« 川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ | トップページ | 川戦:崩壊編④松平軍団分裂 »

2009年2月 3日 (火)

川戦:崩壊編③真・安祥城陥落Ⅱ

 1547年(天文十六年)、織田信秀は安祥城を攻撃し、落城せしめました。前年に窮鳥として懐に飛び込んできた土岐頼芸と斉藤道三との和睦がなっております。その前の年には守護代織田大和守達勝・彦五郎信友らとも平手政秀の仲介により和睦しており北方の憂いはひとまず消えております。自らの拠点も古渡からさらに三河よりに移って末森に城を構えました。水野信元を筆頭とする刈谷・緒川の水野一族も織田信秀につき、東征の準備は万端となりました。
 1540年(天文九年)説では先に松平広忠が尾張国鳴海に攻め込んだとありますが、水野一族の支援なくして鳴海に到達しうるとは少々考えにくいです。逆に元服したばかりの信秀の息子の信長の方が同盟を結んだ水野一族の支援の下に三河国大浜を襲ったりしております。1546年(天文十五年)のことです。この期間中、織田信秀が取ってきた戦術は調略でした。1544年(天文十三年)には水野信元を味方に引き込み、1545年(天文十四年)には織田守護代家と和睦し、1546年(天文十五年)には斉藤道三との戦いに終止符を打っています。信秀の調略の手は三河国にまで伸びているのですが、それは次稿で述べます。
 安祥城を守備するのは松平長家をはじめとする松平軍。しかし、水野氏(おそらくは信元)と連携した織田信秀勢に五十名の戦死者をだして安祥城は陥落しました。その戦死者についてのプロフィールを紹介します。

☆松平長家
 松平親忠の子であり、長親(道閲)、超誉存牛の弟にあたります。超誉と同い年だとすると七十八歳。松平親忠最晩年の子であるとすれば、四十六歳(1547年・天文十六年説にたった場合)になります。ただ親忠の最晩年というのは六十三歳ですからそれはありえなさそうです。普通に考えて還暦は越えてるでしょう。人間五十年のこの時代を考えれば、親忠の子供達は本当に長命です。

☆松平信康
 家康の嫡男と同じ名前を持つ人物で、広忠の弟です。広忠と同い年だと仮定し、1540年(天文九年)説に立つと十四歳。安祥という要衝を老人と子供に守らせていたことに成ります。1547年(天文十六年)説に従えば二十一歳で、大将として様になる年齢ですね。実際にはもう少し若かったのかもしれません。それを一族の長老の一人である長家が支えたというところであるかのように思われます。

☆松平康忠
 甚六郎と呼ばれ、長家の弟の張忠の息子。矢田を領したとされます。世代的には信忠の従兄弟に当たります。

☆林藤助忠満、成瀬正頼
 松平広忠が元服前に流亡した折に岡崎城でクーデターを起こした大窪忠俊に加担したメンバーです。

☆内藤善左衛門、近藤与一郎
 このあたりについては余りデータはありません。近藤という姓には三河物語の中に広忠が岡崎に復帰した頃のエピソードがあります。清康の死をきっかけに勢力を大きく落とした松平家臣は自ら農作業をせざるをえない状況にありました。広忠がそれを見つけて自らの不甲斐なさを詫びるとともに、それでも自分に仕えてくれる譜代家臣に涙を流したとあります。その本人である可能性は低いとは思われますが、丁度いい機会なので書いておきます。

 以上が1540年(天文九年)六月安祥城落城説で語られる主だった戦死者ですが、『安祥の戦い』においてはさらに重要人物が死んでいます。

★大窪藤五郎
 宇津忠俊に自らの氏を名乗らせた越前出身の驍勇の士。彼は忠俊が自分の氏を継いでくれたことに満足し、安祥城攻防の死線に身を投じました。安祥城陥落の折に死んだわけではなく、その後渡河原の戦いで殿軍を引き受けたエピソードもあります。彼の死はその後の安祥城の攻防においてと思われます。忠俊の年齢(四十八歳)から考えて、すでに第一線は引いているとは思われます。川の戦国史では根拠もなく彼を本願寺教団門徒として描写しておりましたが、もしそうであれば大窪藤五郎は口で言った『満足な死』とは裏腹の、自ら死地を求めた非業の最期だったように見えます。

