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2009年2月10日 (火)

川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び

 松平家の嫡男が人質として城を出るということはかつて無かった事でした。
 似た例としては人質に出す広忠自身が正式に家督を継ぐ以前に阿部大蔵定吉の手によって岡崎を脱出し、三年間の流亡の旅にでたことでしょうか。その時も松平家は二つに分かれて対立しましたが、それを仲裁したのは長老の道閲でした。今、岡崎城は松平忠倫、松平信孝ら一門衆に攻められていますが、それを仲裁する長老はいません。(仮にいたなら、安祥失陥の責をもって信忠のように押籠められていたかもしれませんが)

 いずれにせよ、松平広忠は自立する領主としては大きな汚点が付きました。堕ちた信用は自力で回復することはできません。松平家当主としての立場を保全するためには、その立場を保証してくれる権威が必要でした。その為に求めたのが今川家です。
 今川家は逆に松平家の家風を調べぬいていました。松平家は幼君を戴いて結束すること、一門や家臣の信を失ったり、危うい立場に追い込む当主は押籠められたり、斬られたりして幼君に取って代わられていることを理解していたのです。そして今、松平広忠はかつての信忠や清康と同じ危地に立っていました。
 広忠本人がそれに気づいていたかどうかは不明です。しかし、今川義元とその軍師である太原崇孚の目にはそれがはっきりと映っていたものと思われます。
 この人質取りは単に主従関係成立の証としてだけあるのではありません。今川義元が松平竹千代を保護することによって、松平広忠が抱える内憂を取り除き、外患である織田家に対する備えに専念させる意図があったのです。
 その意図に家臣達は気づいていました。竹千代の駿河行きに随行した者の数は二十八名と言います。小姓をはじめとした家臣の親族達で、いざと言う時には竹千代を担いで三河に馳せ戻ることを期待されていた者たちであろうと思われます。わずか六歳の童子に小姓もいるとは言え、二十八名ものボディーガードが付くというのは異様な光景ではなかったかと思われます。軍勢でも従えていればもう少しサマになるかもしれませんが、人質を送る旅であれば相手の手前、そうも行かないでしょう。

 その道中、竹千代は同行の家臣達と同じ事を考えていたろう者に出会います。竹千代の義理の母、真喜姫の父である戸田康光です。戸田康光もまた、娘の真喜姫を岡崎城に送り込み、信望を失った広忠にかわって、松平家の代替わりを機に主導権を握ろうと考えていたものと思われます。彼が想定していたのはおそらくは七年後。竹千代が十三歳になる1555年(弘治元年)頃ではなかったかと予想されます。
 但し、実際には彼に残された時間はありませんでした。その時間を早めたのが今川義元と織田信秀の確執です。広忠の岡崎帰城のどさくさにまぎれて折角牧野成敏から奪った吉田(今橋)城は今川軍に奪われ、その当時は太原崇孚が城代を務めておりました。西からは松平一族の最重要根拠地であった安祥が攻め落とされ、それを囲むように一門衆が織田方に寝返り、岡崎に迫ります。松平広忠は竹千代を質に入れて今川家に後詰を請わねばならないところまで追い込まれたのでした。
 竹千代が今川家の人質になることは松平家が今川家の傘下に完全に入ることと同義です。そうなってしまえば、戸田康光が松平家の奥向きに介入する余地は完全に消えてしまいます。
 竹千代一行が戸田康光の根拠地である田原に立ち寄った時が最後のチャンスでした。この状況下で戸田康光が出来ることは限られています。それが竹千代を拉致して織田信秀の下に送り込むことだったわけです。

 結果から見れば無謀な企てであり、戸田康光は息子の尭光とともに、太原崇孚の手によって田原城にて討たれました。しかし、竹千代はとっくに織田信秀の手に落ちていたわけです。吉田(今橋)城を陥とされて自棄に陥った結果、自らが仕掛けたものの放棄せざるを得なくなった策が、どのような結果をもたらすのかを見たいと考えたのかもしれません。でも、そんな破滅志向の人間が戦国時代にそう何人もいるわけはないですよね。
 実際はもっとシンプルなことなのではないかと思われます。策を仕掛けたのは康光かもしれませんが、それをこのタイミングで実行に移したのは康光ではないということです。誰かが阿部定吉を真似、田原で竹千代の身を確保し、西に走った。信秀らの信用を得るために康光の名は騙られたに過ぎないということではないでしょうか。1535年(天文四年)、『織田信秀』が尾三連合の綻びを修復するために井田野に攻め込んだのと同じく、1547年(天文十六年)九月五日、松平家との同盟を維持するため、今川義元は田原城を攻め落としました。竹千代拉致の翌月のことです。今川家にしてみれば、吉田(今橋)を押さえた後に、田原まで抑えてしまえば今川家は東三河により大きな影響力を及ぼすことが出来ます。竹千代拉致の報復という大義名分もあり、それは侵略とは見なされないという計算も働いたかとも思われます。結果として戸田康光は井田野合戦の直後に死んだ阿部道音と同じ形で死を迎えたということでしょう。
 信秀は戸田康光に大金を与えたとあり、その金額は千貫文、五百貫文、百貫文と諸説あります。三河国奪取の鍵になる竹千代であり、独占するために有無を言わせない金額を提示したのでしょう。しかし、これほどまでの大金を田原に運ぶ手段と時間があったかは疑問です。伊勢神宮や禁裏への寄進は名分あるものですが、この金はダーティー・マネーですよね。受け取り手はすぐに滅ぼされています。田原から熱田までの往復にかかる日数。今川軍が田原を囲んだタイミングを考えれば、戸田康光にはその金を使う暇はなかったでしょうし、その金の行方は良い小説ネタになりそうです。

 戸田事件後の様相は広忠が幼い頃に流亡した頃の状況と瓜二つです。流亡の仙千代は阿部定吉に連れられ、駿河の今川義元の援助を得て復帰運動を起こします。岡崎城では大窪忠俊や松平信孝が味方になってクーデターを起こし、松平一門を率いていた桜井松平信定を屈服させました。
 今、拉致された竹千代は戸田康光の手引きによって、尾張の織田信秀の籠中に入ってしまいました。この後、竹千代の復帰運動と称して、酒井将監忠尚や、佐々木松平三左衛門忠倫、合歓木松平蔵人信孝を味方に岡崎城の奪取を図ろうとすることは確実です。

 気づいた時には松平広忠自らが桜井松平内膳信定の立場に立たされていました。

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