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2013年5月31日 (金)

川戦:安城合戦編⑫漢字パズルⅡ(無の読み方)

図表2:32文字目:「被相談」の「被」
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この文字は、刊本においても、安城市史が「被」としているのに対し、戦国遺文・小田原市史は「無」と読んでいて、解釈が分かれております。朝野旧聞ほう藁と古証文三種については、それぞれ微妙に字形が違っていることが判るかと思います。

図表3:判読辞典「無」と「被」
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比較対象として、以前も出したものですが、近世古文書判読辞典(柏書房刊)所載の「無」と「被」の字体を出させていただきました。それぞれいくつかの字体がサンプルとしてでていました
が、肉筆本の字体にもっとも似ているものをセレクトしております。それぞれの字体に似ているものを順番に並べると以下のようになります。

「無」<古(酉)≦古(和)<古(不)≦朝野<「被」

 比較は微妙ですが、朝野の字体よりも、古証文の字体の方が、比較対象の「無」の字によっているように見えます。

 史料パズルと題した前稿にて、朝野の北条氏康文書が不完全であった理由を乱丁のある古証文をそのまま書写したためと書かせていただきました。国立公文書館蔵の内閣文庫にあった三部の肉筆本古証文のうち、二冊が乱丁状態のまま保管されております。このことから、この他にも存在しただろう古証文の書写本もまた、乱丁状態のまま、筆写されていたでしょう。
乱丁状態が正されている大久保酉山旧蔵本も冊数・巻数が同一形態の本がないことから、これもまた元は乱丁本であり、後になってそれを修正したものかと思料します。

図表4:「無」の字体比較
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032文字目が「無」と判読することが妥当であるか否かを考えるために、活字本で他に「無」として判読されている文字とを比較しておきました。対象になるのは111文字目にある「無余儀」(余儀なき)と142文字目の「無止候間」(止むこと無く候らわば)の「無」です。

一見してわかるのは朝野では32文字目と111、142文字目では、字体の構造そのものが異なる文字として認識されていることです。すなわち、32文字目は「被」として、111、132文字目は「無」として朝野は読んでいるもととして考えて差し支えないでしょう。

対して、 古証文肉筆本の三種の111、132文字目は、いずれも上記サンプルの「無」の構造を残しております。更に言えば、古(不)の32文字目は他の2書と異なり、サンプルの「被」の構造を併せ持っているともいえます。

安城市史の解説においては以下のようなコメントが付されております。
>「被相談」の「被」を「無」の誤写とみる説もあるが、文字自体は「被」である

朝野のみを見た時点では私自身も、それを否定しきれませんでしたが、肉筆本を観察して当該文字はむしろ「無」と読んでもよいように判断いたします。

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2013年5月29日 (水)

川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅠ(安城市史における「被相談」について)

 次に、織田信秀の安城侵攻に今川義元への相談があったか、否かの論点について述べてまいります。具体的には北条氏康文書の中にある『○相談』の文言が『被相談』なのか、『無相談』なのかを確認しようというのが趣旨です。
 以下は安城市史所載の北条氏康文書の本文と、個々の漢字が何番目の文字なのかを示したスケールをつけております。

01---+----10----+----20
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候
21---+----30---+----40
悦着候仍三州之儀駿州へ相談去年向彼国
41---+----50---+----60-
起軍安城者要害則時ニ破破之由候毎度御戦功
62--+----70----+----80--
奇特候殊岡崎之城自其国就相押候駿州ニも今橋
83-+----90----+----00-
致本意候其以後万其国相違之刷候哉因茲
02-+----10---+----20-
彼国相詰之由承候余儀題目候就中駿州此
22--+----30----+----40-
方間之儀預御尋候近年雖遂一和候自彼国疑心
42--+----50----+----60-
止候間迷惑候抑自清須御使并預貴札候忝候
62--+----70----+----80-
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
82--+
恐々謹言、

 次に、織田信秀の安城侵攻 方法論としては、上記文中の『無』と『被』の自体を抽出し、安城市史、戦国遺文、小田原市史の刊本史料と、朝野旧聞ほう藁及び、古証文(和学講談所版)等の肉筆本の字体を比較し、それぞれがどのような特徴をもっているかを比較することをもって、自分なりに妥当と考えられる読み方を検討するという手順を取ってゆきます。比較対象とする文字は32(被)、40(被)、51(被)、83(被)、104(被)、111(無)、142(無)の7文字で、特に32文字目の文字が被であるのか、無であるのかを判読してゆきたいと思います。

図表1:「無」と「被」の一覧
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 安城市史版の北条氏康文書より、「無」と「被」としている部分の文字を一覧比較しました。 032と040の文字において刊本である戦国遺文、安城市史、小田原市史の解釈に違いが出ております。
 また、肉筆文書においては、特に古証文において字形にばらつきがあります。逆に、朝野旧聞ほう藁においては、安城市史が「被」としている文字と「無」としている文字を書き分けていることが明瞭にわかるかと思います。
 古証文の肉筆字で、特にばらつきがあるのは、032、040、083の「被」の字です。このばらつきについては、後段で検討します。

以降、各史料の呼称は朝野旧聞ほう藁は朝野、大久保酉山旧蔵本古証文は古(酉)、和学講談所旧蔵本古証文は古(和)、旧蔵所不明本古証文は古(不)と略称させていただきます。

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2013年5月27日 (月)

川戦:安城合戦編⑩史料パズルⅡ

 前稿で紹介した古証文の6冊本の史料の並び順について、前稿で個別に見た史料の検証結果を加味してみます。

 ③の文書の切れ目が⑪文書の改頁後につながっております。よって、②、③、⑪の文書は以下の通りに分割することができます。⑨も文書の宛名の所で改頁をしていますので、一応分割しました。意味はつながっていても不自然ではありません。尚、宗瑞文書は『今度氏親~』で始まりますので、分割されて完全になります。

①     十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   氏康文書(多賀枇杷庄~)
③    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(不完全)

④    閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書
⑤      九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥      九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書
⑦天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧      四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書
⑨      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩      十月  九日付 徳川宛 (北条陸奥守)氏照文書
⑪  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン)

 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

①      十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②       七月  十 日付 一式式部少輔宛  木下藤吉郎文書(前半部分)《改頁》
②'天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン文末)
③   十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン前半部分)《改頁》
③'    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(完全版)

④     閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書《改頁》
⑤       九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥       九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書《改頁》
⑦ 天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧       四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書《改頁》
⑨       三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書《改頁》
⑨'      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書

⑩       十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪ 天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン前半部分)《改頁》
⑪'  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン文末)

 氏康文書の前半・後半が意味の通るように並べ替えるためには②'と③の文書が⑪の後にくればよいことになります。また、②と③'の間には木下藤吉郎文書の後半部分だけではなく、他の文書がくることが予想されます。以上を並べ替えると次の形になります。この並びの③'~⑪'までの並びは4冊七巻本と一致します。(①~③'までの並びは確認はとれていません)

①      十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②       七月  十 日付 一式式部少輔宛  木下藤吉郎文書(前半部分)《改頁》
       (木下藤吉郎文書の後半部は未確認。更に別文書が続くものと推測される)
③'    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(完全版)
④     閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書《改頁》
⑤       九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥       九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書《改頁》
⑦ 天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  義元文書
⑧       四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 義元文書《改頁》
⑨       三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書《改頁》
⑨'      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩       十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪ 天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン前半部分)《改頁》
②'天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(短文バージョン文末)
③   十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン前半部分)《改頁》

⑪'  十七年 三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(長文バージョン文末)

 以上の事実に基づき、安城市史の言う、(氏康文書)は『「朝野旧聞ほう藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』理由について結論を申し述べます。

 朝野旧聞ほう藁は同書が言うとおり、古証文から同書記事を引用しております。その古証文は乱丁のため、頁が入れ替わっており、長文バージョンの氏康文書と宗瑞文書が合体したものが一つの文書のように見えておりました。朝野旧聞ほう藁はその間違いを気づかないまま掲載したものです。内閣文庫の6冊本の二部は筆跡は異なりますが、二部ともが同様の乱丁をしております。併せて頁と行数、改行・改頁位置も合わされておりました。4冊七巻本も頁順を除けば同様であるので、これら三冊は乱丁のある二冊のいずれかが種本になったか、または、乱丁のある底本から手作業でカーボンコピーのように忠実に筆写されたものと言えると思います。4冊七巻本も冊数と巻数が異なるバージョンとして作られていることから、後になって乱丁に気づいて、綴り直された本であると考えるべきかと思われます。

