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2009年3月17日 (火)

川戦:補遺

 一応川の戦国史は一段落したのですが、後々調べて決定的に間違ってる所がありましたので、書きとめて起きます。『山科編⑧大小一揆』において、『蓮淳派の一揆勢を大一揆。これに対抗する加賀三ヶ寺派の一揆勢を小一揆と呼び、この二勢力の争いを大小一揆と言います。』と書いてしまいました。
 井上鋭夫氏著の本願寺という本が講談社学術文庫からでており、これに浄土真宗本願寺教団の歴史が詳しく書かれているのですが、『超勝寺側を小一揆、若松側を大一揆と呼んでいる』とあります。逆なのですね。
 超勝寺側は蓮淳派ですし、若松は本泉寺のことで、加賀三ヶ寺の一つです。若松方は所詮加賀国のみを根拠地としており、蓮淳派は近江・三河門徒を動員しましたから、若松方を小一揆、蓮淳派を大一揆と考えていたのですが、事の発端となった加賀一国の中を見れば、加賀三ヶ寺は加賀国を牛耳る主勢力であり、超勝寺らは越前からの亡命者集団に過ぎないのですね。だから規模から見れば加賀三ヶ寺を大一揆、超勝寺一党を小一揆と呼ばれたことは正しいのでしょう。
 謹んで訂正させていただきます。訂正部分はお断りを入れた上で改稿させていただきます。

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2009年3月12日 (木)

川戦:参考文献

①骨格部分の参考書

【書名】三河松平一族
【著者】平野明夫
【出版社】新人物往来社
【刊行】2002年5月10日第一刷
【インプレ】
 拙稿の骨格部分を作るにおいて大いに参考にさせていただいた本です。松平家初代から松平広忠までの歴代について、ふんだんに文献資料を蒐集考察した本です。安祥城陥落天文十六年説をはじめとする説得力がある刺激的な諸説が満載です。特に資料の少ない親氏~信忠までの松平歴代の事件を調べるに当たっては本書は大いに参考としています。この『三河松平一族』で展開されるロジカルに組み上げられた諸説は非常に刺激的です。

【書名】岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 上巻
【著者】柴田顕正 岡崎市役所(編纂)
【出版社】国書刊行会
【刊行】1987年12月10日
【インプレ】
 稀少本の範疇にはいるかな、と思います。私の場合はたまたま近所の図書館にあり、『三河松平一族』の内容を自分なりに消化する際のサブテキストとして活用させていただきました。サブタイトルに徳川家康と其周囲と書かれている通り、徳川家康の歴史考証をあつかった、岡崎市の歴史の別冊本です。この本の最初の方に家康以前の松平歴代の研究成果が書かれているのですね。この本は『三河松平一族』の著者である平野明夫氏も参照されておられるのですが、本書のよさはこの一冊の中に史料も引用されており、それが検証材料となっているところです。論説そのものはオーソドックスなものであり、平野氏の見解と異なる部分も多いのですが、その見解の差異を通して史料の読み方を勉強させていただきました。

【書名】三河物語(上)
【著者】大久保彦左衛門(原著)、小林賢章(訳)
【出版社】教育社
【刊行】1980年1月25日第一刷
【インプレ】
 戦国時代の西三河の歴史を追うに当たって、松平家の動向は外せませんし、その松平家の歴史を知るのに一番入手し易く、かつ判り易く書かれていたものがこの本です。現代語訳本で内容把握に重宝しました。むろん、現代語訳は余計な解釈が付記されているので、正確な内容把握をするためには原本に当たる必要があるのですが、大まかな流れを知るに当たって重宝しました。

②本願寺教団、浄土真宗関連
【書名】蓮如と七人の息子
【著者】辻川達雄
【出版社】誠文堂新光社
【刊行】1996年9月6日
【インプレ】
 蓮如の生涯ならびに、蓮如の七人の男児の生き様を描いた本です。この本は蓮淳は悪役というか、出来の悪い人物ということで評価されております。確かに堅田本福寺に加えたコンプレックスむき出しの執拗な弾圧や、加賀三ヶ寺に加えた仕置きを見ればそのように評されるのもやむをえざる所なのですが、彼がいたから本願寺は天文一揆に辛うじて生き残ったし、戦国時代を生き抜く力を温存することができました。功罪相半ばの人物だと思います。本書には蓮如と蓮如死後から天文一揆に至るまでの本願寺教団の動向を参考とさせていただきました。

