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2013年6月29日 (土)

中漠:臨済編⑧一山の弟子であること

  本稿から数回かけて、夢窓疎石の前半生を追いかけてゆきたいと思います。夢窓疎石は北条高時、後醍醐天皇、そして足利尊氏・直義兄弟の外護を受けて数多くの寺社を建てて、臨済宗の興隆をもたらしました。
 夢窓疎石の生涯は三つの区分に分けて考えると、彼の人となりを理解する為の一助となるかと思います。すなわち、修業時代、ノマド時代、そして出世時代です。

 夢窓疎石は伊勢国に生まれた佐々木氏の出です。母が北条政村の娘といいますから有力御家人の家です。北条政村は北条一門の傍流として得宗家を支え、最明寺入道北条時頼死後、時宗に執権の座を引き継がれる過程で一時的なつなぎとして執権職を務め、時宗相続後はそのまま連署を務めるなど、鎌倉幕府の政権中枢にいた人物です。夢窓疎石が生まれる二年前に、この政村は既に亡くなっており(享年六十九歳)ましたので、この政村の娘は歳を経た後に生まれた娘ということになります。夢窓疎石誕生時には政村の嫡男、時村の代となっており、鎌倉幕府の枢要を担うべく、六波羅探題として京に赴任しておりました。そのような折に、夢窓疎石の両親は生国伊勢をさり、東国甲斐の国に移住します。母方、つまり北条一族の諍いが原因とされていますが、この状況でより鎌倉に近い甲斐国に移住するということは、おそらくは北条時村とは折り合いが悪かったのではないかと想像します。そして、まもなく母親とは死別し、夢窓疎石は齢九歳にて出家の身となります。
 天台宗平塩寺で九年学んだ後に、南都で受戒を受けるも直ぐに禅宗に転じます。
 禅の師は無穏円範といい、蘭渓道隆の弟子でした。彼は蘭渓道隆の教えを受けた後に入元してその帰国後に教えを継いだとされていますが、蘭渓道隆の入寂は南宋滅亡の前年であることを考えれば、無穏円範は蘭渓道隆の正式な印可を得ていたとは思えません。文永の役の前後から南宋滅亡期にかけて、きな臭い状況下の入元となりますので、おそらくはスパイ活動ではなかったでしょうか。帰国後の無穏円範は京都建仁寺の住持を任されていたといいますから、これも危険の代価であると考えれば納得のゆくものです。蘭渓道隆本人が亡命に近い形で渡日しております。弟子が可愛いなら留学目的とはいえ兵禍のある大陸に送り込むのはいかがなもの、と思います。穿って考えるなら、蘭渓道隆は円爾の協力と北条時頼のバックアップで日本の寺院を次々に中国禅寺風に改めましたが、彼自身は十全な弟子の育成カリキュラムを持っていなかったのかも知れません。北条時頼は蘭渓道隆の死後、その後継者を南宋に求めて兀庵普寧を招いているのですから。日本国内で嗣法を繋いでゆくためにはまとまった数の指導者が組織だって弟子に指導を行う必要があったと考えていたのではないでしょうか。

 夢窓疎石は旺盛な知識欲の持ち主でした。そんな夢窓疎石にとって無穏円範が禅の最初の師であったことは必ずしも彼に満足を与えなかったものと思われます。そんな中で、元国から大師号を授けられた一山一寧が来日したことを知ります。漢人から学んだ師匠が自分に十二分な学びをもたらさないなら、漢人の名僧に直接学べばよいと考えたわけです。来日した一山一寧の教えを求めて数多くの学僧たちが彼の住まう鎌倉建長寺に集いました。夢窓疎石の学はその集まった僧たちの誰よりも抜きんでていて一山一門の首座を務めるに至ります。しかし、ここでも無穏円範の時と同じことが起こります。悟りを得ることが出来なかったのですね。理由はいくつか考えられます。まず第一に一山一寧は円爾、蘭渓道隆、兀庵普寧、無学祖元らとは同じ臨済禅ではありますが異なる法流にありました。一山一寧は大師号を元の皇帝から得ておりましたが、これは彼を日本に使節として送り込む際に、殺されずに任務を全うさせるため、禅を珍重する鎌倉幕府の首脳たちの警戒心を緩めるためでもありました。そしてそれは一応の成功を収めるわけです。そもそも一山一寧の来日は元の皇帝の使者としての使命を帯びたものであり、禅の境地を東方に伝えるためではなかったわけです。当然、彼もまた教えを乞う弟子を教え導くノウハウを完備しているわけではありません。雪村友梅は一山一寧の侍童として彼の身近にいましたが、結局のところ彼は一山から学んだ語学を持って元に渡り、そこで元朝からの迫害を含む厳しい修行経験を経て初めて禅僧として大成したわけです。
 夢窓疎石は一山一寧に出会う以前に学識を得ておりましたから、今ここでこの漢人の智慧を得て、自らの求道を完成させようとしました。しかしながら、一山一寧が夢窓疎石の多年の努力に対して与えた回答は、夢窓疎石の期待にそうものではありませんでした。
その言葉とは、『我が宗には語句なく、また一法の人に与うることなし』というものです。