 もう一方の朝野旧聞ほう藁は、文面を肉筆書写しているものの、改行位置は異なっておりますし、字形も必ずしも忠実とは言い難い印象を持ちました。そのあたりについては、次稿にて詳しく述べてゆこうと思います。

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2013年5月25日 (土)

川戦:安城合戦編⑨史料パズルⅠ

 ここまでずっと過去記事の再掲を続けておりましたが、いよいよ本題の『北条氏康文書』について新たに調べたことを書いてゆこうかと思います。

 本稿のテーマですが、安城市史編集委員会編『新編安城市史5 資料編 古代・中世』(平成十六年刊行)内の記事(523頁)において、当該史料について、村岡幹生准教授が『「朝野旧聞ほう藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』と書かれている部分に対する論考です。

 朝野旧聞裒藁とは、1841年(天保十二年)に編纂された林述斎の手による徳川氏創業史の資料集で、全1,093巻あります。この本は、編年体で項目ごとに典拠を示すために関連史料をのせている所が特徴と言えるでしょう。前稿で触れた通り、汲古書院から史籍研究会編が「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞裒藁」という影印本(手書きの底本を写真撮影した上でオフセット印刷したもの)を出しております。前稿を書いた当時私はこの本とこの本が典拠としている古証文なる古文書とを突き合わせてみれば、江戸幕府の史家が氏康文書をどのように読んだかを知るよすがになるだろうと考えておりました。

 さて、古証文ですが、国立公文書館の内閣文庫に蔵されております。下記URLに古証文で検索をかければ、当該氏康文書が記載されている三種の肉筆和綴本を確認することができます。

 (国立公文書館デジタルアーカイブ)

 請求番号 159-0252  大久保酉山旧蔵 ⇒ 内務省蔵 4冊7巻本
 請求番号 159-0261  和学講談所蔵         6冊本
 請求番号 159-0256  旧蔵者不明          6冊本

 それぞれ、違う人物が書写しているようで、筆跡は異なっております。また、一部分を見ただけですが、一部を除き、同じ史料を載せておりました。但し、4冊七巻本と六冊本では異なるバージョンの史料を載せてることを確認しました。それが、今話題にしている氏康文書であったのです。4冊七巻本には、小田原市史、戦国遺文、安城市史に掲載されている完全版が、六冊本には朝野旧聞ほう藁が載せている永正三年閏十一月七日付宗瑞書状につながった不完全版が収録されておりました。
 以下は当該史料を中心とした六冊本の史料の並びです。織田信長や伊勢宗瑞など、活躍した年代の異なる文書が順不同に並んでおりますが、③が朝野旧聞ほう藁で引用されている不完全な氏康文書と同じ内容でした。また、⑪には、氏康文書の短文バージョンが掲載されております。

①     十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(多賀枇杷庄~)
③    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(不完全)

④    閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書
⑤      九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥      九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書
⑦天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  今川義元文書
⑧      四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 今川義元文書
⑨      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩      十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪  十七年三月十一日付 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン)

 ここで注目すべきは②と③と⑪の文書です。③については、既に安城市史で言及されていますので後回しにし、②と⑪をみてゆきます。まずは以下にその②の全文を掲示します。

②織田弾正忠宛氏康文書(多賀枇杷庄~)

多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知《改頁》
可得御意恐々謹言

  天文十七
    三月十一日
             氏康在判
    織田弾正忠殿

この文書は⑪の短文バージョン氏康文書と同一日付となっております。よって、これも北条氏康が織田信秀にあてた文章のようですが、内容を読むと多賀枇杷庄という土地についてのやりとりをしているようです。でも、信秀と氏康は主従関係ではありませんし、その領地も関東と尾張で非常にかけ離れております。これは大変不自然です。色々史料をあさっていると以下のようなものにぶち当たりました。

②'一色式部少輔宛木下藤吉郎秀吉文書(織田信長文書の研究(同上))
多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知
行分者、被止御違乱可然候、殊御下知
朱印有事候、御分別専用候、恐々謹言

            木下藤吉郎
  七月十日      秀吉(花押)
   一色式部少輔殿
         人々御中

 織田信長文書研究所載の一式式部少輔宛木下藤吉郎文書です。『多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知』の部分が全く同一になっております。しかも、知行宛がいの文書ですから、こちらの内容に不自然さはみられません。とすると、古証文の多賀枇杷庄から始まる文書に何らかの誤りがあることを疑わなくてはなりません。また、併せて押さえておくべきは、改頁の後に違いが生じているということです。

 さらに、⑪の文書に着目してみました。これも精査して見ると、小田原市史や安城市史所載の同書文面と若干の異同があります。

⑪十七年三月十一日 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン・文字判読は安城市史に従う)
貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故
不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、
預御尋候、先年雖遂一和候、自披国疑心
無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、《改頁》
謹言、

十七年
 三月十一日
 織田弾正忠殿
                  氏康在判

 異動部分は文末の『謹言』と『十七年』とある日付部分です。締めくくりの文章として謹言となっていますが、恐々、恐々謹言ではなく、謹言と略するのはやや珍しい気がしました。

以下は安城市史の短文バージョン氏康文書です。

 五二八 〔参考)北条氏康書状写  (古証文)

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、
      (今川義元)
背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖
遂一和候、自披国疑心無止候、委細者、御使可申入
候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、
天文十七

 三月十一日
  〈信秀)
 織田弾正忠殿
                 (北条)
                  氏康在判

 以下に同じく安城市史の長文バージョンの最終節を引用します。着目すべきは謹言以降は⑪文書と全く同一文言になっているところです。更に言うならば⑪文書の異動②文書と同様は改頁の後に発生しております。

何様御礼自是可申入候、委細者、使者可有演説候、
恐々謹言、
  (天文)
 十七年          (北条)
  三月十一日       氏康在判
          (信秀)
    織田弾正忠殿
             御返報

 現物の古証文は和綴本です。和綴本は袋とじになっております。ここで《改頁》と記した部分は、②も⑪も綴じ代を挟んだ次頁になっておりました。だとすれば、これは乱丁によって、別の文書がつながってしまったのではないか? そのように考えました。③の文書も同様に確認して見ます。

③ 閏十一月七日付 巨海越中守宛(北条早雲)宗瑞文書(不完全・文字判読は安城市史に従う)
如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ
示給候悦着候、仍三州之儀、駿州へ被相談、
去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ
被破破之由候、毎度御戦功奇特候、殊岡崎
之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被
致本意候、其以後、万其国相違之刷候哉、
因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、
就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖
遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、
抑自清須御使并預貴札候、忝候何様御礼
自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々《改頁》
今度氏親(~以下宗瑞文書。以下略)

 改頁位置をもって、宗瑞文書が始まっております。宗瑞文書は今度氏親で始まる全文で完全版となります。

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2013年5月23日 (木)

川戦:安城合戦編⑧北条氏康文書についてⅢ(再掲)

いつもお世話になっているブログの世話人様より、前に書かせていただいた『補遺Ⅱ 北条氏康文書について』の記事につきまして、情報提供をいただきました。安城市史編集委員会編『新編安城市史5 資料編 古代・中世』(平成十六年刊行)内の村岡幹生准教授の記事です。読ませていただき、大変勉強になりました。

 『新編安城市史』は『織田信長の系譜』(平成五年刊行)より後に出版されているものですが、安城市史の論考は『織田信長の系譜』の記事での解釈と矛盾は殆どないことから、近い認識にたって書かれたものであると見なして良さそうです。安城市史の論考は根拠が的確に示されており、『織田信長の系譜』の記事内容を補完するものとしておおきな説得力がありました。以下、以前に書いた織田信長の系譜記事の疑問点に即して安城市史の記事を紹介します。