【書名】一向一揆論
【著者】金龍静
【出版社】吉川弘文館
【刊行】2004年12月1日第一刷
【インプレ】
 利用させていただいたのは専ら天文一揆関連の論考です。今谷明氏の『戦国三好一族』では天文一揆は天文二年に三好千熊丸(後の長慶)の仲介によって終結したみたいに書かれていたのですが、その後も断続的に戦闘が継続され、最終的に天文四年に終了するまでの経緯が論考を交えて描かれています。本書を参考に、蓮淳の本願寺復帰に付随する、美濃・尾張・伊勢・三河各国を総攬する中心寺院が土呂本宗寺から、長島願証寺に移行してゆく様子を書かせてた抱きました。

③その他
書名:三河後風土記正説大全
著者:中村和子(翻刻)、神田白龍子(改撰)
出版社:新人物往来社
刊行:1992年7月15日第一刷
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書名:戦国時代の徳川氏
著者:煎本増夫
出版社:新人物往来社
刊行:1998年10月30日第一刷
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書名:風は山河より第一巻~第五巻
著者:宮城谷昌光
出版社:新潮社
刊行:2006年12月1日~
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書名:実隆公記 巻八
著者:三条西実隆(原著)、高橋隆三(編集)
出版社:続群書類従完成会
刊行:1958年3月31日
永正五年:水野清忠関連記事
享禄四年:本願寺関連記事
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書名:岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 上巻
著者:柴田顕正 岡崎市役所(編纂)
出版社:国書刊行会
刊行:1987年12月10日
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書名:戦国遺文 後北条氏編 第一巻
編者:杉山博、下山治久
出版社:東京堂出版
刊行:1989年9月20日
天文十七年:織田信秀宛北条氏康書状
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他にも多数ありますが、まずはこれにて失礼致します。

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2009年3月11日 (水)

川戦:崩壊編⑫結語

 松平広忠が死んだ1549年(天文十八年)という年は、色々な意味で節目をもった年でした。まず、六月に摂津の国中ノ島近隣にある江口で三好長慶と細川晴元・三好政長が合戦し、細川晴元は敗北、将軍足利義晴ともども京を追われます。細川晴元は同族の高国を破り、足利義晴と和解して右京大夫を名乗り、右京兆家家督となったのが1537年(天文六年)です。なので、彼が京で実権を持っていた期間は広忠が岡崎で松平家家督をしていた期間と一致しているのですね。晴元はその後も、彼を京から追い出した三好長慶と戦い続け、1563年(永禄六年)に没します。丁度三河国に一向乱が起こった年でした。細川晴元が京を追い出されて後、京を支配したのは三管四職のどの家柄にも属さない、陪臣の三好長慶でした。
 また、広忠の死の翌年、1550年(天文十九年)に本願寺教団の指導者蓮淳が没します。彼は死の間際に自らが破門して死に追いやった人々を許したそうです。これを義弟の実従が破門するということは永劫救われることがないという意味なのに、それが許されるということは一体いかなる教義に基づくものなのだろうか、と批判しています。そんな批判を受けるほど本来の浄土真宗の教義とはかけ離れた行動をとった人物であります。しかし、彼の尽力が本願寺教団を強力な戦闘集団に変えて教団を生きながらえさせました。彼がいなければ、本願寺教団は無間の戦争の連鎖の中で潰えていたでしょうし、後の法主顕如が織田信長と死闘を演じることもなかったでしょう。彼が建てた願証寺の近隣の津島から織田信秀が起こり、尾張国を席巻するなかで、願証寺は斎藤氏や織田大和守家と結んでこれを牽制していました。織田信秀は蓮淳の死の翌年に死にます。別説でその前年の1549年(天文十八年)ともいわれていますが、正確なところは不明です。信秀の死は今川家の活動を勢いづけ、これをきっかけに今川家は尾張国調略に乗り出すことになるのです。

 これをもって『川の戦国史』の一区切りとさせていただくことに致します。書き漏らしたことはたくさんありますし、後から勉強して増補したいところも数多あるのですが、今日のところはこれくらいで勘弁してやるです。いや、勘弁してください。まずは読み返すと酷い日本語と勘違いした書き間違いが数多ありますのでそれを直させてください。大久保彦左衛門ほどではないとは思うのですが、明らかに麻生総理以上の日本語の間違いがあります。これ以上駄文を増やすのは一端止めて、改稿に精を出すことにします。

