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2013年5月25日 (土)

川戦:安城合戦編⑨史料パズルⅠ

 ここまでずっと過去記事の再掲を続けておりましたが、いよいよ本題の『北条氏康文書』について新たに調べたことを書いてゆこうかと思います。

 本稿のテーマですが、安城市史編集委員会編『新編安城市史5 資料編 古代・中世』(平成十六年刊行)内の記事(523頁)において、当該史料について、村岡幹生准教授が『「朝野旧聞ほう藁(※)」にも「古証文曰く」として載せられているが(同書永正三年(1506)十一月十二日条)、そこでは本文末尾の「恐々謹言」の「恐々」以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった不完全な形で納められている』と書かれている部分に対する論考です。

 朝野旧聞裒藁とは、1841年(天保十二年)に編纂された林述斎の手による徳川氏創業史の資料集で、全1,093巻あります。この本は、編年体で項目ごとに典拠を示すために関連史料をのせている所が特徴と言えるでしょう。前稿で触れた通り、汲古書院から史籍研究会編が「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞裒藁」という影印本(手書きの底本を写真撮影した上でオフセット印刷したもの)を出しております。前稿を書いた当時私はこの本とこの本が典拠としている古証文なる古文書とを突き合わせてみれば、江戸幕府の史家が氏康文書をどのように読んだかを知るよすがになるだろうと考えておりました。

 さて、古証文ですが、国立公文書館の内閣文庫に蔵されております。下記URLに古証文で検索をかければ、当該氏康文書が記載されている三種の肉筆和綴本を確認することができます。

 (国立公文書館デジタルアーカイブ)

 請求番号 159-0252  大久保酉山旧蔵 ⇒ 内務省蔵 4冊7巻本
 請求番号 159-0261  和学講談所蔵         6冊本
 請求番号 159-0256  旧蔵者不明          6冊本

 それぞれ、違う人物が書写しているようで、筆跡は異なっております。また、一部分を見ただけですが、一部を除き、同じ史料を載せておりました。但し、4冊七巻本と六冊本では異なるバージョンの史料を載せてることを確認しました。それが、今話題にしている氏康文書であったのです。4冊七巻本には、小田原市史、戦国遺文、安城市史に掲載されている完全版が、六冊本には朝野旧聞ほう藁が載せている永正三年閏十一月七日付宗瑞書状につながった不完全版が収録されておりました。
 以下は当該史料を中心とした六冊本の史料の並びです。織田信長や伊勢宗瑞など、活躍した年代の異なる文書が順不同に並んでおりますが、③が朝野旧聞ほう藁で引用されている不完全な氏康文書と同じ内容でした。また、⑪には、氏康文書の短文バージョンが掲載されております。

①     十二月 十六日付 一色式部少輔宛  織田弾正忠信長文書
②天文十七  三月 十一日付 織田弾正忠宛   北条氏康文書(多賀枇杷庄~)
③    閏十一月  七日付 巨海越中守宛   (北条早雲)宗瑞文書(不完全)

④    閏十一月 十一日付 水野十郎左衛門宛 織田弾正忠信秀文書
⑤      九月二十三日付 安心軒・瓦礫軒宛 齋藤左近大夫利政文書
⑥      九月二十五日付 水野十郎左衛門宛 長井九兵衛秀元文書
⑦天文十七  七月  朔日付 朝比奈○三郎宛  今川義元文書
⑧      四月 十ニ日付 水野十郎左衛門宛 今川義元文書
⑨      三月二十八日付 安心宛      鵜殿長持文書
⑩      十月  九日付 徳川宛     (北条陸奥守)氏照文書
⑪  十七年三月十一日付 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン)

 ここで注目すべきは②と③と⑪の文書です。③については、既に安城市史で言及されていますので後回しにし、②と⑪をみてゆきます。まずは以下にその②の全文を掲示します。

②織田弾正忠宛氏康文書(多賀枇杷庄~)

多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知《改頁》
可得御意恐々謹言

  天文十七
    三月十一日
             氏康在判
    織田弾正忠殿

この文書は⑪の短文バージョン氏康文書と同一日付となっております。よって、これも北条氏康が織田信秀にあてた文章のようですが、内容を読むと多賀枇杷庄という土地についてのやりとりをしているようです。でも、信秀と氏康は主従関係ではありませんし、その領地も関東と尾張で非常にかけ離れております。これは大変不自然です。色々史料をあさっていると以下のようなものにぶち当たりました。

②'一色式部少輔宛木下藤吉郎秀吉文書(織田信長文書の研究(同上))
多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知
行分者、被止御違乱可然候、殊御下知
朱印有事候、御分別専用候、恐々謹言

            木下藤吉郎
  七月十日      秀吉(花押)
   一色式部少輔殿
         人々御中

 織田信長文書研究所載の一式式部少輔宛木下藤吉郎文書です。『多賀枇杷庄之内ニ有之、大喜多於当知』の部分が全く同一になっております。しかも、知行宛がいの文書ですから、こちらの内容に不自然さはみられません。とすると、古証文の多賀枇杷庄から始まる文書に何らかの誤りがあることを疑わなくてはなりません。また、併せて押さえておくべきは、改頁の後に違いが生じているということです。

 さらに、⑪の文書に着目してみました。これも精査して見ると、小田原市史や安城市史所載の同書文面と若干の異同があります。

⑪十七年三月十一日 織田弾正忠宛 氏康文書(短文バージョン・文字判読は安城市史に従う)
貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故
不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、
預御尋候、先年雖遂一和候、自披国疑心
無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、《改頁》
謹言、

十七年
 三月十一日
 織田弾正忠殿
                  氏康在判

 異動部分は文末の『謹言』と『十七年』とある日付部分です。締めくくりの文章として謹言となっていますが、恐々、恐々謹言ではなく、謹言と略するのはやや珍しい気がしました。

以下は安城市史の短文バージョン氏康文書です。

 五二八 〔参考)北条氏康書状写  (古証文)

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、
      (今川義元)
背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖
遂一和候、自披国疑心無止候、委細者、御使可申入
候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、
天文十七

 三月十一日
  〈信秀)
 織田弾正忠殿
                 (北条)
                  氏康在判

 以下に同じく安城市史の長文バージョンの最終節を引用します。着目すべきは謹言以降は⑪文書と全く同一文言になっているところです。更に言うならば⑪文書の異動②文書と同様は改頁の後に発生しております。

何様御礼自是可申入候、委細者、使者可有演説候、
恐々謹言、
  (天文)
 十七年          (北条)
  三月十一日       氏康在判
          (信秀)
    織田弾正忠殿
             御返報

 現物の古証文は和綴本です。和綴本は袋とじになっております。ここで《改頁》と記した部分は、②も⑪も綴じ代を挟んだ次頁になっておりました。だとすれば、これは乱丁によって、別の文書がつながってしまったのではないか? そのように考えました。③の文書も同様に確認して見ます。

③ 閏十一月七日付 巨海越中守宛(北条早雲)宗瑞文書(不完全・文字判読は安城市史に従う)
如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ
示給候悦着候、仍三州之儀、駿州へ被相談、
去年向彼国被起軍、安城者要害則時ニ
被破破之由候、毎度御戦功奇特候、殊岡崎
之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被
致本意候、其以後、万其国相違之刷候哉、
因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、
就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖
遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、
抑自清須御使并預貴札候、忝候何様御礼
自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々《改頁》
今度氏親(~以下宗瑞文書。以下略)

 改頁位置をもって、宗瑞文書が始まっております。宗瑞文書は今度氏親で始まる全文で完全版となります。

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