
              九月二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                       大窪藤五郎、殿軍で活躍。
                       大窪藤五郎、戦死。
1548年(天文十七年) 三月 十九日 小豆坂合戦
              四月 十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
                       大窪一族の妻子、解放され、上和田に戻る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月24日 (火)

川戦:崩壊編⑧人質から人質へ

 今川義元が吉良氏を攻めたのと同じ年、1549年(天文十八年)の三月六日。松平広忠が死にます。三河物語では病死のように書かれています。私としてもそれを信じたいところですが、種々の史料は暗殺であることを明記しておりますし、定説となっています。
 犯人は岩松八弥。最近読んだ学研新書の『桶狭間合戦の真実』では、広忠殺しの岩松八弥を成敗した植村氏明の家譜(寛政譜)においては、かれは浅井氏もしくは、蜂屋氏出身であると書かれているとありました。浅井も蜂屋も織田家家臣にその姓を持つ者がおり、これは織田からの暗殺を示唆したものではないか。事に八弥とは蜂屋氏を意味しているという見解がありました。興味深い指摘です。
 確かに織田家に浅井という氏をもった家臣はおりますし、織田信長の黒母衣衆に蜂屋頼隆という者がいます。さりながら、浅井という地名は矢作古川の起点である荒川という在所の対岸にもあったりするのですね。確かに蜂屋頼隆は信長の家臣ではあるのですが、彼はどうも譜代ではなさそうなのですね。もともとは土岐氏や斎藤氏に仕えていたといわれています。蜂屋氏の本貫地は美濃国東部の山間部にあるのですね。ここ出身の人が頼隆以外にも流れていたということはありそうですが、同じく三河国にも六名村出身の半之丞貞次という槍の名手が蜂屋姓を名乗っています。なので、浅井、蜂屋という言葉がすぐに尾張国に結びつくのかどうかについては、より深い検討が必要なのではないかと考えるところです。

 尾張国においては、竹千代を傀儡の当主とすべく様々な画策をしました。酒井忠尚などの松平中枢に近い家臣達を味方につけるだけでなく、一門衆からも合歓木松平信孝、佐々木松平忠倫、桜井松平清定・家次らを離反させ、松平広忠を押籠めようと画策しました。それを跳ね除けたのは広忠の意思だけではなく、今川義元と太原崇孚の戦略眼にあったと思われます。
 今あげた織田方の寝返組はことごとく、跳ね除けられすでに織田信秀は自分自身で今川軍と後詰合戦を戦ってしまいました。代理戦争をやってくれる不満分子は使い切っていないのです。
 となれば、織田側の戦略を広忠押籠めから一段あげることが考えられてもおかしくはありません。清康のように暗殺することです。今川家と松平家の関係を絶つ為には、今川家に依存している松平広忠を排除する。しかし、この判断は遅すぎです。やるなら小豆坂の前に行うべきだったでしょう。
 いわば、竹千代拉致を思い立った『戸田康光』のように、自爆の危険性のある策でした。これは結果として今川を利しています。なので竹千代拉致や広忠暗殺も、実は今川義元と太原崇孚の鬼手なんじゃないかとも考えてしまうのですが、これはさすがに結果からものを見すぎかもしれません。
 そう思わせられるだけ今川家のフォローが的確かつ強力なのです。広忠がいなくなった岡崎城に竹千代を担いだ織田信秀が入城なんて、今川義元にとって悪夢以外にないでしょうし、三河奪取がほぼ完了しつつあるこの段階でそんなリスクを犯す必要などないと思います。

 広忠の訃報を聞くや否や、今川義元は太原崇孚を岡崎城に入城させます。そして一気に安祥城に攻撃をかけました。安祥城を守っていたのは織田信広。信秀の長子です。彼は突然の今川軍の猛襲にたえきれず、捕虜となってしまいます。安祥城は森城という別名のある森に囲まれた城です。障害物が多く見通しも悪そうですね。そんな城から城主を捕虜にするということは、余程大軍で囲んだものと思われます。それでも激戦だったらしく、この攻防において本多忠豊の子である本多忠高が戦死しております。安祥城は本多親子にとっての鬼門だったようです。しかし、その勇猛さはその子孫である本多平八郎忠勝に受け継がれ、現代において『戦国無双』のゲームで大活躍するに至ります。
 そして織田信秀と交渉して竹千代と織田信広を交換しました。この一連の動きは鮮やかで、これによって今川家は三河国完全掌握の総仕上げとしました。
 松平家臣達は竹千代奪還に沸き立ちました。本多忠高が死を賭して安祥で戦ったのも、竹千代奪還が望みだったからです。しかし、今川義元はそれを許すほど甘くはありませんでした。今川義元は岡崎城に自らの配下を城番として置き、竹千代は人質として駿府に送られることになりました。織田の人質から今川の人質です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