 もっと詳しく書きたかったのは、石川一族と水野一族についてです。調べた史料がとにかく徳川家絡みの史料ばかりで、良質な史料や、そちらの方面に踏み込んだ研究書にあたれなかったのが悔しい。
 タイトルを川の戦国史にしたのは、本願寺教団と三河武士団の位置関係を焙り出すことが第一のテーマでした。いろいろトンデモ説をぶちあげはしましたが、それによって両者の距離がおぼろげながら見えてきたような気がします。

 ただし、石川家や水野家、さらに広げれば戸田家や佐治家、水野家でも刈屋と緒川と常滑、そして大高の関係等々、その背景となる伊勢湾・三河湾の海運、河川流通の関係性が今もって見えていないのですね。これは本稿でも取り上げた安祥合戦や後に続く桶狭間合戦に至る今川家と織田家の対立構造、特に本願寺や織田家に何故無尽蔵とも思える財力が備わったのかを読み解く鍵になるのではないかと思うのですが、今のところ届かないままです。

 ともあれ、ここまで読んでくださった方々にはただただ感謝です。
 最後の最後に本稿を作成するにあたって利用した参考文献を列挙させていただきます。
 これをもって結語の締めとさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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2009年3月 5日 (木)

川戦:崩壊編⑪石川清兼

 オマケ編として書く充分に機会のなかった石川一族について触れておきます。政康については、書いているのですが、それ以後は個別に扱っていたために全体感がつかめなかったと思います。石川一族はここまで書いた『川の戦国史』を後に書き継ぐ際の重要なファクターなのですね。本稿ではそれを鳥瞰的に描写しておこうかと思います。

 政康――+――康長――(数代?)――春重――修理亮某
         |
         +――某
         |              (忠成)      (広成)
         +――親康――忠輔――清兼――+――康正――+――数正――+――康長
                                       |            |            |
                                       |            |            +――康勝
                                       |            |            |
                                       |            |            +――某
                                       |            | (小隼人)
                                       +――一政    +――某――石川成尭・大久保正信の妻
                                       |            |
                                       +――家成    +――松平家信の妻
                                       |
                                       +――安藤杢助基能の妻
                                       |
                                       +――平岩金次郎某の妻
                                       |
                                       +――酒井雅楽頭正親の妻
                                       |
                                       +――伊奈市左衛門某の妻

 文安年間、政康は蓮如側近の佐々木如光と組んで、三河国小川に土着し石川一族の祖になったといいます。しかし、実際はそれ以前に石川一族はこの地にいて勢力をもっていたらしい。政康は蓮如が生きた同時代に石川一族を束ねていた存在だったようなのですね。

 政康の子は三人いて、三男の親康が松平親忠につきました。親康の子、忠輔は伯父の康長と図って、門徒武士団を組織して安祥家に入れます。松平家と組んだ親康の系統が実質的に石川一族のリーダーシップをとることになりますが、この石川一族の正嫡は親康ではなく、兄の康長なのですね。彼の子孫である春重は小川に住み酒井忠善(忠次の父)、本多広孝ら松平譜代の有力家臣の娘を妻としております。
寛政重修諸家譜では春重は康長の子ということになっていますが、彼は家康に仕えたことになっております。松平親忠に仕えたという親康から松平広忠を主人とした清兼の代まで三代の間があることを考えると、康長と春重の間にも、数代あったと考えるのが自然でありましょう。寛政重修諸家譜には家康に仕えたとありますが、それ以前の広忠や清康に仕えたとは記されていない人物です。松平家とは直接関わらずに存続した石川の族葉と言えそうです。正確には家康ではなく、家康の嫡男、信康に仕えていたそうです。

 忠輔は門徒武士を安祥城にいれて家臣団を形成した功労者ではありますが、三河後風土記正説大全によると、一門衆の意を受けて、主君である信忠をだまして押籠めた実行犯であるとされています。忠輔は信忠の側近の立場にあったものと見てよいでしょう。このエピソード自体、平安時代の『大鏡』の花山天皇の出家の段にもみられるような、主君を騙して隠居させる家臣のパターンを踏襲していますので、文字通りあったものかどうかはわかりません。ただ、押籠め後も、信忠は発給文書に署名をしていますし、自分を押籠めた一門・家臣達に対する報復行動にもでていません。信忠と忠輔ら家臣達の関係は残されたエピソードだけではうかがい知れない複雑なものを感じさせられます。

