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2009年2月26日 (木)

川戦:崩壊編⑨忠俊の発心Ⅰ

 広忠が死んで、桶狭間合戦後に松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰するまでの期間を三河家臣一同の暗黒時代であり、そんな時代を主君との絆を頼りに生き抜いてきたなんて意味のことが大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』に記されています。かなり恨みがましい文章で、今川家は松平譜代衆に故意に危険な軍役を課し、全員戦死することを望んでいたのではないか、なんてことまで書いてあります。

 実態をみるなら、今川統治下の松平家家臣達の状況については、今川家に厚く遇された者いれば、冷遇された者もありました。酒井忠尚や、石川党等は前者に属するものと見られます。松平家に近い酒井氏や、西三河の門徒衆の束ねとして地元の経済活動に密着している勢力については、今川軍進駐後もその勢いを削ぐことなく、積極的に取り込んだものと思われます。
 また、松平家の菩提寺である大樹寺については、これを勅願寺(天皇の為に祈りをする寺)とし、寺領に守護不入権を与えたりしています。今川義元は今川仮名目録追加において、自らの裁量にて守護領における不入権を認めないと宣言しているはずなのですが、城主不在の岡崎城において大樹寺の寺格を上げることにより、一門衆と家臣団を宥めたのやも知れません。
 阿部定吉は冷遇の範疇に入っていたようです。この年の十一月、阿部大蔵定吉は死にます。広忠暗殺を命じたといわれる佐久間全孝の暗殺を賞する感状を発したのが最後の活動でした。弟の定次は生きており、それ以後も軍功を重ねたと寛政重修諸家譜が謳っておりますが、具体的な記録に残るような活動は見受けられません。ここに阿部家は事実上絶家したと思われます。穿った見方をするならば、広忠がいてこその阿部定吉であり、広忠の死とともにその役目を終えてしまったとも言えます。

 そして大窪家です。『川の戦国史』では仮説に基づいて大窪家を本願寺教団の門徒扱いしておりますのでご注意ください。
 大窪家は合歓木松平信孝に一族の者を仕えさせておりました。広忠の家臣達が広忠に迫って信孝を放逐した時、忠俊は信孝付属の一族衆を引き上げさせました。この事に怒った信孝は大窪家の本拠の和田郷に攻め寄せ、報復のために同地の女子供を拉致して磔刑にしようとしましたが、それに先んじて大窪忠俊は和田郷の縁者達を針崎の勝鬘寺に預けました。勝鬘寺は領主権の及ばない禁域でしたので、本願寺教団に報復を阻まれた信孝は歯噛みして悔しがったといいます。但し、この縁者の最中、根拠地である上和田から切り離され、食糧も行き渡らず過酷なものだったといいます。

 本稿ではこの大窪家の苦難の期間を、安祥陥落1547年(天文十六年)説に基づき考察します。
 三河物語では勝鬘寺への避難期間を一、二年と言っておりますが、その後段に織田信秀が松平忠倫に命じて大窪氏の根拠地である上和田に砦を作らせております。

 その時までに松平信孝は安祥近隣の山崎という地に砦を築いて根拠地にしておりました。安祥城陥落1547年(天文十六年)説をとった場合、信孝の山崎築城は1547年(天文十六年)以前にはありえません。また、本多忠豊が殿軍で戦死したとされる1545年(天文十四年)の『安祥合戦(清畷の戦い:寛永諸家譜図伝には記載なし)』においても、この砦の存在が無視されていますので、実際に信孝が山崎に根拠地を得たのは1547年(天文十六年)頃ということになります。
 信孝は自分を追放した広忠家臣達に報復しようとした時に、附属の大窪一族の離反によってそれを果たせませんでした。信孝の報復を可能にするためには、やはり手足となる部下と根拠地が必要です。織田信秀は安祥城を落しましたが、それと同時に佐々木松平忠倫が広忠に叛旗を翻している所を見るに、放逐されてから、山崎に砦を築くまでの間、松平信孝は織田信秀に資金をもらって地下に潜って調略活動をしていたと考えられます。調略の対象は松平忠倫だけではなく、佐々木上宮寺の門徒衆も入っていたものと思われます。天文の一向一揆後、土呂本宗寺の実円は播磨国英賀本徳寺の経営に重点を移し、三河門徒は伊勢国長島願証寺の指揮下に入りました。その際、西三河の門徒衆の統括するために三河三ヶ寺のうち、野寺本證寺と石山本願寺との接触を深めています。その野寺本證寺の大檀那は石川一族だったりします。前述しましたが、1563年(永禄六年)の三河一向一揆の折、蜂起した佐々木上宮寺の門徒衆のリストの中に、石川一族は含まれていません。松平広忠は石川清兼を家老としていましたが、石川家の影響力は佐々木上宮寺には比較的薄かった結果ではないかと思われます。さらに穿った見方をすれば、酒井忠尚、大原左近右衛門、今村伝次郎らが広忠に反逆するときの言い分、『石川安芸守清兼への遺恨』とは彼らに附属された上宮寺系の門徒家臣の野寺本證寺に対する遺恨なのかもしれません。

 閑話休題。合歓木松平信孝が上和田の大窪一族を襲撃することが可能になったのは、佐々木松平忠倫が上和田に砦を作った時に前後してのことだと考えられます。その年の内に松平忠倫は暗殺され、その翌年小豆坂合戦を経て四月十五日の耳取畷合戦で信孝が討死します。この間、一年弱。正月を挟んでいるので、最大二年と数えることもできます。三河物語の一、二年かろうじて命を繋いだという言葉に合致するわけです。

1543年(天文十二年)          合歓木松平信孝追放。
                       大窪忠俊、信孝附属の大窪一族を信孝から離反させる。
1547年(天文十六年) 二月  四日 大窪(宇津)忠茂没
              六月  六日 安祥城陥落
                       松平信孝、安祥近隣の山崎に砦を作る。
                       松平忠倫、大窪氏根拠地の上和田に砦を作る。
                       大窪一族の妻子、勝鬘寺に避難?
              ?月  ?日 松平忠倫、松平広忠に暗殺される。
                        上野城の攻防。阿部次重討死。
              九月二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                       大窪藤五郎、殿軍で活躍。
                       大窪藤五郎、戦死。
1548年(天文十七年) 三月 十九日 小豆坂合戦
              四月 十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
                       大窪一族の妻子、解放され、上和田に戻る。

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