>(小田原市史)仍三州之儀、駿州へ『無相談』、去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、
>(安城市史) 仍三州之儀、駿州へ『被相談』、去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、

 一番気になっておりましたのは『無相談』の箇所です。安城市史では『被相談』とされています。これだと確かに『相談され』とか、『あい談じられ』と読み下せますね。安城市史では、文書中の『文字自体は『被』である』とし、『無』とされているものは『被』は誤写である解釈した版刻者の解釈(戦国遺文と小田原市史はその説を採っております)であるとされているのですね。
 これは是非とも、内閣文庫を調べて自分の目で確かめねば、と思うものの、それを調べる機会をしばらくは得られなさそうです。もっとも、安城市史には『「朝野旧聞ほう藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』とあります。
「朝野旧聞ほう藁(※ちょうやきゅうもんほうこう=幕末の官学史家、林述斎らが編纂した徳川創業史料集)」

 というわけで朝野旧聞ほう藁を調べてみました。テキストとしたのは「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞ほう藁 第一巻」史籍研究会編 汲古書院刊です。底本は林述斎が幕府に献本し、紅葉山文庫に収められたものが、内閣文庫に引き継がれたものです。本書は影印本(手書きの底本を写真撮影した上でオフセット印刷したもの)で、筆跡が明確に判るものです。少なくとも、幕府の史家が氏康文書(オリジナルか写しであるかは不明)をどのように読んだかを知るよすがになるだろうと思います。
 その文書内の『(無・被)相談』と『増訂・近世古文書解読字典』(林英夫監修 柏書房刊)にある、『無』と『被』の用例を比較してみました。

 結論を述べると、朝野旧聞ほう藁の編纂者は氏康文書の『(無・被)相談』を『被相談』と読んでいるとみていいと思います。その根拠は同文書中のほかの箇所で使われている『被』の字と『(無・被)相談』の筆跡が近似していること、また『被』は古文書で頻繁に使われる字であるため、古文書の筆跡では崩された小さな文字で書かれるのですが、朝野旧聞ほう藁内の文書も同様に書かれていることの二つです。

 但し、朝野旧聞ほう藁の編纂者の筆跡による『被』の崩し字と『増訂・近世古文書解読字典』の例文にある『無』の崩し字はとてもよく似ているので、誤写の可能性は排除できません。

 結論付けるには国立公文書館の内閣文庫に収蔵されている古証文を確認してみる必要があるようです。安城市史の記事内容につきましては、次項に続ける予定です。

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2013年5月21日 (火)

川戦:安城合戦編⑦北条氏康文書についてⅡ(再掲)

 以前、『川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ』で北条氏康文書を紹介いたしました。典拠としたのは平野明夫氏が『三河松平一族』にて示されている説に基づき、東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』1989年09月発行 百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』を引用して我流で読み解いたものです。同文書は安祥城陥落の年次を天文十六年とする説の重要な典拠でもあります。

 平野氏はこの文書の紹介にあたり、横山住雄氏が『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』中で、『「去年」を文字どおり解釈すると天文十六年ながら、「去る年」と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でもよいことになるとし、信秀も外交上の駆け引きで去年という表現をあえて用いたかもしれないとする』と解説され、横山氏は天文九年説の支持者なのだと得心していたのですが、某所でその横山氏の同書引用として、『この書状によれば、信秀は今川義元と合意の上で天文十六年に安祥を攻略し、西三河を占領支配したことになり、三河の中世史に問題を提起することになるだろう』という紹介をされていたのですね。
 なので、果たして横山氏は天文九年説支持者ではなかったのか、とか、信秀と今川義元との合意って何のことだろう。少なくとも平野氏はそんなことは書いていなかったし、横山氏の同書にはどんな文脈でかかれていたのだろう、などと、もどかしい思いをしていたのですが、ようやく、横山住雄氏の『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』を図書館で借りることが出来、内容にも納得できましたので整理の意味でここに書き記します。

 『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』において、安祥城陥落について触れているのは、同書133-138頁の『四、安祥城の経営』においてです。あらましをいかにざっと箇条書きにします。
①安城近隣の各市・町史誌記載の陥落年次を紹介。天文九年、天文十三年、天文十四年のうち、天文九年説が定着しつつあると記載。
②天文九年十二月十八日付妙源寺文書より、「安城乱中云々」の文書紹介。妙源寺寺領の田畑の一部が織田領となった可能性に言及。
③天文十七年三月十一日付北条氏康文書の紹介。去年の解釈の話。今川家と北条家との和議の話から、文書が天文十七年のものであると比定。その上で、三河中世史に問題提起云々。
④三河物語の参照と、天文六年~天文十四年までは義元には、三河に対する余力なしの情勢下で北条氏康との連携をもった織田信秀の慧眼に注目。
⑤ 広忠の安祥城奪回作戦についての言及。天文十四年安祥城奪回戦の紹介。天文十五年の上野城攻略には疑問符。同年の久松俊勝・佐治為貞への調略活動など。

 『四、安祥城の経営』をざっと読んだ印象においては、横山氏は各説検討した上で、天文九年説を最も有力な説と見なしております。中世三河史に問題提起云々はもし、天文十六年と解釈するならば、という前提つきの見解にすぎません。もし、本気で天文十六年説を展開するならば、②の天文九年文書の「安城乱中云々」や、⑤の天文十四年の広忠による安祥城奪還戦を紹介する時に、天文十六年安城陥落説との整合性にふれないわけには行かないでしょうが、その部分はスルーしています。それが私が横山氏の立場が天文九年説であると感じた理由です。さりながら、一次史料をもって安祥陥落が天文十六年である可能性に言及したこと、その点に関しては大きな意義があったと思っております。もとより、安祥陥落天文十六年説は精査・検討が必要であると私は感じております。それだけに刺激的に満ちているのですね。大変面白いネタではあります。

 但し、横山氏が紹介された史料の内容については、若干の問題があると指摘せざるを得ません。氏は史料紹介を現代語訳で行っているのですが、元文と比較するに首を捻らされる内容が多いのです。横山氏は同文書を『(内閣文庫「古證文」)(平成三年に『小田原市史・中世資料編Ⅱ』に収録された)』と引用元を示されています。内閣文庫には手が出なかったので、『小田原市史・中世資料編Ⅱ』と比べてみました。先に私が引用した戦国遺文のものとは若干の異同はありますが、ほぼ同じソースです。以下、私が首を捻った部分を書き記します。

① 信秀は今川義元と合意の上で……
 (織田信長の系譜)すなわち三州のことは、駿州今川氏に相談のうえ、去年三州に向けて軍を送り
 (小田原市史)  仍三州之儀、     駿州へ無相談、     去年向彼国被起軍、

 横山氏が『相談のうえ』とする部分は小田原市史では『相談無く』としか読み下せません。もし、相談のうえと解釈するなら『駿州上相談』として、無を上と解釈しなければなりません。氏は少なくとも小田原市史には目を通していないことになります。内閣文庫がくずし字でかかれていて、そちらを典拠とされているのかと、辞典で無と上を比べてみましたが、無の方が画数が多い分、混同するような差異があるようには見えませんでした。もしかすると『無』の異字体である『无』と書かれているのかもしれませんが、横山氏と小田原市史、戦国遺文との解釈に差があることは確かなようです。

② 尾張から占領&今川氏にも連絡
 (織田信長の系譜)ことに岡崎城は、尾張から占領について、今川氏にも連絡の上で本意を遂げてください。
 (小田原市史)殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候

 横山氏の訳の尾張は文面に出ておりません。もし、文面に出るなら貴国が穏当なところでしょう。其国は駿河=今川義元が妥当な解釈だと思います。また、本意の目的語を岡崎之城とするのは若干無理がありそうです。今橋は地名と解するのが妥当なところですね。

② 三河国を取るとのことは
 (織田信長の系譜)ここに三河国を取るとのことは、やむを得ないことと思う。
 (小田原市史)  因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

 横山氏の解釈では三河国を信秀が取ることがやむを得ないと訳しています。しかし、その前段で安城を信秀がとり、今橋を今川が取ったことを言っています。この文章に対して横山氏は触れていませんが、次段で天文十五年の今川義元の吉田(今橋)奪取についてはふれています。よって、ここの「被」は受動で、彼国は三河国を意味します。彼の国(=三河国)が今川と織田に領土を詰められることと解することが妥当だと思います。