川戦:崩壊編⑦吉良さんちの家庭の事情Ⅲ

 過去に二回、このタイトルで吉良家の動向を描いてきました。今回もまず吉良家系図をだしておさらいと、この時点での動向を述べたいと思います。

(東条)持清―+―持広―+―吉次(西尾氏)
         |      |
         +―義広 +=義安
        (荒川)

(西条)義信―○―義堯―+――義郷
                |
                +――義安(東条吉良・統合吉良二代)―……―吉良義央
                |
                +――義昭(統合吉良初代)

 吉良家は戦国時代以前から東条家と西条家の二家に分かれており、応仁の乱においては、東条家が西軍、西条家が東軍に分かれておりました。戦国期においては常に西条家が東条家を圧している形になっております。それは西条家が斯波家と仲がよかったからだったりします。それに対抗して東条家は今川家に接近します。清康の代においては、松平家は西条家と仲がよかったりするのですが、仙千代(広忠)が松平信定から逃れて流亡中、保護をしたのは東条家の持広でした。西条家はそれを口実に、登場家を攻め、持広の子吉次を人質にとって織田家へと人質に送ってしまいます。そして、持広の後継者を西条家から出すことに決めてしまいました。事実上の東条家の絶家です。東条家出身の荒川義広はそれに納得せずに蜂起し、西条吉良義郷が討ち取られたものの、義安が後を継ぎ手打ちがなったようです。実質的に東条家は西条家の手に落ちたままでした。

 織田家による安祥城侵攻に端を発した松平家の内訌は今川家の介入を呼び込み、1548年(天文十七年)に小豆坂合戦が起こります。この時、今川家は三河国を取りに来ていました。翌1549年(天文十八年)、今川義元は吉良家を攻めます。もともと、足利氏の系図上、今川家は吉良家の分家という位置づけでした。よって、『足利氏から将軍が出せなくなれば、吉良氏が、吉良氏から立てられなければ今川氏より将軍を立てるべし』という誰が言い出したのかよく判らない言葉が後世に残ったりしています。
 今川義元本人にそんな自覚があったかどうかは不勉強で判りませんが、彼は少なくとも吉良氏や足利将軍家の誰よりも有能な戦国大名だったことは間違いありません。その功績の大きな部分を太原崇孚に負うとしてもその輝きは些かなりとも毀損されることはないと思います。ただし、それと今川義元に上洛の意志があったかどうかはまた別の問題であるでしょう。

 この時の東条吉良氏は西条家から養子に入った義安が当主であり、西条家の義昭と協同の体制がとられていました。東条吉良家の荒川義広は初めから親今川です。彼我の差は圧倒的だったでしょう。両吉良家は今川義元に屈服します。
 戦後処分として、東条吉良義安は今川家の捕虜として駿府送りになりました。これは織田家に人質に取られた東条吉良持広の子、吉次(おそらく世が世なら義継と言う名になっていたやもしれません)の件に対する報復であったと思われます。そして今川義元の意向により、東条や西条という屋号は無くなり吉良家一家に統一され吉良義昭が統括することになりました。無論、義昭はとうに今川家に屈服しております。吉良義安は駿府で十年以上を空しく過ごすことになります。

 余談ですが最終的に、1560年(永禄三年)の桶狭間合戦で今川義元は死に、1563年(永禄六年)の三河一向一揆で、吉良義昭と荒川義広は一揆側に加担したために、徳川家康によって三河国から追放されます。その吉良氏の家督はともに今川家で人質生活を過ごした吉良義安の下にころがりこんだといいます。この義安は人質生活中の松平竹千代(徳川家康)と仲がよく、元服時には理髪役を務めたというのですから、人の縁というものは全く判らないものですね。吉良義安の血統は赤穂事件で被害者となる吉良上野介義央にまで続くこととなります。

 この1549年(天文十八年)の吉良処分によって、今川家は矢作川以東の三河国を事実上掌握したといっていいでしょう。そして、その支配が仕上げにかかるまでにはあと僅かなプロセスを踏む必要がありました。