 清兼は初名を忠成といったと寛政重修諸家譜には書いてありますが、現存する文書をみるに忠成が本当の名前だったと思われます。清康の代から松平家に仕えていたとありますが、清康の代においては目立った活躍はありません。広忠の代において、竹千代誕生の折に蟇目役をつとめておりますから、清康の代においても重要な役目をおっていたものと推察します。後妻に水野忠政の娘を迎えております。忠政が死に、織田方に走った信元が松平家と手切れをしました。広忠も水野忠政の娘の於大を妻としており、これを離縁します。同様に水野忠政の娘を娶っていた一門衆の形原松平家広もそれに倣って離縁をしております。しかし、清兼は自ら迎えた水野家の妻を離縁することはありませんでした。武士団という顔だけではなく、矢作川の水運の束ねとしての顔を持つ石川清兼としては、三河湾、伊勢湾の水運に噛んでいる水野家との関係は切るに切れないという事情があったと思われます。
 そのような立場で広忠を支えていたのですが、安祥城落城の折には娘婿である酒井雅楽頭正親とともに、遺恨ありと酒井忠尚、大原左近右衛門、今村伝次郎に非難され、松平家臣団の分裂を招きます。おそらくは、広忠が水野と離縁して敵対しているのに、石川は関係を継続していること、それによって安祥の落城を招き、矢作川西岸を領する者は織田に属さないと生活基盤が成り立たなくなったということではないかと思われます。
 清兼にしてみれば斎藤道三と織田信秀の和睦で和平の到来を考えていたものと思われますが、それは裏目に出ています。おまけに信秀の息子の吉法師までが元服し、信長と名乗って大浜に攻め入っているのですね。居城の那古屋から大浜へのルートですが、いきなり三河領の大浜にたどり着いているところをみると、船を使ったルートだと考えられます。想定されるのは、熱田――常滑――成岩――大浜ルートでしょうか。同盟を結んだ水野家の支援を得たことでしょう。当然、石川清兼の元にも水野家の縁を通して織田信秀の調略の手が伸びていたと思われます。
 しかし、石川清兼はここで逆張りをしたようなのですね。織田信秀は織田大和守達勝や斎藤道三とは違い、一向宗門徒に対しては非妥協的に見えます。というのは、津島湊を配下におさめていながら、その河口の出口である要所、荷ノ上(二ノ江)を押さえられていないのですね。ここは河口の輪中内にあり、本願寺教団の勢力化にありました。この地勢は長島の願証寺と連携を取って河口を封鎖することは容易です。信秀が古渡に移って伊勢湾に直接臨む熱田湊を手に入れたのはそんな事情もあったのですね。水野信元が織田方に付いたことにより、松平と水野は対立することになりましたが、石川とは袂を分かたず、共通の利害で動いておりました。しかし、織田が安祥を落としたことで両者の関係は抜き差しのならないものに変わります。

ここで安祥落城が1540年(天文九年)ではなく、1547年(天文十六年)だとすれば、矢作川水運を巡る水野氏と石川氏の対立関係は今川義元の参戦によって比較的短期に終わったものだと見なすことができます。その代償として、松平宗家は崩壊しました。1549年(天文十八年)三月六日、松平広忠は岩松八弥によって殺害されます。
 その老臣である石川清兼はもう一つの顔をもっていました。野寺本證寺の大檀那として、矢作川一帯の門徒武士団の束ねとしての顔です。
広忠の死の翌月、四月七日のこと野寺本證寺の住持の交替があったときに、新住職であるあい松という人物を支持する旨の連判状が作成されました。その筆頭に署名したのが石川忠成(清兼)で、以下石川一門衆三十三名を含む、百十五人の名が連ねられております。その中には鳥居・阿部・榊原・酒井・本多・伊奈と、後の徳川家臣団の中核をなす一党の名があるのですね。松平家という核を失った岡崎家臣団が野寺本證寺とその背後にある本願寺教団を核とすることを模索したと見ることができるかもしれません。
 清兼はこの賭けに勝って、今川義元の信をも得て、広忠の死後も松平家重臣として城主不在の岡崎城にて政務をみることとなりました。
 そして、今度は水野と石川の縁を通じて今川が水野を調略する番に回ります。水野家はこの難局を十二年間、織田と今川の双方から来る揺さぶりに耐えなければならない立場に立ったのです。

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2009年3月 3日 (火)

