« 川戦:補遺 | トップページ | 川戦:補遺Ⅲ 北条氏康文書について② »

2009年5月24日 (日)

川戦:補遺Ⅱ 北条氏康文書について

 以前、『川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ』で北条氏康文書を紹介いたしました。典拠としたのは平野明夫氏が『三河松平一族』にて示されている説に基づき、東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』1989年09月発行 百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』を引用して我流で読み解いたものです。同文書は安祥城陥落の年次を天文十六年とする説の重要な典拠でもあります。

 平野氏はこの文書の紹介にあたり、横山住雄氏が『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』中で、『「去年」を文字どおり解釈すると天文十六年ながら、「去る年」と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でもよいことになるとし、信秀も外交上の駆け引きで去年という表現をあえて用いたかもしれないとする』と解説され、横山氏は天文九年説の支持者なのだと得心していたのですが、某所でその横山氏の同書引用として、『この書状によれば、信秀は今川義元と合意の上で天文十六年に安祥を攻略し、西三河を占領支配したことになり、三河の中世史に問題を提起することになるだろう』という紹介をされていたのですね。
 なので、果たして横山氏は天文九年説支持者ではなかったのか、とか、信秀と今川義元との合意って何のことだろう。少なくとも平野氏はそんなことは書いていなかったし、横山氏の同書にはどんな文脈でかかれていたのだろう、などと、もどかしい思いをしていたのですが、ようやく、横山住雄氏の『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』を図書館で借りることが出来、内容にも納得できましたので整理の意味でここに書き記します。

 『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』において、安祥城陥落について触れているのは、同書133-138頁の『四、安祥城の経営』においてです。あらましをいかにざっと箇条書きにします。
①安城近隣の各市・町史誌記載の陥落年次を紹介。天文九年、天文十三年、天文十四年のうち、天文九年説が定着しつつあると記載。
②天文九年十二月十八日付妙源寺文書より、「安城乱中云々」の文書紹介。妙源寺寺領の田畑の一部が織田領となった可能性に言及。
③天文十七年三月十一日付北条氏康文書の紹介。去年の解釈の話。今川家と北条家との和議の話から、文書が天文十七年のものであると比定。その上で、三河中世史に問題提起云々。
④三河物語の参照と、天文六年~天文十四年までは義元には、三河に対する余力なしの情勢下で北条氏康との連携をもった織田信秀の慧眼に注目。
⑤ 広忠の安祥城奪回作戦についての言及。天文十四年安祥城奪回戦の紹介。天文十五年の上野城攻略には疑問符。同年の久松俊勝・佐治為貞への調略活動など。

 『四、安祥城の経営』をざっと読んだ印象においては、横山氏は各説検討した上で、天文九年説を最も有力な説と見なしております。中世三河史に問題提起云々はもし、天文十六年と解釈するならば、という前提つきの見解にすぎません。もし、本気で天文十六年説を展開するならば、②の天文九年文書の「安城乱中云々」や、⑤の天文十四年の広忠による安祥城奪還戦を紹介する時に、天文十六年安城陥落説との整合性にふれないわけには行かないでしょうが、その部分はスルーしています。それが私が横山氏の立場が天文九年説であると感じた理由です。さりながら、一次史料をもって安祥陥落が天文十六年である可能性に言及したこと、その点に関しては大きな意義があったと思っております。もとより、安祥陥落天文十六年説は精査・検討が必要であると私は感じております。それだけに刺激的に満ちているのですね。大変面白いネタではあります。

 但し、横山氏が紹介された史料の内容については、若干の問題があると指摘せざるを得ません。氏は史料紹介を現代語訳で行っているのですが、元文と比較するに首を捻らされる内容が多いのです。横山氏は同文書を『(内閣文庫「古證文」)(平成三年に『小田原市史・中世資料編Ⅱ』に収録された)』と引用元を示されています。内閣文庫には手が出なかったので、『小田原市史・中世資料編Ⅱ』と比べてみました。先に私が引用した戦国遺文のものとは若干の異同はありますが、ほぼ同じソースです。以下、私が首を捻った部分を書き記します。

① 信秀は今川義元と合意の上で……
 (織田信長の系譜)すなわち三州のことは、駿州今川氏に相談のうえ、去年三州に向けて軍を送り
 (小田原市史)  仍三州之儀、     駿州へ無相談、     去年向彼国被起軍、

 横山氏が『相談のうえ』とする部分は小田原市史では『相談無く』としか読み下せません。もし、相談のうえと解釈するなら『駿州上相談』として、無を上と解釈しなければなりません。氏は少なくとも小田原市史には目を通していないことになります。内閣文庫がくずし字でかかれていて、そちらを典拠とされているのかと、辞典で無と上を比べてみましたが、無の方が画数が多い分、混同するような差異があるようには見えませんでした。もしかすると『無』の異字体である『无』と書かれているのかもしれませんが、横山氏と小田原市史、戦国遺文との解釈に差があることは確かなようです。

② 尾張から占領&今川氏にも連絡
 (織田信長の系譜)ことに岡崎城は、尾張から占領について、今川氏にも連絡の上で本意を遂げてください。
 (小田原市史)殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候

 横山氏の訳の尾張は文面に出ておりません。もし、文面に出るなら貴国が穏当なところでしょう。其国は駿河=今川義元が妥当な解釈だと思います。また、本意の目的語を岡崎之城とするのは若干無理がありそうです。今橋は地名と解するのが妥当なところですね。

② 三河国を取るとのことは
 (織田信長の系譜)ここに三河国を取るとのことは、やむを得ないことと思う。
 (小田原市史)  因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

 横山氏の解釈では三河国を信秀が取ることがやむを得ないと訳しています。しかし、その前段で安城を信秀がとり、今橋を今川が取ったことを言っています。この文章に対して横山氏は触れていませんが、次段で天文十五年の今川義元の吉田(今橋)奪取についてはふれています。よって、ここの「被」は受動で、彼国は三河国を意味します。彼の国(=三河国)が今川と織田に領土を詰められることと解することが妥当だと思います。

 以上みてきたように、戦国遺文や小田原市史所載の文面を信じる限りにおいて、横山氏の解釈にはやや強引な所があるのではないか、と考える次第です。
 とはいえ、『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』は織田信秀に関わる史料が網羅的に解説されていて、とても興味を引くものです。じっくり読んで勉強してゆきたいと思います。

|

« 川戦:補遺 | トップページ | 川戦:補遺Ⅲ 北条氏康文書について② »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/45108288

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:補遺Ⅱ 北条氏康文書について:

« 川戦:補遺 | トップページ | 川戦:補遺Ⅲ 北条氏康文書について② »