1535年(天文 四年)守山崩れ。
1536年(天文 五年)西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
          持広、仙千代を保護する。
1537年(天文 六年)松平広忠、岡崎城復帰。
          西条吉良義郷、今川義元に破れ、戦死。義昭が家督を相続。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。
1549年(天文十八年)東条吉良義安、今川家の捕虜として駿府送り。
          今川義元の意向により、吉良家は義昭によって統一。
1560年(永禄 三年)桶狭間合戦。今川義元死去。
1564年(永禄 七年)三河一向一揆終結。吉良義昭、三河追放。義安、後を継ぐ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月17日 (火)

川戦:崩壊編⑥仁義なき戦い(小豆坂合戦を中心として)

 竹千代を手に入れた信秀は当然、広忠を調略しようとしたことでしょう。無駄に血を流さずに岡崎城まで傘下に入れられれば、竹千代奪取に大金を投じた甲斐もあろうという物です。しかし、松平広忠はその選択肢を選びませんでした。その決断には叔父内膳の前例があったのではないか、私はそんな風に想像します。

 1547年(天文六年)に岡崎城でクーデターが起こった時、桜井松平内膳信定は戦う事を選びませんでした。その結果冷遇を受け、自らの子や孫の叛乱の種を産みました。戦えない事情があったものとは思われますが、戦わなかったこともまた自滅に向かう要因であったことには変りません。
 それに比べれば、広忠には戦う理由と意思と能力がありました。織田家の要求は誘拐犯の要求に従うことであり、それに易々と従えば今後も同じような手口が繰り返されるでしょうし、従うこと自体が松平家惣領の権威の低下を招きます。ただ、人質を見捨てるということは苦渋の決断だったろうことは想像に難くありません。
 松平広忠は織田信秀の要求を拒否しましたが、それだけで今川家の信頼は勝ち取れません。戦いを仕掛け、その実を挙げる必要がありました。そして出来うる限り早期に戦果を上げなければなりません。その為に手段を選んでいる余裕もありませんでした。それに広忠が多少道義に外れることをしたとしても、先に非道を成したのは織田家の方です。
 生贄に選ばれたのは上和田の砦を押さえた佐々木松平三左衛門忠倫でした。上和田は岡崎城の南方にある要衝です、ここを押さえられていては、安祥のある西に出られません。これを排除するために、広忠が採用した手段は暗殺でした。この時代、将の暗殺というのはあまり珍しいことでもありません。細川高国が浦上村宗と播磨で挙兵した1529年(享禄三年)、迎撃のために柳本賢治が迎撃のために京より摂津に下りましたが、暗殺の憂き目にあって軍は瓦解。その余勢をかって細川高国・浦上村宗の連合軍の勢いは京にまで及んだことがあります。但し、暗殺の効果はあくまでも一時的なものに過ぎず、暗殺をやった方の評判は確実に落ちます。戦国時代に合戦が絶えないのは、武威を見せつけないと諸将や民は服さないという実態のあらわれなんじゃないかな、と思われます。
 ともあれ、松平忠倫は広忠の命に従った筧重忠の手により、討ち取られました。これによって、広忠は出陣中に本拠である岡崎城の出陣中に南から攻め込まれる恐れがなくなりました。

 その間隙をぬって広忠は酒井忠尚・桜井松平家次が立てこもる上野城を陥落させます。この時に、阿部大蔵定吉の甥である、阿部次重が戦死し、六名の阿部家は後継者を失っています。この戦いで酒井忠尚は許され、上野城主をまかされます。ということは、本来の上野城主である桜井松平家次は城を失ったことになります。このあたり、未だに一門衆より家臣団を重用する体質を引きずっているといえるかもしれません。
 1547年(天文十六年)九月二十八日、松平広忠は安祥を攻めるべく矢作川を渡河しました。迎撃するのは山崎の砦に籠る合歓木松平蔵人信孝です。両者が激突した地名よりこの戦いは渡河原合戦と呼ばれますが、この戦いは松平信孝が勝ちました。この戦いで五井松平外記忠次が戦死したと伝わっております。