 夢窓疎石にとっては大きなショックだったと思われます。一山一寧の門を辞した彼は新たな師として高峰顕日を得ることになります。

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2013年6月27日 (木)

中漠:臨済編⑦元からの使者

 1279年(弘安二年)に南宋は滅亡しましたが、幸いなことに禅宗が弾圧されたということはありませんでした。むしろ禅宗を含む仏教を弾圧したのは、元朝よりも、その後に中国を支配した明朝だったりします。それはさておき、南宋を滅ぼした元帝国は都合二回、日本に向けて侵略軍を差し向けましたが、そのいずれも避けたことは元国にとって征服を考え直す良い機会になったようです。
 ということで、武力行使を控えて交渉に映ります。とはいってもこれは決して簡単なことではありませんでした。文永弘安の役の前に元は使節を送って日本の方針を探らせましたが、文永の役以前は返事もせずに使者を追い返し、以後は使者を悉く斬り捨て、二度と祖国の土を踏ませませんでした。

 それを野蛮ということは簡単です。ただ使者を生かして返せば、使者たちが見知ったことは全て元側に伝わったことでしょう。そして、日本を攻めるに充分な編成の軍勢を送り込むことが可能となります。仮に元帝国が不戦方針であったとしても、その事実は交渉にとって有利なカードとなることでしょう。使者を殺してはいけないというルールは陸続きの大陸内部での『グローバル(笑)』・スタンダードでしかないのです。結果として元帝国は有り余るほどの国力と協力的な近隣国とで大軍団を動員しておきながら、日本を攻めるに充分な編成にするには至りませんでした。

 弘安の役の翌年、1282年(弘安五年)にフビライは再び日本に向けて使者を送りますが、荒天に阻まれたり、船員の叛乱で使者の長が殺されたりして、お流れになります。本当に日本に向かうつもりだったのかはわかりません。この時の使者の一人として選ばれたのは補陀落山観音寺の住職であった愚渓という僧侶だったと言います。これはいかに強硬な日本でも、僧侶は殺さないだろうという思惑からですが、自分が行くわけではありません。愚渓にしてみれば、行けば殺される可能性は高く、言い訳が立つなら行かずに済ませたい所だったと思われます。

 1294年(永仁二年)になってフビライをついで元の皇帝となった成宗が再び日本に向けて使者を立てます。既に弘安の役から十年以上の歳月が経っていました。前に使者に立てようとした愚渓に話をもってゆきましたが、老齢の故断られ替わりに白羽の矢が立ったのが、一山一寧でした。一山一寧は愚渓の後継の観音寺住持でした。無論彼もまた、斬られ死にすることを怖れたとは思いますが、元皇帝は一山一寧に保険をかけました。その一つが大師号の授与です。一山一寧が大師号を得るにふさわしい威徳をもっていたかどうかはともかく、大師号の授与に政治的な配慮がありました。蘭渓道隆、兀庵普寧、無学祖元を初めとして日本の鎌倉幕府は次々と南宋の高僧を招聘していました。南宋の滅亡に伴って、中国からの禅僧の渡日は途絶えていましたが、禅宗に対する需要が消えたわけではありません。故に大師である一山一寧を日本に送っても、無碍な扱いにはならないと踏んだわけです。
 また、元皇帝はもう一つの手を打ちました。使者の一行に、渡日経験のある禅僧西澗子曇を加えたのです。彼は蘭渓道隆と同流の臨済僧で彼が来日したのは、兀庵普寧が帰国してしばらくして後のこと。当時の鎌倉には蘭渓道隆や、浄智寺を開山した同流の大休正念がいました。彼自身は侍者という立場で、南宋と日本との間で法語を伝え、南宋の僧侶を日本に送り込むスカウトのようなことをしておりました。蘭渓道隆の示寂と同時に中国に帰国しています。おそらくはその後継を求めてのことでしょう。その翌年に無学祖元の来日が実現しています。但し、その時にはもう南宋の命運は尽きていました。南宋の首都臨安は元の支配下にありましたが、その中で無学祖元を日本に送り込む使いの役割を果たしています。無学祖元の渡日と併行して元の使者が日本に向かいましたが、こちらは博多で斬られています。
 元皇帝が僧侶の使者であれば斬られることはないと判断したのは、このことがあったのかもしれません。そして、その使者として関与した西澗子曇をつければ、禅宗のコネクションが一山一寧を守るだろうと判断したものと思われます。
 その意図は当たり、一山一寧は元の国書を鎌倉幕府の北条貞時に手渡すことに成功します。しかし、皇帝が期待した回答は帰ってこず、使いの成立と言う観点からは上手くいかなかったものの、いくつかの紆余曲折を経て、一山一寧は日本に迎え入れられました。その交渉に西澗子曇の交友関係があったことは鎌倉幕府の当初の一山一寧と西澗子曇の扱いの差をみればわかります。但し、西澗子曇の二度目の来日時には、彼が送り込んだ無学祖元や、日本で知己を得た北条時宗や円璽も亡くなっておりました。無学祖元が来日してから既に十五年の歳月が経っています。南宋の滅亡後も中国に臨済宗は弾圧にあうどころか、大師号をもらうほどに国家に保護されていること。五山のうち天童・育王は焼かれたものの、僧たちは健在であることが確認されたのです。一山一寧と西澗子曇の人脈から禅僧たちが再び日本目指してくるようになりました。

