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2013年5月17日 (金)

川戦:安城合戦編⑤真・安城城陥落Ⅱ(再掲)

1547年(天文十六年)、織田信秀は安城城を攻撃し、落城させました。前年に窮鳥として懐に飛び込んできた土岐頼芸と斎藤道三との和睦がなっております。その前の年には守護代織田大和守達勝・彦五郎信友らとも平手政秀の仲介により和睦しており北方の憂いはひとまず消えております。自らの拠点も古渡からさらに三河よりに移って末森に城を構えました。水野信元を筆頭とする刈谷・緒川の水野一族も織田信秀につき、東征の準備は万端となりました。
 1540年(天文九年)説では先に松平広忠が尾張国鳴海に攻め込んだとありますが、水野一族の支援なくして鳴海に到達しうるとは少々考えにくいです。逆に元服したばかりの信秀の息子、信長の方が同盟を結んだ水野一族の支援の下に三河国大浜を襲ったりしております。1546年(天文十五年)のことです。この期間中、織田信秀が取ってきた戦術は調略でした。1544年(天文十三年)には水野信元を味方に引き込み、1545年(天文十四年)には織田守護代家と和睦し、1546年(天文十五年)には斎藤道三との戦いに終止符を打っています。信秀の調略の手は三河国にまで伸びているのですが、それは次稿で述べます。
 安城城を守備するのは松平長家をはじめとする松平軍。しかし、水野氏(おそらくは信元)と連携した織田信秀勢に五十名の戦死者を出して安城城は陥落しました。その戦死者についてのプロフィールを紹介します。

☆松平長家
 松平親忠の子であり、長親(道閲)、超誉存牛の弟に当たります。超誉と同い年だとすると七十八歳。松平親忠最晩年の子であるとすれば、四十六歳(1547年・天文十六年説にたった場合)になります。ただ親忠の最晩年というのは六十三歳ですからそれはありえなさそうです。普通に考えて還暦は越えてるでしょう。人間五十年のこの時代を考えれば、親忠の子供達は本当に長命です。

☆松平信康
 家康の嫡男と同じ名前を持つ人物で、広忠の弟です。広忠と同い年だと仮定し、1540年(天文九年)説に立つと十四歳。安城という要衝を老人と子供に守らせていたことになります。1547年(天文十六年)説に従えば二十一歳で、大将として様になる年齢ですね。実際にはもう少し若かったのかも知れません。それを一族の長老の一人である長家が支えたというところであるかのように思われます。

☆松平康忠
 甚六郎と呼ばれ、長家の弟である張忠の息子。矢田を領したとされます。世代的には信忠の従兄弟に当たります。

☆林藤助忠満、成瀬正頼
 松平広忠が元服前に流亡した折に岡崎城でクーデターを起こした大窪忠俊に加担したメンバーです。

☆内藤善左衛門、近藤与一郎
 このあたりについては余りデータはありません。近藤という姓には三河物語の中に広忠が岡崎に復帰した頃のエピソードがあります。清康の死をきっかけに勢力を大きく落とした松平家臣は自ら農作業をせざるをえない状況にありました。広忠がそれを見つけて自らの不甲斐なさを詫びるとともに、それでも自分に仕えてくれる譜代家臣に涙を流したとあります。その本人である可能性は低いとは思われますが、丁度いい機会なので書いておきます。

 以上が1540年(天文九年)六月安城城落城説で語られる主だった戦死者ですが、『安城の戦い』においてはさらに重要人物が死んでいます。

★大窪藤五郎
 宇津忠俊に自らの氏を名乗らせた越前出身の驍勇の士。彼は忠俊が自分の氏を継いでくれたことに満足し、安城城攻防の死線に身を投じました。安城城陥落の折に死んだわけではなく、その後渡河原の戦いで殿軍を引き受けたエピソードもあります。彼の死はその後の安城城の攻防においてと思われます。忠俊の年齢(四十八歳)から考えて、すでに第一線は引いているとは思われます。川の戦国史では根拠もなく彼を本願寺教団門徒として描写しておりましたが、もしそうであれば大窪藤五郎は口で言った『満足な死』とは裏腹の、自ら死地を求めた非業の最期だったように見えます。

★本多忠豊
 実を言うと安城陥落を1547年(天文十六年)に持ってくることには多少のきつさを感じております。きつさを感じさせる論拠の一つが1545年(天文十四年)に死んだ本多忠豊の事跡なんですね。本田忠豊は徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父に当たる人物です。寛政重修諸家譜には安城城の奪還を企図して松平広忠が出陣したものの、織田方にいち早く察知されて防御態勢を取られたばかりか、攻撃陣を崩されてしまいます。主君のピンチに忠豊は殿軍を買ってでて討ち死にするわけなんですが、同じ家譜史料でも先に出来た寛永諸家系図伝はもっとそっけなく、1545年(天文十四年)に安城畷にて戦死とだけ記されているのですね。攻城戦とも守城戦とも言っておりません。
 忠豊殿軍のエピソード自体、寛永年間から寛政年間の間に作られたものくさいのですね。(無論、この間に新史料が発掘されて採用されたのかも知れませんが、管見では出所が不明です)さりながら、寛永諸家系図伝が1545年(天文十四年)と言っていることは決して無視できません。1545年(天文十四年)の安城合戦話が『作られる』以前の伝承なのですから。
 強いて1547年(天文十六年)説に話を合わせるとすれば、本多忠豊は1547年(天文十六年)の安城城落城時に城にいて討ち死にしており、安城で戦死した伝承は残っていた。しかし、甫庵版信長記には小豆坂合戦が1542年(天文十一年)にあり、その時織田信秀軍は安城から軍を出したことになっており、その時までに安城城が落ちていなければならなかった。しかし、本多家には1545年(天文十四年)までの本多忠豊の生存が確認できる史料があり、やむを得ず1545年(天文十四年)に安城畷で戦死となったのではないか、と思います。(あくまでも推測でありこじつけです。)

