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2009年3月11日 (水)

川戦:崩壊編⑫結語

 松平広忠が死んだ1549年(天文十八年)という年は、色々な意味で節目をもった年でした。まず、六月に摂津の国中ノ島近隣にある江口で三好長慶と細川晴元・三好政長が合戦し、細川晴元は敗北、将軍足利義晴ともども京を追われます。細川晴元は同族の高国を破り、足利義晴と和解して右京大夫を名乗り、右京兆家家督となったのが1537年(天文六年)です。なので、彼が京で実権を持っていた期間は広忠が岡崎で松平家家督をしていた期間と一致しているのですね。晴元はその後も、彼を京から追い出した三好長慶と戦い続け、1563年(永禄六年)に没します。丁度三河国に一向乱が起こった年でした。細川晴元が京を追い出されて後、京を支配したのは三管四職のどの家柄にも属さない、陪臣の三好長慶でした。
 また、広忠の死の翌年、1550年(天文十九年)に本願寺教団の指導者蓮淳が没します。彼は死の間際に自らが破門して死に追いやった人々を許したそうです。これを義弟の実従が破門するということは永劫救われることがないという意味なのに、それが許されるということは一体いかなる教義に基づくものなのだろうか、と批判しています。そんな批判を受けるほど本来の浄土真宗の教義とはかけ離れた行動をとった人物であります。しかし、彼の尽力が本願寺教団を強力な戦闘集団に変えて教団を生きながらえさせました。彼がいなければ、本願寺教団は無間の戦争の連鎖の中で潰えていたでしょうし、後の法主顕如が織田信長と死闘を演じることもなかったでしょう。彼が建てた願証寺の近隣の津島から織田信秀が起こり、尾張国を席巻するなかで、願証寺は斎藤氏や織田大和守家と結んでこれを牽制していました。織田信秀は蓮淳の死の翌年に死にます。別説でその前年の1549年(天文十八年)ともいわれていますが、正確なところは不明です。信秀の死は今川家の活動を勢いづけ、これをきっかけに今川家は尾張国調略に乗り出すことになるのです。

 これをもって『川の戦国史』の一区切りとさせていただくことに致します。書き漏らしたことはたくさんありますし、後から勉強して増補したいところも数多あるのですが、今日のところはこれくらいで勘弁してやるです。いや、勘弁してください。まずは読み返すと酷い日本語と勘違いした書き間違いが数多ありますのでそれを直させてください。大久保彦左衛門ほどではないとは思うのですが、明らかに麻生総理以上の日本語の間違いがあります。これ以上駄文を増やすのは一端止めて、改稿に精を出すことにします。

 もっと詳しく書きたかったのは、石川一族と水野一族についてです。調べた史料がとにかく徳川家絡みの史料ばかりで、良質な史料や、そちらの方面に踏み込んだ研究書にあたれなかったのが悔しい。
 タイトルを川の戦国史にしたのは、本願寺教団と三河武士団の位置関係を焙り出すことが第一のテーマでした。いろいろトンデモ説をぶちあげはしましたが、それによって両者の距離がおぼろげながら見えてきたような気がします。

 ただし、石川家や水野家、さらに広げれば戸田家や佐治家、水野家でも刈屋と緒川と常滑、そして大高の関係等々、その背景となる伊勢湾・三河湾の海運、河川流通の関係性が今もって見えていないのですね。これは本稿でも取り上げた安祥合戦や後に続く桶狭間合戦に至る今川家と織田家の対立構造、特に本願寺や織田家に何故無尽蔵とも思える財力が備わったのかを読み解く鍵になるのではないかと思うのですが、今のところ届かないままです。

 ともあれ、ここまで読んでくださった方々にはただただ感謝です。
 最後の最後に本稿を作成するにあたって利用した参考文献を列挙させていただきます。
 これをもって結語の締めとさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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