 安祥城陥落をきっかけに始まった松平家の内訌は二勝一敗。しかし、安祥城を取り戻す余力はありませんでした。この間に、今川義元は太原崇孚に田原城を落とさせています。そして、松平広忠があげた戦果を良しとして、人質抜きで援軍を出しました。酒井忠尚や松平忠倫、家次らは倒しましたが依然として竹千代は織田信秀の手中にあり、松平信孝は健在であって、これ以上の放置は広忠を織田方に寝返らせかねないという判断があったものと思われます。
 時に渡河原合戦の翌年、1548年(天文十八年)三月十三日、主将は今川義元の軍師、太原崇孚で駿遠と東三河の連合軍を三河国に入れ、藤川まで着陣します。
 その動きをみた織田信秀は安祥を進発し、東進して矢作川を渡河、上和田砦で夜明かしして明朝馬頭原での合戦を想定して、未明に上和田をでます。その途上、小豆坂で両軍が遭遇して戦いが始まりました。この両軍の激突は決着がつかず、両軍撤退でおわりましたが、織田軍の方は安祥まで戻り、今川軍は藤川まで兵を引きました。
 一見、引き分けのようにも見える戦いではありますが、現状維持は守備側、つまり松平側の後詰である今川軍の軍事目的は達成できたが、織田軍は失敗したといえるでしょう。これによって織田側にとっては矢作川東岸での軍事行動が難しくなりました。

 信秀が安祥まで引き、今川軍が藤川に兵を置き、後詰軍が対峙する間で当事者通しで戦ったのが耳取畷の合戦でした。合歓木松平信孝が矢作川を渡河、明大寺経由で岡崎城を目指そうとしたところを、広忠軍が捕捉。これに矢を浴びせかけ、松平信孝は討死し、信孝軍は敗北します。広忠本人は信孝の生け捕りを期待しておりましたが、合戦中での生け捕り命令はなかなか難しいものです。
 また、織田・今川両軍がにらみ合う中での両者の決戦はどちらかというと、信孝の無謀な突進ばかりが目につきます。これはどうも小豆坂合戦直後から戦後処理の話が織田・今川両軍の間であったのではないかと思われます。その過程において、信孝は居場所を失い、自害のような突撃をくわえたのかもしれません。信孝を討ち取った広忠は号泣したといいます。この僅か一年ばかりの間に一門衆や有力家臣の多くが死にました。松平家の屋台骨を支えていた人々があまりにもあっけなく、この世を去っていったのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月10日 (火)

川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び

 松平家の嫡男が人質として城を出るということはかつて無かった事でした。
 似た例としては人質に出す広忠自身が正式に家督を継ぐ以前に阿部大蔵定吉の手によって岡崎を脱出し、三年間の流亡の旅にでたことでしょうか。その時も松平家は二つに分かれて対立しましたが、それを仲裁したのは長老の道閲でした。今、岡崎城は松平忠倫、松平信孝ら一門衆に攻められていますが、それを仲裁する長老はいません。(仮にいたなら、安祥失陥の責をもって信忠のように押籠められていたかもしれませんが)

 いずれにせよ、松平広忠は自立する領主としては大きな汚点が付きました。堕ちた信用は自力で回復することはできません。松平家当主としての立場を保全するためには、その立場を保証してくれる権威が必要でした。その為に求めたのが今川家です。
 今川家は逆に松平家の家風を調べぬいていました。松平家は幼君を戴いて結束すること、一門や家臣の信を失ったり、危うい立場に追い込む当主は押籠められたり、斬られたりして幼君に取って代わられていることを理解していたのです。そして今、松平広忠はかつての信忠や清康と同じ危地に立っていました。
 広忠本人がそれに気づいていたかどうかは不明です。しかし、今川義元とその軍師である太原崇孚の目にはそれがはっきりと映っていたものと思われます。
 この人質取りは単に主従関係成立の証としてだけあるのではありません。今川義元が松平竹千代を保護することによって、松平広忠が抱える内憂を取り除き、外患である織田家に対する備えに専念させる意図があったのです。
 その意図に家臣達は気づいていました。竹千代の駿河行きに随行した者の数は二十八名と言います。小姓をはじめとした家臣の親族達で、いざと言う時には竹千代を担いで三河に馳せ戻ることを期待されていた者たちであろうと思われます。わずか六歳の童子に小姓もいるとは言え、二十八名ものボディーガードが付くというのは異様な光景ではなかったかと思われます。軍勢でも従えていればもう少しサマになるかもしれませんが、人質を送る旅であれば相手の手前、そうも行かないでしょう。

