« 2009年5月 | トップページ | 2013年5月 »

2009年6月28日 (日)

川戦:補遺Ⅲ 北条氏康文書について②

 いつもお世話になっているブログの世話人様より、前に書かせていただいた『補遺Ⅱ 北条氏康文書について』の記事につきまして、情報提供をいただきました。安城市史編集委員会編『新編安城市史5 資料編 古代・中世』(平成十六年刊行)内の村岡幹生准教授の記事です。読ませていただき、大変勉強になりました。

 『新編安城市史』は『織田信長の系譜』(平成五年刊行)より後に出版されているものですが、安城市史の論考は『織田信長の系譜』の記事での解釈と矛盾は殆どないことから、近い認識にたって書かれたものであると見なして良さそうです。安城市史の論考は根拠が的確に示されており、『織田信長の系譜』の記事内容を補完するものとしておおきな説得力がありました。以下、以前に書いた織田信長の系譜記事の疑問点に即して安城市史の記事を紹介します。

>(小田原市史)仍三州之儀、駿州へ『無相談』、去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、
>(安城市史) 仍三州之儀、駿州へ『被相談』、去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、

 一番気になっておりましたのは『無相談』の箇所です。安城市史では『被相談』とされています。これだとたしかに『相談され』とか、『あい談じられ』と読み下せますね。安城市史では、文書中の『文字自体は『被』である』とし、『無』とされているものは『被』は誤写である解釈した版刻者の解釈(戦国遺文と小田原市史はその説を採っております)であるとされているのですね。
 これは是非とも、内閣文庫を調べて自分の目で確かめねば、と思うものの、それを調べる機会をしばらくは得られなさそうです。もっとも、安城市史には『「朝野旧聞裒藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられれているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』とあります。
「朝野旧聞裒藁(※ちょうやきゅうもんほうこう=幕末の官学史家、林述斎らが編纂した徳川創業史料集)」

 というわけで朝野旧聞裒藁を調べてみました。テキストとしたのは「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞裒藁 第一巻」史籍研究会編 汲古書院刊です。底本は林述斎が幕府に献本し、紅葉山文庫に収められたものが、内閣文庫に引き継がれたものです。本書は影印本(手書きの底本を写真撮影した上でオフセット印刷したもの)で、筆跡が明確に判るものです。少なくとも、幕府の史家が氏康文書(オリジナルか写しであるかは不明)をどのように読んだかを知るよすがになるだろうと思います。
 その文書内の『(無・被)相談』と『増訂・近世古文書解読字典』(林英夫監修 柏書房刊)にある、『無』と『被』の用例を比較してみました。

Photo

 結論を述べると、朝野旧聞裒藁の編纂者は氏康文書の『(無・被)相談』を『被相談』と読んでいるとみていいと思います。その根拠は同文書中のほかの箇所で使われている『被』の字と『(無・被)相談』の筆跡が近似していること、また『被』は古文書で頻繁に使われる字であるため、古文書の筆跡では崩された小さな文字でかかれるのですが、朝野旧聞裒藁内の文書も同様に書かれていることの二つです。

 但し、朝野旧聞裒藁の編纂者の筆跡による『被』の崩し字と『増訂・近世古文書解読字典』の例文にある『無』の崩し字はとてもよく似ているので、誤写の可能性は排除できません。

 結論付けるには国立公文書館の内閣文庫に収蔵されている古証文を確認してみる必要があるようです。安城市史の記事内容につきましては、次項に続ける予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2013年5月 »