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2009年2月 5日 (木)

川戦:崩壊編④松平軍団分裂

 安祥城の失陥は松平一門と家臣団に重大な衝撃を与えました。そして同時に織田信秀の調略の手が彼らにも伸びていたのです。
 まずは、一門衆から紹介すると、1543年(天文十二年)に追放された合歓木松平信孝。彼は追放後も三河に留まり、安祥城に程近い大岡(現安城市山崎町)に城を構えます。
 次に上宮寺のある佐々木を領する松平三左衛門忠倫が大窪氏の根拠地である上和田に砦を築いてこもります。佐々木松平氏は系図史料にも出てこないのですが、どうやら広忠の叔父か従兄弟に当たる人物であるようです。忠倫は彼の代で血統が絶えてしまい、かつ宗家に反逆したまま絶家したため家譜から外されてしまったようです。彼は信孝とは違って反逆の理由は定かではありません。
 佐々木上宮寺は本願寺教団の拠点である三河三ヶ寺の一つです。ここを根拠地としている松平家は当然、門徒達を被官化しているものと思われますが、その本願寺教団門徒衆の束ねである石川清兼は松平広忠の家老を勤めているのですね。奇妙なので後におこった三河一向一揆において上宮寺に籠ったメンバーを調べてみると、石川党は一人もいないのです。その他の三ヶ寺と土呂本宗寺にはいるにもかかわらずです。佐々木上宮寺は佐々木如光と蓮如との縁で発展したので、石川家に頼らず発展したものと思われます。
 三人目は上野城にいる桜井松平清定です。桜井松平信定の跡継ぎでしたが、叛旗を翻した時点でどうも戦闘に耐えうる体調ではなかったようです。この前後に清定は亡くなっているようなのですが、討死とか暗殺とかの記録がありませんので、そう判断せざるを得ません。息子の家次を押し立てての参戦でした。ただ、家次は広忠と曽祖父(長親)を同じくする同世代で、桜井家は信忠の弟の家系です。しかもこの時広忠は二十歳ですから、家次は十代そこそこだったと思われます。
 信孝と清定の反逆の理由はわりとはっきりしてますね。広忠をとりまく家臣団の専横に対する不満として間違いはないでしょう。
 こういう時に家臣団と一門衆の間に立って調停する長老である道閲(松平長親)は既に亡くなっています。その他長老の地位を引き継ぐであろう、超譽存牛も道閲の死の翌年、1545年(天文十四年)に隠棲先の松平郷にある高月院で入寂。松平長家も安祥の城で討ち死にしました。わずか三、四年ばかりの間のことです。松平一族は分裂を押し止める立場の者達がことごとくいなくなっていたわけです。

 一方家臣団も安祥城の陥落を契機に内訌を始めます。酒井左衛門尉が岡崎城に現れて石川安芸守清兼と酒井雅楽助正親に遺恨があり、広忠に切腹させよと迫ります。広忠がこれを拒むと、大原左近右衛門、今村伝次郎を連れて反逆したのです。
 酒井左衛門尉は酒井将監忠尚もしくは酒井左衛門尉忠次(当時二十歳)のどちらかであると言われておりますが、確定する材料がありません。酒井忠尚は忠次の伯父とも従兄弟ともいわれております。酒井忠次はこの頃まだ左衛門尉を名乗っておりませんし、酒井忠尚は家系から言って左衛門尉を名乗っていい立場なんですが、なぜか将監とよばれています。忠尚は後に三河一向一揆で家康に反逆しますし、忠次は後の徳川四天王の一人です。どちらがここでの左衛門尉であっても面白いのですが、ここでは年長の忠尚で語りたいと思います。理由は後述します。
 安祥の失陥で岡崎と三河湾の大浜を繋ぐラインが分断することは松平家にとっては致命傷と言っていい事態です。酒井忠尚が石川清兼・酒井正親に向けた遺恨の具体的なところは不明ですが、政権基盤である安祥城が織田信秀に奪われたため、潜在的な諸問題が一気に表面化したのでしょう。直近の問題点としては、安祥が敵地と化した今、近隣に住する人々に対しどのような手当てを施すのかということではないかと思われます。
 石川清兼は松平家の台所を担っていたと思われます。どうも彼らに対して充分な補償が出来なかったと見ていいでしょう。にべもない返事を返されればそれぞれに家を持ち一族郎党を抱える家臣達は激昂したに違いありません。酒井家は松平家代々の老臣の家柄であるのに、石川・酒井の順で史料はかかれています。これは酒井正親が石川清兼の婿であるためと理解すればよいでしょう。
 流亡中の仙千代(広忠)帰還に功績があったものが重用されて、そうでないものは冷遇された不満もあったという話もあるのですが、大原左近右衛門も岡崎城のクーデターの立役者の一人です。誰かの憤懣の中にそういう思いはあったとは思われますが、これだけではないと思われます。
 結果的に広忠は酒井忠尚の要求をはねつけ、酒井忠尚は広忠に叛旗を翻します。そして織田信秀の指示によって、桜井松平清定・家次親子がいる上野城に立てこもったのです。
 この上野城篭城軍の指揮は酒井忠尚がとりました。本来であれば桜井松平清定が取るべきなのですが、清定はこの前後に亡くなっているところを見るに指揮を取れない状況だったと考えられます。桜井松平家は家次が指揮すべき立場となっていましたが、彼はおそらくは広忠(二十歳)と同年代か少ししただと思われます。反逆の指揮者としては若すぎると見られたため、酒井左衛門尉が指揮を任されたのでしょう。ちなみにこの時、酒井忠次も二十歳です。上野城主である家次の替わりに軍の指揮をとるというには年齢差がなさすぎだと思いますので、酒井忠尚が酒井左衛門尉としていいのではないかと考える次第です。岡崎城の西方の安祥城には織田信広が入り、その支城である山崎城には松平信孝がいます。西北の上野城には松平清定・家次に酒井忠尚が籠り、南方の上和田に松平忠倫が砦を築きました。
 安祥城の落城の結果、松平家とその家臣団は親織田、親今川で二つにわかれそれぞれが岡崎城を巡って押しあいをする展開となっております。まさに、1548年(天文十七年)三月十一日付北条氏康書状に描かれている状況が現出したわけです。
 これはもう岡崎城の松平広忠と彼を支える阿部定吉、石川清兼、酒井政親、大窪忠俊らの手に負える状況でなくなってきたわけです。この状況を打破するために、手段を選んでいる暇はありませんでした。

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