★本多忠豊
 実をいうと安祥陥落を1547年(天文十六年)に持ってくることには多少のきつさを感じております。きつさを感じさせる論拠の一つが1545年(天文十四年)に死んだ本多忠豊の事跡なんですね。本田忠豊は徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父に当たる人物です。寛政重修諸家譜には安祥城の奪還を企図して松平広忠が出陣したものの、織田方にいち早く察知されて防御体制をとられたばかりか、攻撃陣を崩されてしまいます。主君のピンチに忠豊は殿軍を買ってでて討ち死にするわけなんですが、同じ家譜史料でも先に出来た寛永諸家系図伝はもっとそっけなく、1545年(天文十四年)に安祥畷にて戦死とだけ記されているのですね。攻城戦とも守城戦とも言っておりません。
 忠豊殿軍のエピソード自体、寛永年間から寛政年間の間に作られたものくさいのですね。(無論、この間に新史料が発掘されて採用されたのかもしれませんが、管見では出所が不明です)さりながら、寛永諸家系図伝が1545年(天文十四年)と言っていることは決して無視できません。1545年(天文十四年)の安祥合戦話が『作られる』以前の伝承なのですから。
 強いて1547年(天文十六年)説に話を合わせるとすれば、本多忠豊は1547年(天文十六年)の安祥城落城時に城にいて討死しており、安祥で戦死した伝承は残っていた。しかし、甫庵版信長記には小豆坂合戦が1542年(天文十一年)にあり、その時織田信秀軍は安祥から軍を出したことになっており、その時までに安祥城が落城していなければならなかった。しかし、本多家には1545年(天文十四年)までの本多忠豊の生存が確認できる史料があり、やむを得ず1545年(天文十四年)に安祥畷で戦死となったのではないか、と思います。(あくまでも推測でありこじつけです。)

★阿部次重
 彼が死んだのは安祥城の戦いではなく、それに派生する上野城の戦いにおいてでした。阿部大蔵定吉の甥です。その二年後に定吉も死にます。次重の父定次は本能寺の変の年まで生き、戦功を残したと伝えられますが、なぜか具体的な活動が記録されておりません。また、定次には次重以外に子供を設けていないのですね。後半生の長さを考えるといささか奇妙です。定次の天正十年死亡記事はひょっとしたら天文十年の誤伝なのではないかと疑ったこともありますが、確証はありません。彼の死をもって、六名の阿部家は事実上断絶するのですが、戦後に同じ1547年(天文十六年)の安祥城の戦いで活躍し、弓の名手として名を残した大窪忠政を阿部定次の養子として迎え、大久保家の支族として六名阿部家は存続します。

★宇津(大久保)忠茂
 大窪忠俊の父親です。彼は1547年(天文十六年)二月に亡くなっております。安祥合戦の始まる前で、直接関係ないのですが、ここまで見てゆくに林藤助忠満、成瀬正頼、大窪藤五郎、阿部次重と大窪忠俊に関わる人間がこの年に実にたくさん死んでいるわけですね。世代交代かも知れませんが、忠俊は大きな孤独を感じたのではないでしょうか。そしてこれが後の長福寺への帰依につながるのではないか。そんな風に思っております。宇津忠茂は長福寺に葬られた大久保(大窪ではない)一族の第一号となりました。

|

« 川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ | トップページ | 川戦:崩壊編④松平軍団分裂 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/43938569

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:崩壊編③真・安祥城陥落Ⅱ:

« 川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ | トップページ | 川戦:崩壊編④松平軍団分裂 »