川戦:崩壊編⑩忠俊の発心Ⅱ

 安祥城を巡る1547年(天文十六年)からの戦いは大窪氏の根拠地である上和田を戦場にしていました。信孝は大窪家に対する遺恨を隠していませんでしたし、織田信秀というスポンサーもいましたから、大窪の妻子を磔に出来なかった腹いせに上和田については、苅田や狼藉くらいのことはしたものと思われます。
 また、1547年(天文十六年)には父である大窪(宇津)忠茂と、忠俊に大窪家の家名を与えた大窪藤五郎が死んでいます。翌年、彼らを苦しめた松平信孝は戦死し、大窪一族は上和田に戻ることが叶いました。しかし、大窪忠俊の眼前には荒廃した上和田郷、その双肩には大窪一族の行く末がのしかかってたことでしょう。忠俊の甥で弓の名手である大窪忠政が阿部定次の養子になったのはこの頃です。大窪忠俊としては、口減らしと近隣の六名の阿部家の支援を当て込んでのことだったと思われます。しかし、この翌年に松平広忠と阿部定吉が相次いで亡くなります。後継者の竹千代は太原崇孚が取り戻したものの、岡崎城は今川家から城代が送り込まれ、彼らの支配下におかれてしまったのです。
 松平家と大窪家の関係において、復興を当て込んでいたものが、これによって崩れてしまいました。おそらくはこれによって上和田の復興が大幅に遅れたものと思われます。そのために、三河物語は広忠への奉公を前面に出し、時代の当主に対する期待を忠俊に述べさせています。
 しかし、その時代の当主竹千代は1549年(天文十八年)の時点で九歳の童で、駿河国に人質に出されています。彼が戻ってくるのは1560年(永禄三年)桶狭間合戦を控えてのことでした。その間、忠俊は大窪一族を食わさなければなりません。忠俊は今川義元の命で大窪党を率いて織田方との合戦の戦陣を切り続けることになります。三河物語によると、この時の今川義元は松平家臣が戦死してもかまわないから、攻めに攻めさせたことになってます。開いた領地に自分の腹心を入れて三河支配を強化するという目的でです。
 大窪党を率いる立場の忠俊にとって、これは大きなプレッシャーだったと思われます。大窪党を食わせるためには、今川家のために参陣せねばならず、また自分が討死しては大窪党にかわって上和田の領地を取り上げられて今川家の直臣が入ることになってしまいます。生きるも死ぬも地獄の状態で、忠俊は精神に失調をきたして悪夢に苛まれるようになったといいます。

 それを救ったのが長福寺の住持、日朝という僧でした。長福寺は宇津家の菩提寺であった妙国寺と同じく日蓮宗の寺院です。ともに土岐頼直ゆかりの寺であるそうです。前後関係から考えて、日朝は大窪忠俊に宗旨を糺すことを迫ったのだと思われます。日朝にしてみれば、宇津家はもともと日蓮宗徒であり、忠俊が日蓮宗から離れて本願寺教団の勝鬘寺に保護を求めたこと自体が悪縁を強めることにみえたのではないかと想像します。忠俊にしてみても、既に本願寺教団に勝鬘寺の保護を受けており以上の借りを作れません。松平家は本願寺教団に依存した体質でありましたが、新しい主人である今川家の宗旨は臨済宗です。松平家そのものは浄土宗であり、過去ほど本願寺教団の特権の享受は期待できないものだったろうと思われます。
 とは言っても、すでに今川家にも大窪党として認知されているので、これを宇津に戻すことにデメリットを感じていたと思われます。また、今の大窪党の礎となった大窪藤五郎に対する恩義も捨て去ることはできなかったようです。『大窪党』はその音だけを残して『大久保党』とし、大窪忠俊は大久保忠俊となりました。一族もそれにならわせたようです。
 大久保忠俊は長福寺に帰依し、父忠茂以前の宇津家代々の墓をここに移しました。日朝が住持になったのは先代が入寂した1556年(弘治二年)以後のことだと思われますので、忠俊が宗旨を糺したのも、その頃だったろうと思われます。長福寺は大久保忠俊の精神的な支えとなり、それ以後忠俊は蟹江七本槍の一人として謳われるほどの活躍を示します。
 この大久保忠俊の長福寺への帰依は一つのモデルケースとなり、後に徳川家康の家臣団形成おいて決定的な影響を与えることになります。それが三河一向一揆の前後における徳川家臣団の集団改宗なのです。

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