 以上みてきたように、戦国遺文や小田原市史所載の文面を信じる限りにおいて、横山氏の解釈にはやや強引な所があるのではないか、と考える次第です。
 とはいえ、『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』は織田信秀に関わる史料が網羅的に解説されていて、とても興味を引くものです。じっくり読んで勉強してゆきたいと思います。

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2013年5月19日 (日)

川戦:安城合戦編⑥北条氏康文書についてⅠ(再掲)

以前、『川戦:崩壊編②真・安城城陥落Ⅰ』で北条氏康文書を紹介いたしました。典拠としたのは平野明夫氏が『三河松平一族』にて示されている説に基づき、東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』1989年09月発行 百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』を引用して我流で読み解いたものです。同文書は安城城陥落の年次を天文十六年とする説の重要な典拠でもあります。

 平野氏はこの文書の紹介にあたり、横山住雄氏が『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』中で、『「去年」を文字どおり解釈すると天文十六年ながら、「去る年」と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でもよいことになるとし、信秀も外交上の駆け引きで去年という表現をあえて用いたかもしれないとする』と解説され、横山氏は天文九年説の支持者なのだと得心していたのですが、某所でその横山氏の同書引用として、『この書状によれば、信秀は今川義元と合意の上で天文十六年に安城を攻略し、西三河を占領支配したことになり、三河の中世史に問題を提起することになるだろう』という紹介をされていたのですね。
 なので、果たして横山氏は天文九年説支持者ではなかったのか、とか、信秀と今川義元との合意って何のことだろう。少なくとも平野氏はそんなことは書いていなかったし、横山氏の同書にはどんな文脈で書かれていたのだろう、などと、もどかしい思いをしていたのですが、ようやく、横山住雄氏の『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』を図書館で借りることが出来、内容にも納得できましたので整理の意味でここに書き記します。

 『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』において、安城城陥落について触れているのは、同書133-138頁の『四、安城城の経営』においてです。あらましをいかにざっと箇条書きにします。
①安城近隣の各市・町史誌記載の陥落年次を紹介。天文九年、天文十三年、天文十四年のうち、天文九年説が定着しつつあると記載。
②天文九年十二月十八日付妙源寺文書より、「安城乱中云々」の文書紹介。妙源寺寺領の田畑の一部が織田領となった可能性に言及。
③天文十七年三月十一日付北条氏康文書の紹介。去年の解釈の話。今川家と北条家との和議の話から、文書が天文十七年のものであると比定。その上で、三河中世史に問題提起云々。
④三河物語の参照と、天文六年~天文十四年までは義元には、三河に対する余力なしの情勢下で北条氏康との連携をもった織田信秀の慧眼に注目。
⑤ 広忠の安城城奪回作戦についての言及。天文十四年安城城奪回戦の紹介。天文十五年の上野城攻略には疑問符。同年の久松俊勝・佐治為貞への調略活動など。

 『四、安城城の経営』をざっと読んだ印象においては、横山氏は各説検討した上で、天文九年説を最も有力な説と見なしております。中世三河史に問題提起云々はもし、天文十六年と解釈するならば、という前提つきの見解にすぎません。もし、本気で天文十六年説を展開するならば、②の天文九年文書の「安城乱中云々」や、⑤の天文十四年の広忠による安城城奪還戦を紹介する時に、天文十六年安城陥落説との整合性に触れないわけには行かないでしょうが、その部分はスルーしています。それが私が横山氏の立場が天文九年説であると感じた理由です。さりながら、一次史料をもって安城陥落が天文十六年である可能性に言及したこと、その点に関しては大きな意義があったと思っております。もとより、安城陥落天文十六年説は精査・検討が必要であると私は感じております。それだけに刺激的に満ちているのですね。大変面白いネタではあります。

 但し、横山氏が紹介された史料の内容については、若干の問題があると指摘せざるを得ません。氏は史料紹介を現代語訳で行っているのですが、元文と比較するに首を捻らされる内容が多いのです。横山氏は同文書を『(内閣文庫「古證文」)(平成三年に『小田原市史・中世資料編Ⅱ』に収録された)』と引用元を示されています。内閣文庫には手が出なかったので、『小田原市史・中世資料編Ⅱ』と比べてみました。先に私が引用した戦国遺文のものとは若干の異同はありますが、ほぼ同じソースです。以下、私が首を捻った部分を書き記します。

① 信秀は今川義元と合意の上で……
 (織田信長の系譜)すなわち三州のことは、駿州今川氏に相談のうえ、去年三州に向けて軍を送り
 (小田原市史)  仍三州之儀、     駿州へ無相談、     去年向彼国被起軍、

 横山氏が『相談のうえ』とする部分は小田原市史では『相談無く』としか読み下せません。もし、相談のうえと解釈するなら『駿州上相談』として、無を上と解釈しなければなりません。氏は少なくとも小田原市史には目を通していないことになります。内閣文庫がくずし字で書かれていて、そちらを典拠とされているのかと、辞典で無と上を比べてみましたが、無の方が画数が多い分、混同するような差異があるようには見えませんでした。もしかすると『無』の異字体である『无』と書かれているのかもしれませんが、横山氏と小田原市史、戦国遺文との解釈に差があることは確かなようです。

② 尾張から占領&今川氏にも連絡
 (織田信長の系譜)ことに岡崎城は、尾張から占領について、今川氏にも連絡の上で本意を遂げてください。
 (小田原市史)殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候

 横山氏の訳の尾張は文面に出ておりません。もし、文面に出るなら貴国が穏当なところでしょう。其国は駿河=今川義元が妥当な解釈だと思います。また、本意の目的語を岡崎之城とするのは若干無理がありそうです。今橋は地名と解するのが妥当なところですね。

② 三河国を取るとのことは
 (織田信長の系譜)ここに三河国を取るとのことは、やむを得ないことと思う。
 (小田原市史)  因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

 横山氏の解釈では三河国を信秀が取ることがやむを得ないと訳しています。しかし、その前段で安城を信秀が取り、今橋を今川が取ったことを言っています。この文章に対して横山氏は触れていませんが、次段で天文十五年の今川義元の吉田(今橋)奪取については触れています。よって、ここの「被」は受動で、彼国は三河国を意味します。彼の国(=三河国)が今川と織田に領土を詰められることと解することが妥当だと思います。

 以上見てきたように、戦国遺文や小田原市史所載の文面を信じる限りにおいて、横山氏の解釈にはやや強引なところがあるのではないか、と考える次第です。
 とはいえ、『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』は織田信秀に関わる史料が網羅的に解説されていて、とても興味を引くものです。じっくり読んで勉強してゆきたいと思います。

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2013年5月17日 (金)

川戦:安城合戦編⑤真・安城城陥落Ⅱ(再掲)

1547年(天文十六年)、織田信秀は安城城を攻撃し、落城させました。前年に窮鳥として懐に飛び込んできた土岐頼芸と斎藤道三との和睦がなっております。その前の年には守護代織田大和守達勝・彦五郎信友らとも平手政秀の仲介により和睦しており北方の憂いはひとまず消えております。自らの拠点も古渡からさらに三河よりに移って末森に城を構えました。水野信元を筆頭とする刈谷・緒川の水野一族も織田信秀につき、東征の準備は万端となりました。
 1540年(天文九年)説では先に松平広忠が尾張国鳴海に攻め込んだとありますが、水野一族の支援なくして鳴海に到達しうるとは少々考えにくいです。逆に元服したばかりの信秀の息子、信長の方が同盟を結んだ水野一族の支援の下に三河国大浜を襲ったりしております。1546年(天文十五年)のことです。この期間中、織田信秀が取ってきた戦術は調略でした。1544年(天文十三年)には水野信元を味方に引き込み、1545年(天文十四年)には織田守護代家と和睦し、1546年(天文十五年)には斎藤道三との戦いに終止符を打っています。信秀の調略の手は三河国にまで伸びているのですが、それは次稿で述べます。
 安城城を守備するのは松平長家をはじめとする松平軍。しかし、水野氏(おそらくは信元)と連携した織田信秀勢に五十名の戦死者を出して安城城は陥落しました。その戦死者についてのプロフィールを紹介します。