 その道中、竹千代は同行の家臣達と同じ事を考えていたろう者に出会います。竹千代の義理の母、真喜姫の父である戸田康光です。戸田康光もまた、娘の真喜姫を岡崎城に送り込み、信望を失った広忠にかわって、松平家の代替わりを機に主導権を握ろうと考えていたものと思われます。彼が想定していたのはおそらくは七年後。竹千代が十三歳になる1555年(弘治元年)頃ではなかったかと予想されます。
 但し、実際には彼に残された時間はありませんでした。その時間を早めたのが今川義元と織田信秀の確執です。広忠の岡崎帰城のどさくさにまぎれて折角牧野成敏から奪った吉田(今橋)城は今川軍に奪われ、その当時は太原崇孚が城代を務めておりました。西からは松平一族の最重要根拠地であった安祥が攻め落とされ、それを囲むように一門衆が織田方に寝返り、岡崎に迫ります。松平広忠は竹千代を質に入れて今川家に後詰を請わねばならないところまで追い込まれたのでした。
 竹千代が今川家の人質になることは松平家が今川家の傘下に完全に入ることと同義です。そうなってしまえば、戸田康光が松平家の奥向きに介入する余地は完全に消えてしまいます。
 竹千代一行が戸田康光の根拠地である田原に立ち寄った時が最後のチャンスでした。この状況下で戸田康光が出来ることは限られています。それが竹千代を拉致して織田信秀の下に送り込むことだったわけです。

 結果から見れば無謀な企てであり、戸田康光は息子の尭光とともに、太原崇孚の手によって田原城にて討たれました。しかし、竹千代はとっくに織田信秀の手に落ちていたわけです。吉田(今橋)城を陥とされて自棄に陥った結果、自らが仕掛けたものの放棄せざるを得なくなった策が、どのような結果をもたらすのかを見たいと考えたのかもしれません。でも、そんな破滅志向の人間が戦国時代にそう何人もいるわけはないですよね。
 実際はもっとシンプルなことなのではないかと思われます。策を仕掛けたのは康光かもしれませんが、それをこのタイミングで実行に移したのは康光ではないということです。誰かが阿部定吉を真似、田原で竹千代の身を確保し、西に走った。信秀らの信用を得るために康光の名は騙られたに過ぎないということではないでしょうか。1535年(天文四年)、『織田信秀』が尾三連合の綻びを修復するために井田野に攻め込んだのと同じく、1547年(天文十六年)九月五日、松平家との同盟を維持するため、今川義元は田原城を攻め落としました。竹千代拉致の翌月のことです。今川家にしてみれば、吉田(今橋)を押さえた後に、田原まで抑えてしまえば今川家は東三河により大きな影響力を及ぼすことが出来ます。竹千代拉致の報復という大義名分もあり、それは侵略とは見なされないという計算も働いたかとも思われます。結果として戸田康光は井田野合戦の直後に死んだ阿部道音と同じ形で死を迎えたということでしょう。
 信秀は戸田康光に大金を与えたとあり、その金額は千貫文、五百貫文、百貫文と諸説あります。三河国奪取の鍵になる竹千代であり、独占するために有無を言わせない金額を提示したのでしょう。しかし、これほどまでの大金を田原に運ぶ手段と時間があったかは疑問です。伊勢神宮や禁裏への寄進は名分あるものですが、この金はダーティー・マネーですよね。受け取り手はすぐに滅ぼされています。田原から熱田までの往復にかかる日数。今川軍が田原を囲んだタイミングを考えれば、戸田康光にはその金を使う暇はなかったでしょうし、その金の行方は良い小説ネタになりそうです。

 戸田事件後の様相は広忠が幼い頃に流亡した頃の状況と瓜二つです。流亡の仙千代は阿部定吉に連れられ、駿河の今川義元の援助を得て復帰運動を起こします。岡崎城では大窪忠俊や松平信孝が味方になってクーデターを起こし、松平一門を率いていた桜井松平信定を屈服させました。
 今、拉致された竹千代は戸田康光の手引きによって、尾張の織田信秀の籠中に入ってしまいました。この後、竹千代の復帰運動と称して、酒井将監忠尚や、佐々木松平三左衛門忠倫、合歓木松平蔵人信孝を味方に岡崎城の奪取を図ろうとすることは確実です。

 気づいた時には松平広忠自らが桜井松平内膳信定の立場に立たされていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 5日 (木)

