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2009年2月17日 (火)

川戦:崩壊編⑥仁義なき戦い(小豆坂合戦を中心として)

 竹千代を手に入れた信秀は当然、広忠を調略しようとしたことでしょう。無駄に血を流さずに岡崎城まで傘下に入れられれば、竹千代奪取に大金を投じた甲斐もあろうという物です。しかし、松平広忠はその選択肢を選びませんでした。その決断には叔父内膳の前例があったのではないか、私はそんな風に想像します。

 1547年(天文六年)に岡崎城でクーデターが起こった時、桜井松平内膳信定は戦う事を選びませんでした。その結果冷遇を受け、自らの子や孫の叛乱の種を産みました。戦えない事情があったものとは思われますが、戦わなかったこともまた自滅に向かう要因であったことには変りません。
 それに比べれば、広忠には戦う理由と意思と能力がありました。織田家の要求は誘拐犯の要求に従うことであり、それに易々と従えば今後も同じような手口が繰り返されるでしょうし、従うこと自体が松平家惣領の権威の低下を招きます。ただ、人質を見捨てるということは苦渋の決断だったろうことは想像に難くありません。
 松平広忠は織田信秀の要求を拒否しましたが、それだけで今川家の信頼は勝ち取れません。戦いを仕掛け、その実を挙げる必要がありました。そして出来うる限り早期に戦果を上げなければなりません。その為に手段を選んでいる余裕もありませんでした。それに広忠が多少道義に外れることをしたとしても、先に非道を成したのは織田家の方です。
 生贄に選ばれたのは上和田の砦を押さえた佐々木松平三左衛門忠倫でした。上和田は岡崎城の南方にある要衝です、ここを押さえられていては、安祥のある西に出られません。これを排除するために、広忠が採用した手段は暗殺でした。この時代、将の暗殺というのはあまり珍しいことでもありません。細川高国が浦上村宗と播磨で挙兵した1529年(享禄三年)、迎撃のために柳本賢治が迎撃のために京より摂津に下りましたが、暗殺の憂き目にあって軍は瓦解。その余勢をかって細川高国・浦上村宗の連合軍の勢いは京にまで及んだことがあります。但し、暗殺の効果はあくまでも一時的なものに過ぎず、暗殺をやった方の評判は確実に落ちます。戦国時代に合戦が絶えないのは、武威を見せつけないと諸将や民は服さないという実態のあらわれなんじゃないかな、と思われます。
 ともあれ、松平忠倫は広忠の命に従った筧重忠の手により、討ち取られました。これによって、広忠は出陣中に本拠である岡崎城の出陣中に南から攻め込まれる恐れがなくなりました。

 その間隙をぬって広忠は酒井忠尚・桜井松平家次が立てこもる上野城を陥落させます。この時に、阿部大蔵定吉の甥である、阿部次重が戦死し、六名の阿部家は後継者を失っています。この戦いで酒井忠尚は許され、上野城主をまかされます。ということは、本来の上野城主である桜井松平家次は城を失ったことになります。このあたり、未だに一門衆より家臣団を重用する体質を引きずっているといえるかもしれません。
 1547年(天文十六年)九月二十八日、松平広忠は安祥を攻めるべく矢作川を渡河しました。迎撃するのは山崎の砦に籠る合歓木松平蔵人信孝です。両者が激突した地名よりこの戦いは渡河原合戦と呼ばれますが、この戦いは松平信孝が勝ちました。この戦いで五井松平外記忠次が戦死したと伝わっております。

 安祥城陥落をきっかけに始まった松平家の内訌は二勝一敗。しかし、安祥城を取り戻す余力はありませんでした。この間に、今川義元は太原崇孚に田原城を落とさせています。そして、松平広忠があげた戦果を良しとして、人質抜きで援軍を出しました。酒井忠尚や松平忠倫、家次らは倒しましたが依然として竹千代は織田信秀の手中にあり、松平信孝は健在であって、これ以上の放置は広忠を織田方に寝返らせかねないという判断があったものと思われます。
 時に渡河原合戦の翌年、1548年(天文十八年)三月十三日、主将は今川義元の軍師、太原崇孚で駿遠と東三河の連合軍を三河国に入れ、藤川まで着陣します。
 その動きをみた織田信秀は安祥を進発し、東進して矢作川を渡河、上和田砦で夜明かしして明朝馬頭原での合戦を想定して、未明に上和田をでます。その途上、小豆坂で両軍が遭遇して戦いが始まりました。この両軍の激突は決着がつかず、両軍撤退でおわりましたが、織田軍の方は安祥まで戻り、今川軍は藤川まで兵を引きました。
 一見、引き分けのようにも見える戦いではありますが、現状維持は守備側、つまり松平側の後詰である今川軍の軍事目的は達成できたが、織田軍は失敗したといえるでしょう。これによって織田側にとっては矢作川東岸での軍事行動が難しくなりました。

 信秀が安祥まで引き、今川軍が藤川に兵を置き、後詰軍が対峙する間で当事者通しで戦ったのが耳取畷の合戦でした。合歓木松平信孝が矢作川を渡河、明大寺経由で岡崎城を目指そうとしたところを、広忠軍が捕捉。これに矢を浴びせかけ、松平信孝は討死し、信孝軍は敗北します。広忠本人は信孝の生け捕りを期待しておりましたが、合戦中での生け捕り命令はなかなか難しいものです。
 また、織田・今川両軍がにらみ合う中での両者の決戦はどちらかというと、信孝の無謀な突進ばかりが目につきます。これはどうも小豆坂合戦直後から戦後処理の話が織田・今川両軍の間であったのではないかと思われます。その過程において、信孝は居場所を失い、自害のような突撃をくわえたのかもしれません。信孝を討ち取った広忠は号泣したといいます。この僅か一年ばかりの間に一門衆や有力家臣の多くが死にました。松平家の屋台骨を支えていた人々があまりにもあっけなく、この世を去っていったのですから。

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