 この一山一寧のが伝えた法流から夢窓疎石があらわれます。

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2013年6月25日 (火)

中漠:臨済編⑥鑁阿寺の置文

 後醍醐天皇の政権にトドメをさすのは、足利尊氏ですが、そこを語る前に足利家について触れておきたいことがあります。
 足利家の親戚筋に今川貞世(了俊)という人物がおりました。観応の擾乱に尊氏方で戦い始め、義詮、義満の三代に仕えました。有能な軍略家であり、九州探題を拝命するや、九州に蟠踞していた懐良親王を追い出して、懐良親王が勝手に行っていた明や高麗との外交工作をやめさせました。しかし、南北朝の長い争乱が終わりを告げた時、彼は九州探題を罷免され、遠江半国の守護に封ぜられました。遠江のもう一方の半国は弟の仲秋が務めております。隣国駿河国は甥泰範が守護を務め、彼の子孫が今川義元に繫がります。貞世と協力して九州に武威を示した大内義弘は叛乱を起こしますが、足利義満に討たれました。貞世や大内義弘のような有能な軍略家は不要な時代になっていたわけです。大内義弘の叛乱時、今川貞世は義弘から誘いが来ましたが、これを拒絶しています。しかし、関与を疑われて義満に誅殺されかけたりするわけですが、政界引退と引き替えに助命されます。遠江半国守護は仲秋が引き継ぎ、後に泰範が接収するに至ります。以後は今川一族や子孫のために『今川状』や『難太平記』などをしたため文筆活動にいそしみ、九十歳を超える天寿を全うしました。乱暴に言っちゃうと、彼の後半生は徳川初期における大久保彦左衛門に似ています。
 今川貞世は武功と引き替えにした自適な余生を文筆活動についやしますが、時代の移り変わりに対する憤懣が著作物に顕れています。そんな彼が嚙み付いたのが『太平記』でした、彼は太平記に今川氏の活躍がほとんど触れられていないことを非難し、『難太平記』を書きました。子孫に宛てるというスタイルでか書かれた今川氏の歴史と足利氏の歴史などが主要な内容になっています。
 その顰に倣ったのか、大久保彦左衛門も著書『三河物語』の中で、『信長記』には間違いが多いと難じております。また、『三河物語』は徳川創業伝説の中での大久保家の活躍を、子孫に宛てて書くというスタイルが踏襲されていました。

 その『難太平記』に興味深い記事があります。足利氏の菩提寺である鑁阿寺(ばんなじ)には、足利家の先祖である源義家が言い遺したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取るだろう」という内容が書かれた置文が存在し、今川貞世もそれを読んだというものです。

 源義家は平安時代に起こった前九年・後三年の役で安倍・清原氏を討つ活躍をしましたが、その武功は朝廷には長く評価されず、十年たってようやく昇殿を許された人物です。当時の武家の出世頭ではありましたが、それだけに周囲に疎まれた苦労人でもありました。源義家が興した家は長男の義宗が早世、次男の義親が叛乱を起こして討ち取られ、三男義忠は暗殺されます。四男の義国はそれまでに乱暴狼藉故に、下野国に下野。叔父の新羅三郎義光と争って破れたところを勘勅を蒙るという目にあって、結果として義家の家は没落することになりました。この四男義国の子孫が足利氏です。
 実際には義家――義親――為義――義朝――頼朝と続き、義家の四代後に武家の天下様が出現しているのですが、置文的にはこれはノーカウントらしい。義家の生まれ変わりが天下を獲るということがキモなんですね。出所はともかく、内容には疑問符がつく文書だと思います。