川戦:崩壊編④松平軍団分裂

 安祥城の失陥は松平一門と家臣団に重大な衝撃を与えました。そして同時に織田信秀の調略の手が彼らにも伸びていたのです。
 まずは、一門衆から紹介すると、1543年(天文十二年)に追放された合歓木松平信孝。彼は追放後も三河に留まり、安祥城に程近い大岡(現安城市山崎町)に城を構えます。
 次に上宮寺のある佐々木を領する松平三左衛門忠倫が大窪氏の根拠地である上和田に砦を築いてこもります。佐々木松平氏は系図史料にも出てこないのですが、どうやら広忠の叔父か従兄弟に当たる人物であるようです。忠倫は彼の代で血統が絶えてしまい、かつ宗家に反逆したまま絶家したため家譜から外されてしまったようです。彼は信孝とは違って反逆の理由は定かではありません。
 佐々木上宮寺は本願寺教団の拠点である三河三ヶ寺の一つです。ここを根拠地としている松平家は当然、門徒達を被官化しているものと思われますが、その本願寺教団門徒衆の束ねである石川清兼は松平広忠の家老を勤めているのですね。奇妙なので後におこった三河一向一揆において上宮寺に籠ったメンバーを調べてみると、石川党は一人もいないのです。その他の三ヶ寺と土呂本宗寺にはいるにもかかわらずです。佐々木上宮寺は佐々木如光と蓮如との縁で発展したので、石川家に頼らず発展したものと思われます。
 三人目は上野城にいる桜井松平清定です。桜井松平信定の跡継ぎでしたが、叛旗を翻した時点でどうも戦闘に耐えうる体調ではなかったようです。この前後に清定は亡くなっているようなのですが、討死とか暗殺とかの記録がありませんので、そう判断せざるを得ません。息子の家次を押し立てての参戦でした。ただ、家次は広忠と曽祖父(長親)を同じくする同世代で、桜井家は信忠の弟の家系です。しかもこの時広忠は二十歳ですから、家次は十代そこそこだったと思われます。
 信孝と清定の反逆の理由はわりとはっきりしてますね。広忠をとりまく家臣団の専横に対する不満として間違いはないでしょう。
 こういう時に家臣団と一門衆の間に立って調停する長老である道閲(松平長親)は既に亡くなっています。その他長老の地位を引き継ぐであろう、超譽存牛も道閲の死の翌年、1545年(天文十四年)に隠棲先の松平郷にある高月院で入寂。松平長家も安祥の城で討ち死にしました。わずか三、四年ばかりの間のことです。松平一族は分裂を押し止める立場の者達がことごとくいなくなっていたわけです。

 一方家臣団も安祥城の陥落を契機に内訌を始めます。酒井左衛門尉が岡崎城に現れて石川安芸守清兼と酒井雅楽助正親に遺恨があり、広忠に切腹させよと迫ります。広忠がこれを拒むと、大原左近右衛門、今村伝次郎を連れて反逆したのです。
 酒井左衛門尉は酒井将監忠尚もしくは酒井左衛門尉忠次(当時二十歳)のどちらかであると言われておりますが、確定する材料がありません。酒井忠尚は忠次の伯父とも従兄弟ともいわれております。酒井忠次はこの頃まだ左衛門尉を名乗っておりませんし、酒井忠尚は家系から言って左衛門尉を名乗っていい立場なんですが、なぜか将監とよばれています。忠尚は後に三河一向一揆で家康に反逆しますし、忠次は後の徳川四天王の一人です。どちらがここでの左衛門尉であっても面白いのですが、ここでは年長の忠尚で語りたいと思います。理由は後述します。
 安祥の失陥で岡崎と三河湾の大浜を繋ぐラインが分断することは松平家にとっては致命傷と言っていい事態です。酒井忠尚が石川清兼・酒井正親に向けた遺恨の具体的なところは不明ですが、政権基盤である安祥城が織田信秀に奪われたため、潜在的な諸問題が一気に表面化したのでしょう。直近の問題点としては、安祥が敵地と化した今、近隣に住する人々に対しどのような手当てを施すのかということではないかと思われます。
 石川清兼は松平家の台所を担っていたと思われます。どうも彼らに対して充分な補償が出来なかったと見ていいでしょう。にべもない返事を返されればそれぞれに家を持ち一族郎党を抱える家臣達は激昂したに違いありません。酒井家は松平家代々の老臣の家柄であるのに、石川・酒井の順で史料はかかれています。これは酒井正親が石川清兼の婿であるためと理解すればよいでしょう。
 流亡中の仙千代(広忠)帰還に功績があったものが重用されて、そうでないものは冷遇された不満もあったという話もあるのですが、大原左近右衛門も岡崎城のクーデターの立役者の一人です。誰かの憤懣の中にそういう思いはあったとは思われますが、これだけではないと思われます。
 結果的に広忠は酒井忠尚の要求をはねつけ、酒井忠尚は広忠に叛旗を翻します。そして織田信秀の指示によって、桜井松平清定・家次親子がいる上野城に立てこもったのです。
 この上野城篭城軍の指揮は酒井忠尚がとりました。本来であれば桜井松平清定が取るべきなのですが、清定はこの前後に亡くなっているところを見るに指揮を取れない状況だったと考えられます。桜井松平家は家次が指揮すべき立場となっていましたが、彼はおそらくは広忠(二十歳)と同年代か少ししただと思われます。反逆の指揮者としては若すぎると見られたため、酒井左衛門尉が指揮を任されたのでしょう。ちなみにこの時、酒井忠次も二十歳です。上野城主である家次の替わりに軍の指揮をとるというには年齢差がなさすぎだと思いますので、酒井忠尚が酒井左衛門尉としていいのではないかと考える次第です。岡崎城の西方の安祥城には織田信広が入り、その支城である山崎城には松平信孝がいます。西北の上野城には松平清定・家次に酒井忠尚が籠り、南方の上和田に松平忠倫が砦を築きました。
 安祥城の落城の結果、松平家とその家臣団は親織田、親今川で二つにわかれそれぞれが岡崎城を巡って押しあいをする展開となっております。まさに、1548年(天文十七年)三月十一日付北条氏康書状に描かれている状況が現出したわけです。
 これはもう岡崎城の松平広忠と彼を支える阿部定吉、石川清兼、酒井政親、大窪忠俊らの手に負える状況でなくなってきたわけです。この状況を打破するために、手段を選んでいる暇はありませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 3日 (火)