☆松平長家
 松平親忠の子であり、長親(道閲)、超誉存牛の弟に当たります。超誉と同い年だとすると七十八歳。松平親忠最晩年の子であるとすれば、四十六歳(1547年・天文十六年説にたった場合)になります。ただ親忠の最晩年というのは六十三歳ですからそれはありえなさそうです。普通に考えて還暦は越えてるでしょう。人間五十年のこの時代を考えれば、親忠の子供達は本当に長命です。

☆松平信康
 家康の嫡男と同じ名前を持つ人物で、広忠の弟です。広忠と同い年だと仮定し、1540年(天文九年)説に立つと十四歳。安城という要衝を老人と子供に守らせていたことになります。1547年(天文十六年)説に従えば二十一歳で、大将として様になる年齢ですね。実際にはもう少し若かったのかも知れません。それを一族の長老の一人である長家が支えたというところであるかのように思われます。

☆松平康忠
 甚六郎と呼ばれ、長家の弟である張忠の息子。矢田を領したとされます。世代的には信忠の従兄弟に当たります。

☆林藤助忠満、成瀬正頼
 松平広忠が元服前に流亡した折に岡崎城でクーデターを起こした大窪忠俊に加担したメンバーです。

☆内藤善左衛門、近藤与一郎
 このあたりについては余りデータはありません。近藤という姓には三河物語の中に広忠が岡崎に復帰した頃のエピソードがあります。清康の死をきっかけに勢力を大きく落とした松平家臣は自ら農作業をせざるをえない状況にありました。広忠がそれを見つけて自らの不甲斐なさを詫びるとともに、それでも自分に仕えてくれる譜代家臣に涙を流したとあります。その本人である可能性は低いとは思われますが、丁度いい機会なので書いておきます。

 以上が1540年(天文九年)六月安城城落城説で語られる主だった戦死者ですが、『安城の戦い』においてはさらに重要人物が死んでいます。

★大窪藤五郎
 宇津忠俊に自らの氏を名乗らせた越前出身の驍勇の士。彼は忠俊が自分の氏を継いでくれたことに満足し、安城城攻防の死線に身を投じました。安城城陥落の折に死んだわけではなく、その後渡河原の戦いで殿軍を引き受けたエピソードもあります。彼の死はその後の安城城の攻防においてと思われます。忠俊の年齢(四十八歳)から考えて、すでに第一線は引いているとは思われます。川の戦国史では根拠もなく彼を本願寺教団門徒として描写しておりましたが、もしそうであれば大窪藤五郎は口で言った『満足な死』とは裏腹の、自ら死地を求めた非業の最期だったように見えます。

★本多忠豊
 実を言うと安城陥落を1547年(天文十六年)に持ってくることには多少のきつさを感じております。きつさを感じさせる論拠の一つが1545年(天文十四年)に死んだ本多忠豊の事跡なんですね。本田忠豊は徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父に当たる人物です。寛政重修諸家譜には安城城の奪還を企図して松平広忠が出陣したものの、織田方にいち早く察知されて防御態勢を取られたばかりか、攻撃陣を崩されてしまいます。主君のピンチに忠豊は殿軍を買ってでて討ち死にするわけなんですが、同じ家譜史料でも先に出来た寛永諸家系図伝はもっとそっけなく、1545年(天文十四年)に安城畷にて戦死とだけ記されているのですね。攻城戦とも守城戦とも言っておりません。
 忠豊殿軍のエピソード自体、寛永年間から寛政年間の間に作られたものくさいのですね。(無論、この間に新史料が発掘されて採用されたのかも知れませんが、管見では出所が不明です)さりながら、寛永諸家系図伝が1545年(天文十四年)と言っていることは決して無視できません。1545年(天文十四年)の安城合戦話が『作られる』以前の伝承なのですから。
 強いて1547年(天文十六年)説に話を合わせるとすれば、本多忠豊は1547年(天文十六年)の安城城落城時に城にいて討ち死にしており、安城で戦死した伝承は残っていた。しかし、甫庵版信長記には小豆坂合戦が1542年(天文十一年)にあり、その時織田信秀軍は安城から軍を出したことになっており、その時までに安城城が落ちていなければならなかった。しかし、本多家には1545年(天文十四年)までの本多忠豊の生存が確認できる史料があり、やむを得ず1545年(天文十四年)に安城畷で戦死となったのではないか、と思います。(あくまでも推測でありこじつけです。)

★阿部次重
 彼が死んだのは安城城の戦いではなく、それに派生する上野城の戦いにおいてでした。阿部大蔵定吉の甥です。その二年後に定吉も死にます。次重の父定次は本能寺の変の年まで生き、戦功を残したと伝えられますが、なぜか具体的な活動が記録されておりません。また、定次には次重以外に子供を儲けていないのですね。後半生の長さを考えるといささか奇妙です。定次の天正十年死亡記事はひょっとしたら天文十年の誤伝なのではないかと疑ったこともありますが、確証はありません。彼の死をもって、六名の阿部家は事実上断絶するのですが、戦後に同じ1547年(天文十六年)の安城城の戦いで活躍し、弓の名手として名を残した大窪忠政を阿部定次の養子として迎え、大久保家の支族として六名阿部家は存続します。

★宇津(大久保)忠茂
 大窪忠俊の父親です。彼は1547年(天文十六年)二月に亡くなっております。安城合戦の始まる前で、直接関係ないのですが、ここまで見てゆくに林藤助忠満、成瀬正頼、大窪藤五郎、阿部次重と大窪忠俊に関わる人間がこの年に実にたくさん死んでいるわけですね。世代交代かも知れませんが、忠俊は大きな孤独を感じたのではないでしょうか。そしてこれが後の長福寺への帰依につながるのではないか。そんな風に思っております。宇津忠茂は長福寺に葬られた大久保(大窪ではない)一族の第一号となりました。

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2013年5月15日 (水)

川戦:安城合戦編④真・安城城陥落Ⅰ(再掲)

1548年(天文十七年)織田信秀のもとに相模小田原の北条氏康から書状が届きます。本稿のキモであるので全文引用します。引用元は東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』です。

>如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、
>去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、
>殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、
>因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、
>近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、
>何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

>十七年
>三月十一日
>氏康 在判
>織田弾正忠殿
>御返報

 見事に漢字ばかりですねぇ。そこ、逃げないでw! 古文・漢文は赤点ではありましたが、読み解きを試みたいと思います。赤点なので間違っていたらごめんなさい。

>如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、
(読み下し)来札の如く近年は遠路ゆえ、通じ申し候わざるところ、懇切に示し給いし候は祝着に候。
『如来札』の札は手紙の意。『頂いた手紙にあるとおり』という意味になります。
『祝着』はめでたいですね。
 返信の手紙であること。信秀・氏康間でそれまで手紙のやりとりは無かったことがうかがえます。

>仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、
(読み下し)よりて三州の儀、駿州に相談なく、去年彼国に向けこの軍を起こし、安城の要害を即時に破られしの由に候、
 『三州』は三河国。『駿州』駿河国を指します。『彼国』はかの国=三河ですね。
 『去年』を『きょねん』とか『こぞ』と読めば1547年(天文十六年)の事件と言うことになるのですが、『さるとし』と読めば過去一般となります。ただ文脈からそう読めるかどうかがキモでしょう。

>毎度御戦功、奇特候、
(読み下し)毎度の御戦功、奇特に候。
 氏康、褒めてます。『奇特』は平たく言うと『凄い!』という意味ですね。

>殊岡崎之城自其国就相押候、
(読み下し)殊に岡崎の城を其国より押しあいとなり候。
 ここは重要な部分なのですが、解釈が難しいところです。安城城と岡崎城は矢作川を挟んだ両岸にあります。駿州に相談なく安城を攻め落とした結果、岡崎城が今川・織田両勢力の角逐の場となっていることが示されています。『其国』の解釈ですが、この書簡では『彼国』と『其国』という二種類の国を指した三人称指示語が使われています。信秀と氏康のこの書簡において三人称が使われるべき国は駿河国と三河国の二つしかなく、『彼国』は安城城のある三河国であることは明らかなので、『其国』は駿河国であり、使い分けをされていると思われます。
 『相押』をどう読むかがさらに悩み所です。とりあえず『押しあい』とよんで、岡崎城を巡って駿河国との角逐の場となった解釈しておりますが、岡崎城が駿河にとって織田勢に対する最前線の『押さえ』となったことを言っているのかもしれません。

>駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、
(読み下し)。駿州にも今橋にて本意を致され候、それ以後、よろず其国に相違の刷候や?
 駿州の今橋は織田信秀の安城と対になっておりますね。『刷』は刷新の『刷』でしょう。情勢認識を新たにすべき事件は起こっていないかと聞いているわけですね。

>因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、
(読み下し)ここによりて彼国は詰めあわされるの由、承たまわり候。余儀なき題目に候。
 今橋を今川が、安城を織田が取った結果、三河国は両勢力に分割されたことを北条氏康はやむを得ず認めております。

>就中、駿州此方間之儀、預御尋候、
(読み下し)なかんずく、駿州この方間の儀、お尋ね預かり候。
 信秀は、今川家と北条家の関係を確認したいようです。1545年(天文十四年)まで両勢力は駿河国河東領域を巡って戦いを繰り広げておりました。休戦中ではありましたが、敵の敵である北条家は味方になるのか否か、それによって戦略も変わってくるのですね。

>近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、
(読み下し)近年、一和を遂げ候えども、彼国より疑心止むこと無きに候らはば、迷惑に候。
 ここでの『彼国』は駿河に変わっていますのでご注意を。というのはこの一つ前に同日付の本文書の草稿とおぼしきものがあり、三河国の件をはずして、問い合わせの回答が全く同じ表現で書かれているからです。

>抑自清須御使并預貴札候、忝候、
(読み下し)そも清須よりの御使い並びに貴札預かり候は、かたじけなきことに候。
 礼使派遣のお礼文。定型文です。

>何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、
(読み下し)何様御禮をこれより申し入れるべく候。委細は使者演説あるべき候。恐々謹言。
 ここも定型文。詳細を使者が語るのはこの時代の常識のようです。

 大意を超訳にて記します。

 いただいたお手紙に書かれていた通り、私のいる相模とあなたのいる尾張国は遠路なので、近年は行き来もありませんでした。にもかかわらず、このたびご丁寧にも使者を送っていただいたことは、喜ばしいことです。あなたの手紙に書かれている三河国の件についてですが、駿河の今川義元に相談もなく、昨年三河国に対し軍を起こし、安城の要害を即時にやぶられたそうですね。あなたの戦功についてはいつも聞き及んでおりますが、このたびの軍功も凄いものだと思います。
 とりわけ岡崎城は駿河勢との角逐の場となってしまいました。その駿河勢も今橋(現在の吉田)を占領して本意を遂げています。それ以後の駿河国の情勢に変わりはないでしょうか。ここに三河国は尾張と駿河の二勢力が詰め合いする場となったと、承りました。仕方の無いことだと思います。
 駿河の情報の中でも我々北条との関係について、お問い合わせの件にお答えします。近年駿河国とは確かに講和を結びましたが、駿河国に対する疑心は止むことがなく、迷惑な思いをしております。
 ともあれ清洲からの使いとお手紙いただいたことはありがたいことです。お礼をこれより申し入れたいと思います。委細は使者に述べさせます。恐々謹言。

 この返書に先立つ織田信秀書状の中身が気になるところですが、第一が安城城を破ったことの報告。第二が今川家と北条家の関係についての問いただしです。
 氏康の返答は第一については素直に褒めているので入るのですが、攻め入るに当たって今川氏と相談のなかったこと。三河国が織田と今川で対立する場となったことを言い立て、三河国に織田勢は入ることは承認しているものの、『余儀なき』ことと婉曲に非難しているように読めなくもありません。
 第二点については駿河国の好戦性に迷惑な思いをしていると言っています。氏康にとっては三河の角逐は歓迎できるものではなかったようです。信秀としては北条氏康を味方に抱きこんで今川家の背後をつくことを期待しているようですが、北条としては織田家を敵に回すわけではないものの、戦いに参加することについては消極的なようです。

 『去年』がいつを指すかについての考察ですが、いくつかのポイントがあります。1540年(天文九年)説にたった場合、いくつか文脈が不自然になる部分があるのですね。
 第一に『毎度御戦功、奇特候』。北条氏康は織田信秀の優れた軍才についての評判はすでに耳に入っております。故に、安城陥落の武功を『毎度』とそれまでの戦功に追加して褒め称えた表現となったものと思われます。初めての手紙に自己紹介がてら七年も昔の武功を記したのなら、返書には安城攻めの武功は当国にも鳴り響いている。くらいの表現になるかと思われます。
 第二に『因茲(これによって)』三河国が二勢力の角逐の場となったという表現です。これとは、信秀の安城奪取と今川義元の今橋奪取の二つが考えられます。義元の今橋(吉田)奪取は1546年(天文十五年)です。1540年(天文九年)から信秀が安城を持っていたのなら、この文面に今川家の今橋奪取についての詳細が書かれていても良さそうにも思えます。よって、『去年』は『きょねん・こぞ』と読むべきであり、『さるとし』と読む場合においても1546年(天文十五年)からそうずれていない時期であろうと思われます。現時点の印象においては、1547年(天文十六年)説で組み立てたくはあるのですが、別説にも若干含みを残しておきます。理由は次稿で述べます。

 本当は1540年(天文九年)なのにさも最近のことのように読ませようとした信秀の駆け引きであるという説もあるそうですが、文面を検討してどのようなシチュエーションでそのような説ができるのか、少し疑問である。ということで本考察の結論としたいと思います。

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2013年5月13日 (月)

川戦:安城合戦編③第一次小豆坂合戦のまぼろし(再掲)

 本稿では三河物語を重要史料に位置づけて考察を進めております。入手が容易ですし、現代語訳本も出ています。大久保彦左衛門忠教の原著は当て字がはなはだしく、判読もかなり難しい。なので、同書の内容を把握する上で現代語訳本は重宝しております。また、江戸時代の比較的早い段階で成立した史料でありますので、後年の徳川幕府による徳川将軍家創業記録の礎となっております。徳川実紀などを読んでみても三河物語からの引用はかなりされております。(但し、徳川実紀の引用は都合によって筆が曲がる事がままありますので、正しい意味での引用とは言いがたいところはあります)
 但し、大久保彦左衛門忠教とて正確な歴史を記そうとしてこの本を書いたわけではありません。子孫に将軍家への忠節を教えるために書いたとあり、『門外不出』とキッパリ記されております。タテマエではあるのですけどね。実際にはこの本は江戸時代のかなり早い時期から流布本が流通しております。そのあたりの事情は安彦良和氏が描いた『マンガ日本の古典 三河物語』でわかりやすく説明されております。簡単に要約すると、一心太助が隠居爺である大久保彦左衛門にこの本を門外不出とするのは惜しい、志を同じくする者にも読ませるべきと口説き落として、内緒で市中に出回らせた。それを彦左衛門は薄々知って、と言うか見て見ぬ振りしたのですね。各巻の後書きには門外の読者に対する言い訳が書き連ねてあって、それが笑いをさそいます。『この本は我が子孫のために書いた門外不出の書である。だから自分の一族の事しか書いていない事を責めてはいけない。あなた達も、自分の一族の事を本を書いて残してはいかが』(一心太助が口説くところは安彦良和氏の創意です。念のため)

 三河物語とは大久保家の、それも大久保彦左衛門忠教の武士道観が随所に散見される、主観的な歴史記述です。大久保忠彦は1560年(永禄三年)生まれであり、彼が描く広忠の美談は彼自身が体験した事ではありません。おそらくは一族の家記や主家の記録に基づいて書かれたものなのでしょう。
 いずれにせよ、徳川家の歴史を研究するに当たって、三河物語は重要史料である事は間違いのないところです。

