« 川戦:崩壊編⑩忠俊の発心Ⅱ | トップページ | 川戦:崩壊編⑫結語 »

2009年3月 5日 (木)

川戦:崩壊編⑪石川清兼

 オマケ編として書く充分に機会のなかった石川一族について触れておきます。政康については、書いているのですが、それ以後は個別に扱っていたために全体感がつかめなかったと思います。石川一族はここまで書いた『川の戦国史』を後に書き継ぐ際の重要なファクターなのですね。本稿ではそれを鳥瞰的に描写しておこうかと思います。

 政康――+――康長――(数代?)――春重――修理亮某
         |
         +――某
         |              (忠成)      (広成)
         +――親康――忠輔――清兼――+――康正――+――数正――+――康長
                                       |            |            |
                                       |            |            +――康勝
                                       |            |            |
                                       |            |            +――某
                                       |            | (小隼人)
                                       +――一政    +――某――石川成尭・大久保正信の妻
                                       |            |
                                       +――家成    +――松平家信の妻
                                       |
                                       +――安藤杢助基能の妻
                                       |
                                       +――平岩金次郎某の妻
                                       |
                                       +――酒井雅楽頭正親の妻
                                       |
                                       +――伊奈市左衛門某の妻

 文安年間、政康は蓮如側近の佐々木如光と組んで、三河国小川に土着し石川一族の祖になったといいます。しかし、実際はそれ以前に石川一族はこの地にいて勢力をもっていたらしい。政康は蓮如が生きた同時代に石川一族を束ねていた存在だったようなのですね。

 政康の子は三人いて、三男の親康が松平親忠につきました。親康の子、忠輔は伯父の康長と図って、門徒武士団を組織して安祥家に入れます。松平家と組んだ親康の系統が実質的に石川一族のリーダーシップをとることになりますが、この石川一族の正嫡は親康ではなく、兄の康長なのですね。彼の子孫である春重は小川に住み酒井忠善(忠次の父)、本多広孝ら松平譜代の有力家臣の娘を妻としております。
寛政重修諸家譜では春重は康長の子ということになっていますが、彼は家康に仕えたことになっております。松平親忠に仕えたという親康から松平広忠を主人とした清兼の代まで三代の間があることを考えると、康長と春重の間にも、数代あったと考えるのが自然でありましょう。寛政重修諸家譜には家康に仕えたとありますが、それ以前の広忠や清康に仕えたとは記されていない人物です。松平家とは直接関わらずに存続した石川の族葉と言えそうです。正確には家康ではなく、家康の嫡男、信康に仕えていたそうです。

 忠輔は門徒武士を安祥城にいれて家臣団を形成した功労者ではありますが、三河後風土記正説大全によると、一門衆の意を受けて、主君である信忠をだまして押籠めた実行犯であるとされています。忠輔は信忠の側近の立場にあったものと見てよいでしょう。このエピソード自体、平安時代の『大鏡』の花山天皇の出家の段にもみられるような、主君を騙して隠居させる家臣のパターンを踏襲していますので、文字通りあったものかどうかはわかりません。ただ、押籠め後も、信忠は発給文書に署名をしていますし、自分を押籠めた一門・家臣達に対する報復行動にもでていません。信忠と忠輔ら家臣達の関係は残されたエピソードだけではうかがい知れない複雑なものを感じさせられます。