川戦:崩壊編③真・安祥城陥落Ⅱ

 1547年(天文十六年)、織田信秀は安祥城を攻撃し、落城せしめました。前年に窮鳥として懐に飛び込んできた土岐頼芸と斉藤道三との和睦がなっております。その前の年には守護代織田大和守達勝・彦五郎信友らとも平手政秀の仲介により和睦しており北方の憂いはひとまず消えております。自らの拠点も古渡からさらに三河よりに移って末森に城を構えました。水野信元を筆頭とする刈谷・緒川の水野一族も織田信秀につき、東征の準備は万端となりました。
 1540年(天文九年)説では先に松平広忠が尾張国鳴海に攻め込んだとありますが、水野一族の支援なくして鳴海に到達しうるとは少々考えにくいです。逆に元服したばかりの信秀の息子の信長の方が同盟を結んだ水野一族の支援の下に三河国大浜を襲ったりしております。1546年(天文十五年)のことです。この期間中、織田信秀が取ってきた戦術は調略でした。1544年(天文十三年)には水野信元を味方に引き込み、1545年(天文十四年)には織田守護代家と和睦し、1546年(天文十五年)には斉藤道三との戦いに終止符を打っています。信秀の調略の手は三河国にまで伸びているのですが、それは次稿で述べます。
 安祥城を守備するのは松平長家をはじめとする松平軍。しかし、水野氏(おそらくは信元)と連携した織田信秀勢に五十名の戦死者をだして安祥城は陥落しました。その戦死者についてのプロフィールを紹介します。

☆松平長家
 松平親忠の子であり、長親(道閲)、超誉存牛の弟にあたります。超誉と同い年だとすると七十八歳。松平親忠最晩年の子であるとすれば、四十六歳(1547年・天文十六年説にたった場合)になります。ただ親忠の最晩年というのは六十三歳ですからそれはありえなさそうです。普通に考えて還暦は越えてるでしょう。人間五十年のこの時代を考えれば、親忠の子供達は本当に長命です。

☆松平信康
 家康の嫡男と同じ名前を持つ人物で、広忠の弟です。広忠と同い年だと仮定し、1540年(天文九年)説に立つと十四歳。安祥という要衝を老人と子供に守らせていたことに成ります。1547年(天文十六年)説に従えば二十一歳で、大将として様になる年齢ですね。実際にはもう少し若かったのかもしれません。それを一族の長老の一人である長家が支えたというところであるかのように思われます。

☆松平康忠
 甚六郎と呼ばれ、長家の弟の張忠の息子。矢田を領したとされます。世代的には信忠の従兄弟に当たります。

☆林藤助忠満、成瀬正頼
 松平広忠が元服前に流亡した折に岡崎城でクーデターを起こした大窪忠俊に加担したメンバーです。

☆内藤善左衛門、近藤与一郎
 このあたりについては余りデータはありません。近藤という姓には三河物語の中に広忠が岡崎に復帰した頃のエピソードがあります。清康の死をきっかけに勢力を大きく落とした松平家臣は自ら農作業をせざるをえない状況にありました。広忠がそれを見つけて自らの不甲斐なさを詫びるとともに、それでも自分に仕えてくれる譜代家臣に涙を流したとあります。その本人である可能性は低いとは思われますが、丁度いい機会なので書いておきます。