★阿部次重
 彼が死んだのは安城城の戦いではなく、それに派生する上野城の戦いにおいてでした。阿部大蔵定吉の甥です。その二年後に定吉も死にます。次重の父定次は本能寺の変の年まで生き、戦功を残したと伝えられますが、なぜか具体的な活動が記録されておりません。また、定次には次重以外に子供を儲けていないのですね。後半生の長さを考えるといささか奇妙です。定次の天正十年死亡記事はひょっとしたら天文十年の誤伝なのではないかと疑ったこともありますが、確証はありません。彼の死をもって、六名の阿部家は事実上断絶するのですが、戦後に同じ1547年(天文十六年)の安城城の戦いで活躍し、弓の名手として名を残した大窪忠政を阿部定次の養子として迎え、大久保家の支族として六名阿部家は存続します。

★宇津(大久保)忠茂
 大窪忠俊の父親です。彼は1547年(天文十六年)二月に亡くなっております。安城合戦の始まる前で、直接関係ないのですが、ここまで見てゆくに林藤助忠満、成瀬正頼、大窪藤五郎、阿部次重と大窪忠俊に関わる人間がこの年に実にたくさん死んでいるわけですね。世代交代かも知れませんが、忠俊は大きな孤独を感じたのではないでしょうか。そしてこれが後の長福寺への帰依につながるのではないか。そんな風に思っております。宇津忠茂は長福寺に葬られた大久保(大窪ではない)一族の第一号となりました。

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コメント

>『安城の戦い』においてはさらに重要人物が死んでいます。。。。

歴史的に深い戦いだったのですね。
天文十八年(1549年)第三次安城合戦、この激烈な戦闘で信秀の御弓頭、
篠原主計(前田利家の正妻おまつ:芳春院の実父)が討死したという話を
よく耳にいたします。根拠となる文献を御存知ないでしょうか?
宜しかったらお教え下さい。無学で突然すみません。

投稿: 東雲ロマン | 2013年12月20日 (金) 20時19分

東雲ロマン様
当ブログにいらっしゃいませ。私もさほどの情報を持っているわけではありません。
もっぱら、ネットで調べて、図書館の本で裏を取る方法をとっております。
仰せの篠原主計についてですが、東雲ロマン様は既に芳春院(まつ)の実父が
篠原氏(名前未詳)であることを加賀藩史料『編外備考』を出典にお調べになって
おられるようですね。

WikiPediaには篠原一計という名前の人物が実父になっており、天文十九年
(所謂『第三次安城合戦』の翌年)に亡くなっているとあります。この人物を
仰せの篠原主計と同一人物と扱ってよいかどうかは今のところわかりません。
また、篠原一計がこの年に亡くなったことを示す典拠もWikiPediaには示され
ておりません。(加賀藩史料を調べれば、篠原一計本人の記事はあるかもしれ
ませんが、確認はとっておりません)故に屋上屋を重ねる推測ということに
なるのですが、安城城落城は天文十八年十月です。早くともその二ヶ月後に
亡くなった人を『安城合戦で討死』として扱うのは無理があると思われます。

 一応、篠原主計でGoogle検索をすれば、安城合戦で戦死したと判断できる記事は
数件ヒットします。それらはいずれも2002年NHK大河ドラマの利家とまつに関わる
ものでした。実際内容を見ていないので何とも言えませんし、仮にそうであっても
何らかの根拠に基づいた描写であるのかもしれませんが、まずはこのドラマ内の
描写をNHKオンデマンドあたりで調べてみると、手掛かりが得られるかもしれません。

投稿: 巴々 | 2013年12月22日 (日) 03時36分

Papathana 巴々様 早速の返事ありがとうございます。

「1550(天文19年)」は篠原主計没年でなく、お松の母親が高畠直吉と
(お松は連れ子で)再婚」年にかかるのだと思います。
 もうWikiから消えてましたが。。。

織田当主信秀の弓頭篠原主計が安祥城で討死の説は、1550年ではなく
「1549(天文18年)」の今川勢との安祥城の戦いで討死です。

上記なら第4次安祥合戦(広義の第3次に含まれる?)つまり
「1549年(天文18年)」(11月6日(8~9日?))太原雪斎が大軍を率い、
安祥城包囲し、総攻撃、信秀の子信広を生け捕りにする時に討ち死
されたのかな?大変な死者だな?と勝手に推測しておりました。

ちなみに、金沢篠原監物家の系図では篠原主計は兄弟(某)が存在し、其方
が篠原家を継ぎ、其の子は篠原弥助長重(お松の従弟)だったようです。

ブログが格調高いので、感動し、メールいたしました。
確かに脚色の可能性もありますが、何か解かったらまたお教え下さい。

理系で歴史は苦手ですが、最近面白さがわかってきました。
またよろしくお願いします。

投稿: 東雲ロマン | 2013年12月22日 (日) 21時41分

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