 閑話休題。安城合戦や小豆坂合戦は松平広忠と織田信秀との間の抗争です。三河物語が徳川家・大久保家の視点からこれらの事件を取り上げているのと同様に、織田家の側から見たこれらの事件を記述している史料があります。それが大田牛一の『信長公記』であり、小瀬甫庵の『信長記』です。大田牛一も小瀬甫庵も織田信長と豊臣秀吉に仕えた人物です。特に大田牛一は織田信長の側近として身近にいた人物なので
織田信長の事跡を調べる上で『信長公記』の史料価値は極めて高いものです。それに比べると小瀬甫庵の『信長記』は大田牛一本をベースにして、読み物としてより面白くなるようにアレンジメントを加えています。彼の手によって、桶狭間合戦は奇襲攻撃になったり、墨俣に一夜城が築かれたり、長篠合戦で鉄砲三段撃ちとなったり大田牛一本に書かれていない事が記されており、その典拠となる史料がどこにもない事から、近年これらは創作であると見なされております。ただ読み物として甫庵本は牛一本より面白い事は確かで、そのせいでこれらの本が出た江戸期以降、甫庵本は牛一本より広く流布される事になりました。
 三河物語は言います。信長記は誤りが多い。全ての事が間違いとは言わないが、全体の三分の一が本当にあった事、三分の一がそのままではないが似たような事があった。残り三分の一はまったくなかった事である、と。これはおそらく、甫庵本の事を言っているものかと思われます。

 牛一本『信長公記』は小豆坂合戦を取り上げています。ところがこの内容は三河物語が言う小豆坂合戦とは様相を異にしております。
 先ほど『信長公記』は信憑性が高いと書きましたが、必ずしもそうではない部分もあります。それは首巻の部分です。首巻においては、織田家の成り立ちから織田信長が足利義昭を奉じて上洛するまでの事が描かれていますが、1560年(永禄三年)の桶狭間合戦を天文二十一年の事にするなど、結構ミスが目立ちます。とはいえ、三河物語のこのあたりの記述にしても不整合な部分はままありますので、ある程度の精度を確保している複数の史料をつき合わせる事が重要だと思います。
 小豆坂合戦については、信長公記も三河物語もあまり詳しい書き方をしていません。共通点を抜き出すならば、三河国に入って西上する今川軍と安城から東下する織田軍が遭遇して戦ったというところですね。勝ち負けを別にすると、野戦を行って織田勢が安城に引き上げたところまでは共通しております。
 詳細の異同はたくさんあるのですが、主だった相違点は、合戦時期です。三河物語自体には合戦時期に関する記述はありませんが、1548年(天文十七年)七月朔日付朝比奈籐三郎宛て今川義元の感状に三月十九日に織田信秀と小豆坂で合戦に及んだとあります。三河物語は竹千代六歳時(1547年・天文十六年)の拉致事件に端を発して今川の援軍動員、小豆坂合戦という流れで描写しておりますので、今川義元の感状の言う小豆坂での戦闘を三河物語の小豆坂合戦に比定する事ができます。
 対して信長公記はこれを八月の事としております。三河物語と同じく、それがいつの年かは明記されていないのですね。三月と八月の相違を重視して異なる合戦である事を強調する研究者が多いのですが、信長公記の記事の最後に興味深い文面があります。『是れより駿河衆人数打ち入れ候なり』と。つまり、以後三河国に今川勢が進駐したと書かれています。それが実現するのは早くとも1547年(天文十六年)以降です。すなわち、月の異同はあってもどうやら同じ合戦の事を言っている、少なくとも駿河勢が三河に入った前後の話をしているようなのです。

 但し、その解釈をとって信長公記を読むとやや困った事になります。というのはこの戦いで活躍したはずの織田信秀の弟、織田与次郎信康が1548年(天文十七年)以前に起こった(天文十六年説と天文十三年説があり)斎藤道三との戦いにおいて戦死しているからです。
 この矛盾を解決するために、小豆坂合戦は1542年(天文十一年)と1548年(天文十七年)の二回起こったという説が出てきました。信長公記の小豆坂合戦は1542年(天文十一年)であるとし、三河物語の小豆坂合戦とは別の合戦であるという事です。第一次小豆坂合戦というわけですね。
 この小豆坂合戦を天文十一年とした根拠になるのが小瀬甫庵本『信長記』です。これだと、織田与次郎信康の死亡時期の矛盾や、合戦時期の異同をうまく説明できます。但し、甫庵本に書かれていて牛一本に書かれていない事の多くは小瀬甫庵の創作であるケースがままあります。同時代に生きた武功で成り上がった人々には受けがよかったかも知れませんが、このスタイルは後世の歴史研究家からはあまり受けがよろしくありません。
 第一、小豆坂合戦を天文十一年説では1542年(天文十一年)の段階で駿河勢が三河進出していない事を説明できませんし、1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安城城を攻め落としたのは去年の事であるという言及に矛盾が生じます。信長公記では、安城城には織田信広を入れていた事が明記されているのですが、1547年(天文十六年)まで安城城を松平勢が保っていたとすれば、それは事実ではない事になるでしょう。

 結局のところどの史料をどのように読むかによって解釈の分かれるところです。私としては、創作要素の多い小瀬甫庵本『信長記』には信をおかず、後から家の記録を調べて書かれたものであろう信長公記の首巻と三河物語上巻(1542年(天文十一年)の時点で大田牛一は十五歳、大久保忠教はまだ生まれていません)は信はおくものの同時代史料としては見なさず、日付のついた書状を優先したいと思います。
 その場合、1542年(天文十一年)に起こったとされる小豆坂合戦はまぼろしとなり、それに先行して1540年(天文九年)に陥落したとされる安城城は1547年(天文十六年)まで後ろにずれる事になります。安城落城1540年(天文九年)説はどうも東栄鑑という史料によるところらしいです。これもまた史料としての価値は低いとされています。おそらくは、小瀬甫庵本『信長記』の記述をもとにそれに整合性をとるようにして書かれた年代史なのだろうと推察します。

 つまるところ、1542年(天文十一年)に起こったとされる第一次小豆坂合戦は小瀬甫庵本『信長記』の断定を受け入れられるか否かにつきる。私はそう考えます。

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2013年5月11日 (土)

川戦:安城合戦編②天文九年の安城城陥落説(再掲)

歴史の分野においては研究が進む事によって、年表が書き換えられるという事がままあったりします。例えば、今川氏豊が織田信秀に那古屋城を奪われた年代ですが、『那古屋城合戦記』という古文書には1532年(天文元年)とされていたために、長くこの事が信じられていたのですが、近年公家の日記の研究が進むにつれて矛盾が指摘されるようになっております。公家の山科言継と飛鳥井某が1532年尾張に下向して勝幡城で蹴鞠の芸を披露した時、那古屋城から今川氏豊が招待されて見物していた旨が記されております。『那古屋城合戦記』は書名が示すとおり、戦記ものですね。本書に限らず戦記物や軍記物は話を面白くするための脚色や誇張、史実と異なる編集がされているケースがままあります。対して、公家の日記は公家が子孫に同じ仕事をこなせるようにと書かれた業務日報のようなものであり、子孫はそれを代々受け継いだ仕事の手本としました。これを有職故実と言います。また、同時代を生きた者によるリアルタイムな記録である事から一次史料と呼ぶ事が出来、その信憑性は高いものと言えるでしょう。加えるなら、公家の日記においてはこの時点で今川氏豊は元服すらしていません。よって、『那古屋城合戦記』の記述を信じるにせよ、実際に織田信秀が那古屋城を乗っ取ったのはもっと後の事指摘されています。
 松平広忠の流亡の帰還において、三河物語は二つ間違いを犯しています。一つは流亡の開始の時期。守山崩れのあった同じ月に松平仙千代は岡崎を出ているはずです。広忠の生年を考えればこの時十歳でなければならないのに十三と書いています。また、帰還の年次も十七の春としています。この十三歳というのは、清康が松平家を相続した年齢と間違えたとも考えられるのですが、そうすると帰還は十五歳の春となるはずです。ところが、信光明寺文書の判物写しに三河物語にも書かれている大窪忠俊らへの松平千代松(仙千代=広忠)による感状があるのですが、その日付は天文六年十月二十三日なのですね。
 単純に広忠の生年と年齢に照らしあわせてみると、広忠十七の春とは、1541年(天文十年)にあたります。この年、広忠は水野忠政の娘、於大と結婚していますので、広忠の岡崎帰還という慶事に、婚姻と言う慶事でつないだのかもしれません。とはいえ、於大と結婚したと書いてすぐ、水野氏の離反で離縁したと続け、そのすぐ後段で戸田氏より後妻を迎えた話をしております。於大との間に竹千代が生まれた事を簡単に記し、農作業に従事する重臣近藤と広忠との心温まる交流エピソードを長々と記されています。
 信定の死は広忠が岡崎に帰還した翌年のはずですが、この慶事記事の後になっています。要するに三河物語は広忠の代における事件の並びは必ずしも年代順になってないようです。以下、三河物語において松平広忠が岡崎に復帰してから、死ぬまでの流れを書き出します。

 ①広忠岡崎復帰。
 ②広忠、水野の娘と結婚。竹千代誕生。後に離婚。後妻に戸田の娘を迎える。近藤の話
 ③佐久間斬り
 ④桜井信定の病死
 ⑤安城陥落
 ⑥松平忠倫離反。
 ⑦酒井将監、大原左近右衛門、近藤伝次郎離反。
 ⑧松平信孝、放逐される。
 ⑨松平忠倫暗殺。
 ⑩竹千代、戸田の岳父に拉致され、織田家に送られる。
 ⑪今川義元、広忠の要請により援軍を出す。
 ⑫松平信孝、戦死。
 ⑬小豆坂合戦
 ⑭広忠の死
 ⑮太原崇孚、安城城を攻め取り竹千代、駿府に送られる。

 ①から④は広忠にとっての良いニュースです。そして⑤から⑮までは松平家崩壊につながる悪いニュースです。時系列ではなく、広忠の代における良い記事と悪い記事をまとめて語るという構成をとっているわけです。また、三河物語はあまり年号を使わず、松平家当主が何歳の頃、これこれこういう事件が起こったという書き方をします。ところが、その他の史料とつき合わせてみると結構異同があるのですね。後世の歴史家がその整合性を埋めようとした結果、史書が一度しか触れていない事件が二度三度起こったり、発生年次が大幅に前後にずれ込んだりするという解釈になっています。
 それが安城合戦だったり小豆坂合戦だったりするのです。

 いわゆる安城合戦というのは、織田信秀が1540年(天文九年)に安城城が陥落させる事に端を発した安城城の攻防戦で、1545年(天文十四年)の第二次合戦を経て、1549年(天文十八年)に今川軍の太原崇孚が織田信広の守る安城城を陥落させて決着するまで、三次にわたる合戦が繰り返された事を指します。
 但し、三河物語には安城陥落の年次は記されていないですし、1545年(天文十四年)の第二次安城合戦については言及されていません。ところが、平野明夫氏の『三河松平一族』によると1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安城城を攻め落としたのは『去年』の事であるという言及があるらしいのです。1548年(天文十七年)の時点での『去年』を『きょねん』と解釈すれば、1547年(天文十六年)となります。これを『さるとし』と解釈すれば単純に過去を指す事にもなるのですが、1540年(天文九年)からは実に七年前の事になるのですね。この書状は時事めいた事を書いているので、『さるとし』と解釈するのはやや不自然に感じます。三河物語を含め、安城合戦を扱う史料のほとんどは後年になって書かれたものです。この書状は同時代に起こったニュースについて極めて早い段階で言及されたものであり、史料としての価値は極めて高いと言えるでしょう。(別項にて詳しく解説いたします)

 もしこれが事実とすれば、なぜ安城城陥落が1540年(天文九年)と特定されたのか。それが何に基づいたものなのかを考えておく必要があるでしょう。その事情は小豆坂合戦にあり、というのが私の見解です。その件については次項に触れます。

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2013年5月 9日 (木)

川戦:安城合戦編①プロローグ

 川の戦国史の最後の補遺で『天文十七年三月十一日付織田弾正忠信秀宛北条氏康書状写』(以下、『氏康書状』と呼称)という文書を扱っておりました。当該文書は内閣文庫蔵『古証文』に所載されており、本文書は天文十七年三月十九日に起こったいわゆる第二次小豆坂合戦の直前の日付で書かた文書です。当時の三河国をめぐる尾張の織田家と駿河今川家との間の政治情勢を相模国にいる北条氏康が活写しているので、大変興味深い内容となっております。
 本文書は、「三河松平一族」の著者平野明夫氏により、いくつかの大変興味深い立論がなされております。例えば、小豆坂合戦の原因となった安城城の織田信秀による占領時期は、巷間言われている天文九年ではなく、当該文書が書かれた前年、すなわち、天文十六年であるとする説などです。
 とはいえ実際、自分で調べを進めている過程で、現在刊行されている『氏康書状』を所載した諸本には異同が存在しており、それらの説の妥当性を検証する為には、個々の文言の異同を整理する必要がありました。
 本稿においては、異同のある活字本古証文所収文書、陰影本朝野旧聞ほう藁所収文書と現在国立公文書館に収められている内閣文庫蔵肉筆本の『古証文』と突き合わせた上で考察を試みます。尚、肉筆本『古証文』においてもいくつか考慮すべき問題が存在する為、これらも併せて拙稿において検討してみました。

 内容が結構難しくなっているので、論点抽出も兼ねて過去記事の再掲を交えて進めてゆこうと思います。よろしければ、その他の過去記事を併せてお読みいただけるとありがたいです。本編「川の戦国史 Part15 安城合戦編」と題して以下のスケジュールで進めてゆく予定です。よろしくお願いいたします。

+ Part15:安城合戦編 + since 1540(tenbun 9) to 1548(tenbun 17)
 安城合戦天文九年説への疑問と天文十六年仮説について、過去記事の再掲及び、天文十七年付北条氏康文書を交えて考察します。

 安城合戦編①プロローグ
 安城合戦編②天文九年の安城城陥落説(再掲)
 安城合戦編③第一次小豆坂合戦のまぼろし(再掲)
 安城合戦編④真・安城城陥落Ⅰ(再掲)
 安城合戦編⑤真・安城城陥落Ⅱ(再掲)
 安城合戦編⑥北条氏康文書についてⅠ(再掲)
 安城合戦編⑦北条氏康文書についてⅡ(再掲)
 安城合戦編⑧北条氏康文書についてⅢ(再掲)
 安城合戦編⑨史料パズルⅠ
 安城合戦編⑩史料パズルⅡ
 安城合戦編⑪漢字パズルⅠ(安城市史における「被相談」について)
 安城合戦編⑫漢字パズルⅡ(無の読み方)
 安城合戦編⑬漢字パズルⅢ(被の読み方)
 安城合戦編⑭偽書説について 
 安城合戦編⑮考察

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2013年5月 8日 (水)

ブログを新装し、再開いたします。

 本ブログはかれこれ、4~5年もの間放置しておりました。歴史だけではなく、趣味にかかることを色々『創作のネタ帳』と題して続けておりましたが、諸般の事情にて以後更新が滞ったままとしておりました。今般、思うことありブログを再開いたします。

 再開に当たり、ブログのコンセプトは『歴史』、それも室町・戦国史に絞り、それ以外の過去記事は削除しました。過去に書いたブログ記事の中で一番力が入っていたのが歴史ジャンルであり、このネタであれば今後もある程度安定して書き進められるのではないかと思ったからです。もっとも、歴史ジャンルでも記述している年代はあまりメジャーでもなく、かつ、記述自体もかなりマニアックになっておりますので、人知れず細々とやっていければいいかなぁとも考えております。

 併せてですが、今まで『創作のネタ帳』としてやっていた頃は、こちらのブログはホームページ『Papathana's Paradise』の別館としてやってきたわけですが、再開を機にホームページを閉じて、歴史ジャンルのコンテンツのみのこちらのブログ一本に統一しようかと思います。それに伴い、ブログサイトにWebページを用意し、リンクを貼りました。Whats’newとコンテンツ一覧を用意するつもりです。暇々に細々とやってゆくつもりですので、よろしくお願いいたします。

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