 以上が1540年(天文九年)六月安祥城落城説で語られる主だった戦死者ですが、『安祥の戦い』においてはさらに重要人物が死んでいます。

★大窪藤五郎
 宇津忠俊に自らの氏を名乗らせた越前出身の驍勇の士。彼は忠俊が自分の氏を継いでくれたことに満足し、安祥城攻防の死線に身を投じました。安祥城陥落の折に死んだわけではなく、その後渡河原の戦いで殿軍を引き受けたエピソードもあります。彼の死はその後の安祥城の攻防においてと思われます。忠俊の年齢(四十八歳)から考えて、すでに第一線は引いているとは思われます。川の戦国史では根拠もなく彼を本願寺教団門徒として描写しておりましたが、もしそうであれば大窪藤五郎は口で言った『満足な死』とは裏腹の、自ら死地を求めた非業の最期だったように見えます。

★本多忠豊
 実をいうと安祥陥落を1547年(天文十六年)に持ってくることには多少のきつさを感じております。きつさを感じさせる論拠の一つが1545年(天文十四年)に死んだ本多忠豊の事跡なんですね。本田忠豊は徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父に当たる人物です。寛政重修諸家譜には安祥城の奪還を企図して松平広忠が出陣したものの、織田方にいち早く察知されて防御体制をとられたばかりか、攻撃陣を崩されてしまいます。主君のピンチに忠豊は殿軍を買ってでて討ち死にするわけなんですが、同じ家譜史料でも先に出来た寛永諸家系図伝はもっとそっけなく、1545年(天文十四年)に安祥畷にて戦死とだけ記されているのですね。攻城戦とも守城戦とも言っておりません。
 忠豊殿軍のエピソード自体、寛永年間から寛政年間の間に作られたものくさいのですね。(無論、この間に新史料が発掘されて採用されたのかもしれませんが、管見では出所が不明です)さりながら、寛永諸家系図伝が1545年(天文十四年)と言っていることは決して無視できません。1545年(天文十四年)の安祥合戦話が『作られる』以前の伝承なのですから。
 強いて1547年(天文十六年)説に話を合わせるとすれば、本多忠豊は1547年(天文十六年)の安祥城落城時に城にいて討死しており、安祥で戦死した伝承は残っていた。しかし、甫庵版信長記には小豆坂合戦が1542年(天文十一年)にあり、その時織田信秀軍は安祥から軍を出したことになっており、その時までに安祥城が落城していなければならなかった。しかし、本多家には1545年(天文十四年)までの本多忠豊の生存が確認できる史料があり、やむを得ず1545年(天文十四年)に安祥畷で戦死となったのではないか、と思います。(あくまでも推測でありこじつけです。)

★阿部次重
 彼が死んだのは安祥城の戦いではなく、それに派生する上野城の戦いにおいてでした。阿部大蔵定吉の甥です。その二年後に定吉も死にます。次重の父定次は本能寺の変の年まで生き、戦功を残したと伝えられますが、なぜか具体的な活動が記録されておりません。また、定次には次重以外に子供を設けていないのですね。後半生の長さを考えるといささか奇妙です。定次の天正十年死亡記事はひょっとしたら天文十年の誤伝なのではないかと疑ったこともありますが、確証はありません。彼の死をもって、六名の阿部家は事実上断絶するのですが、戦後に同じ1547年(天文十六年)の安祥城の戦いで活躍し、弓の名手として名を残した大窪忠政を阿部定次の養子として迎え、大久保家の支族として六名阿部家は存続します。

★宇津(大久保)忠茂
 大窪忠俊の父親です。彼は1547年(天文十六年)二月に亡くなっております。安祥合戦の始まる前で、直接関係ないのですが、ここまで見てゆくに林藤助忠満、成瀬正頼、大窪藤五郎、阿部次重と大窪忠俊に関わる人間がこの年に実にたくさん死んでいるわけですね。世代交代かも知れませんが、忠俊は大きな孤独を感じたのではないでしょうか。そしてこれが後の長福寺への帰依につながるのではないか。そんな風に思っております。宇津忠茂は長福寺に葬られた大久保(大窪ではない)一族の第一号となりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »