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2009年2月19日 (木)

川戦:崩壊編⑦吉良さんちの家庭の事情Ⅲ

 過去に二回、このタイトルで吉良家の動向を描いてきました。今回もまず吉良家系図をだしておさらいと、この時点での動向を述べたいと思います。

(東条)持清―+―持広―+―吉次(西尾氏)
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         +―義広 +=義安
        (荒川)

(西条)義信―○―義堯―+――義郷
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                +――義安(東条吉良・統合吉良二代)―……―吉良義央
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                +――義昭(統合吉良初代)

 吉良家は戦国時代以前から東条家と西条家の二家に分かれており、応仁の乱においては、東条家が西軍、西条家が東軍に分かれておりました。戦国期においては常に西条家が東条家を圧している形になっております。それは西条家が斯波家と仲がよかったからだったりします。それに対抗して東条家は今川家に接近します。清康の代においては、松平家は西条家と仲がよかったりするのですが、仙千代(広忠)が松平信定から逃れて流亡中、保護をしたのは東条家の持広でした。西条家はそれを口実に、登場家を攻め、持広の子吉次を人質にとって織田家へと人質に送ってしまいます。そして、持広の後継者を西条家から出すことに決めてしまいました。事実上の東条家の絶家です。東条家出身の荒川義広はそれに納得せずに蜂起し、西条吉良義郷が討ち取られたものの、義安が後を継ぎ手打ちがなったようです。実質的に東条家は西条家の手に落ちたままでした。

 織田家による安祥城侵攻に端を発した松平家の内訌は今川家の介入を呼び込み、1548年(天文十七年)に小豆坂合戦が起こります。この時、今川家は三河国を取りに来ていました。翌1549年(天文十八年)、今川義元は吉良家を攻めます。もともと、足利氏の系図上、今川家は吉良家の分家という位置づけでした。よって、『足利氏から将軍が出せなくなれば、吉良氏が、吉良氏から立てられなければ今川氏より将軍を立てるべし』という誰が言い出したのかよく判らない言葉が後世に残ったりしています。
 今川義元本人にそんな自覚があったかどうかは不勉強で判りませんが、彼は少なくとも吉良氏や足利将軍家の誰よりも有能な戦国大名だったことは間違いありません。その功績の大きな部分を太原崇孚に負うとしてもその輝きは些かなりとも毀損されることはないと思います。ただし、それと今川義元に上洛の意志があったかどうかはまた別の問題であるでしょう。

 この時の東条吉良氏は西条家から養子に入った義安が当主であり、西条家の義昭と協同の体制がとられていました。東条吉良家の荒川義広は初めから親今川です。彼我の差は圧倒的だったでしょう。両吉良家は今川義元に屈服します。
 戦後処分として、東条吉良義安は今川家の捕虜として駿府送りになりました。これは織田家に人質に取られた東条吉良持広の子、吉次(おそらく世が世なら義継と言う名になっていたやもしれません)の件に対する報復であったと思われます。そして今川義元の意向により、東条や西条という屋号は無くなり吉良家一家に統一され吉良義昭が統括することになりました。無論、義昭はとうに今川家に屈服しております。吉良義安は駿府で十年以上を空しく過ごすことになります。

 余談ですが最終的に、1560年(永禄三年)の桶狭間合戦で今川義元は死に、1563年(永禄六年)の三河一向一揆で、吉良義昭と荒川義広は一揆側に加担したために、徳川家康によって三河国から追放されます。その吉良氏の家督はともに今川家で人質生活を過ごした吉良義安の下にころがりこんだといいます。この義安は人質生活中の松平竹千代(徳川家康)と仲がよく、元服時には理髪役を務めたというのですから、人の縁というものは全く判らないものですね。吉良義安の血統は赤穂事件で被害者となる吉良上野介義央にまで続くこととなります。

 この1549年(天文十八年)の吉良処分によって、今川家は矢作川以東の三河国を事実上掌握したといっていいでしょう。そして、その支配が仕上げにかかるまでにはあと僅かなプロセスを踏む必要がありました。

1535年(天文 四年)守山崩れ。
1536年(天文 五年)西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
          持広、仙千代を保護する。
1537年(天文 六年)松平広忠、岡崎城復帰。
          西条吉良義郷、今川義元に破れ、戦死。義昭が家督を相続。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。
1549年(天文十八年)東条吉良義安、今川家の捕虜として駿府送り。
          今川義元の意向により、吉良家は義昭によって統一。
1560年(永禄 三年)桶狭間合戦。今川義元死去。
1564年(永禄 七年)三河一向一揆終結。吉良義昭、三河追放。義安、後を継ぐ。

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