 清兼は初名を忠成といったと寛政重修諸家譜には書いてありますが、現存する文書をみるに忠成が本当の名前だったと思われます。清康の代から松平家に仕えていたとありますが、清康の代においては目立った活躍はありません。広忠の代において、竹千代誕生の折に蟇目役をつとめておりますから、清康の代においても重要な役目をおっていたものと推察します。後妻に水野忠政の娘を迎えております。忠政が死に、織田方に走った信元が松平家と手切れをしました。広忠も水野忠政の娘の於大を妻としており、これを離縁します。同様に水野忠政の娘を娶っていた一門衆の形原松平家広もそれに倣って離縁をしております。しかし、清兼は自ら迎えた水野家の妻を離縁することはありませんでした。武士団という顔だけではなく、矢作川の水運の束ねとしての顔を持つ石川清兼としては、三河湾、伊勢湾の水運に噛んでいる水野家との関係は切るに切れないという事情があったと思われます。
 そのような立場で広忠を支えていたのですが、安祥城落城の折には娘婿である酒井雅楽頭正親とともに、遺恨ありと酒井忠尚、大原左近右衛門、今村伝次郎に非難され、松平家臣団の分裂を招きます。おそらくは、広忠が水野と離縁して敵対しているのに、石川は関係を継続していること、それによって安祥の落城を招き、矢作川西岸を領する者は織田に属さないと生活基盤が成り立たなくなったということではないかと思われます。
 清兼にしてみれば斎藤道三と織田信秀の和睦で和平の到来を考えていたものと思われますが、それは裏目に出ています。おまけに信秀の息子の吉法師までが元服し、信長と名乗って大浜に攻め入っているのですね。居城の那古屋から大浜へのルートですが、いきなり三河領の大浜にたどり着いているところをみると、船を使ったルートだと考えられます。想定されるのは、熱田――常滑――成岩――大浜ルートでしょうか。同盟を結んだ水野家の支援を得たことでしょう。当然、石川清兼の元にも水野家の縁を通して織田信秀の調略の手が伸びていたと思われます。
 しかし、石川清兼はここで逆張りをしたようなのですね。織田信秀は織田大和守達勝や斎藤道三とは違い、一向宗門徒に対しては非妥協的に見えます。というのは、津島湊を配下におさめていながら、その河口の出口である要所、荷ノ上(二ノ江)を押さえられていないのですね。ここは河口の輪中内にあり、本願寺教団の勢力化にありました。この地勢は長島の願証寺と連携を取って河口を封鎖することは容易です。信秀が古渡に移って伊勢湾に直接臨む熱田湊を手に入れたのはそんな事情もあったのですね。水野信元が織田方に付いたことにより、松平と水野は対立することになりましたが、石川とは袂を分かたず、共通の利害で動いておりました。しかし、織田が安祥を落としたことで両者の関係は抜き差しのならないものに変わります。

ここで安祥落城が1540年(天文九年)ではなく、1547年(天文十六年)だとすれば、矢作川水運を巡る水野氏と石川氏の対立関係は今川義元の参戦によって比較的短期に終わったものだと見なすことができます。その代償として、松平宗家は崩壊しました。1549年(天文十八年)三月六日、松平広忠は岩松八弥によって殺害されます。
 その老臣である石川清兼はもう一つの顔をもっていました。野寺本證寺の大檀那として、矢作川一帯の門徒武士団の束ねとしての顔です。
広忠の死の翌月、四月七日のこと野寺本證寺の住持の交替があったときに、新住職であるあい松という人物を支持する旨の連判状が作成されました。その筆頭に署名したのが石川忠成(清兼)で、以下石川一門衆三十三名を含む、百十五人の名が連ねられております。その中には鳥居・阿部・榊原・酒井・本多・伊奈と、後の徳川家臣団の中核をなす一党の名があるのですね。松平家という核を失った岡崎家臣団が野寺本證寺とその背後にある本願寺教団を核とすることを模索したと見ることができるかもしれません。
 清兼はこの賭けに勝って、今川義元の信をも得て、広忠の死後も松平家重臣として城主不在の岡崎城にて政務をみることとなりました。
 そして、今度は水野と石川の縁を通じて今川が水野を調略する番に回ります。水野家はこの難局を十二年間、織田と今川の双方から来る揺さぶりに耐えなければならない立場に立ったのです。

|

« 川戦:崩壊編⑩忠俊の発心Ⅱ | トップページ | 川戦:崩壊編⑫結語 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/44254172

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:崩壊編⑪石川清兼:

« 川戦:崩壊編⑩忠俊の発心Ⅱ | トップページ | 川戦:崩壊編⑫結語 »