 足利家時はこの置文が言う、源義家七代の子孫にあたっておりました。時代は北条氏の全盛時代でした。元寇で辛うじて侵略軍を撃退した日本国でしたが、それは北条家の専制強化をさらに促すことになっております。有力な御家人たちはほとんど粛清され、足利家は北条家との姻戚関係で立場を維持することに汲々としていた時期だったのです。
 足利家は代々北条家から妻を娶り、時の執権から偏諱をもらっているのですが、家時は歴代足利家当主とは異例でした。第一に母が北条家出身ではありません。第二に偏諱です。足利尊氏は初名を足利高氏といい、時の執権、北条高時から上の一字『高』を受けています。しかし、家時は北条一門の通字である『時』をいただいていると同時に、七代前の義家から『家』の字を得ているのですね。しかも、家の字が時の上にきています。源氏が北条家の上位に立つことが念頭に置かれた命名であると読み取ることが出来ます。
 東北の人たちを貶める意図はありませんが、当時の認識として源義家は、東夷を討って武威を東北地方に示した武家の英雄であり、武家で昇殿を果たした先駆者でした。家時が元服したのはまさに国難の時期でした。時の執権北条時宗にとってもそういう英雄にあやかろうとする足利家の姿勢を心強いと思ったかもしれません。何より源義家は、置文の内容とは違って天下人とは程遠い生涯を送った人でしたから。
 足利家時は一門から、それまでの北条従属・補完勢力的なありかたから脱却することを期待されていたフシがあります。しかし、それを許すほど当時の北条家は甘くありませんでした。
 足利家時は北条家内の勢力争いに巻き込まれた挙げ句、謎の自害をして果てます。源義家も苦労人でしたが、足利家時には期待の上に苦労があり、なおかつ武威を示すチャンスも与えられていませんでした。期待に潰された典型例でしょう。足利家時の自害においては、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に自分の三代のうちに天下を取らせよと祈願し、願文を残したといいます。家時の孫にあたる足利尊氏や弟の足利直義は鑁阿寺でこれを実見したといいます。その予言の実現を果たした足利尊氏の弟、直義から今川貞世(了俊)はこの置文(おそらくは写し)を見せてもらったらしい。これが『難太平記』にある源義家の置文の顚末です。

 閑話休題。というか、ここまでが前振りです。ここで述べたかったのは足利家の宗旨についてです。この源義家の置文は足利一族の菩提寺にある鑁阿寺に保管されてあったといいます。宗旨は真言宗です。足利氏は源頼朝と同じ源氏の一族であることを考えると、当然の帰結でありましょう。空海を祖とするこの密教は加持祈禱を専らとし、人々に現世利益を提供することに努めておりました。
 足利氏は鎌倉幕府の御家人でしたから、鎌倉にも居館があり、そこに極楽寺という寺を建てています。時に1188年(文治四年)。開基は足利義兼、開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)といいますが、この時点で日本における臨済宗の開祖である栄西はまだ鎌倉にきておらず、退耕行勇も臨済宗に帰依すらしておりません。よって、この時点においては、極楽寺は鑁阿寺と同じく真言宗の寺として建てられました。足利一門は下野国足利に鑁阿寺、鎌倉に極楽寺という二つの菩提寺の檀家となりました。
 この後鎌倉の寺の多くは臨済宗に宗旨を変えてゆくわけですが、この極楽寺も例外ではありませんでした。そのきっかけになるいくつかの事件を述べてゆきます。
 栄西が鎌倉に下り、退耕行勇が臨済宗に帰依した時点で、極楽寺の宗旨が変わった可能性はあまり高くないと思われます。栄西自身が真言宗や旧仏教とは妥協的な態度でいたからです。開基である足利義兼の子、義氏の代で改宗したという話もありますが、詳細は不明です。改宗があったとしても三宗兼学のような形が取られたものと考えるのが一番しっくり来ます。
 極楽寺が禅宗に変わったきっかけの本命はやっぱり、蘭渓道隆でしょう。彼の弟子の月峰了然が1257年(正嘉元年)~1288年(正応元年)にこの寺の住持となって禅宗寺院に改まりました。足利貞氏の頃です。これに伴って貞氏は増築なども行ったようです。貞氏の法号が浄明寺殿貞山道観であることから、彼の在世中、もしくは死の直後に極楽寺は寺号を浄妙寺と改められたと考えられます。貞氏は同時期に鑁阿寺の大御堂の再建を行っているので、足利氏の宗旨が完全に禅宗に変わったわけではなく、真言宗と臨済宗にあわせて帰依するという形がとられたようです。
 浄妙寺はその後、足利家により鎌倉五山の一角を占めるにいたります。

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2013年6月22日 (土)

中漠:臨済編⑤五山の形成

 仏教発祥の地であるインドにおいては釈迦が利用したと伝えられる、天竺五精舎という教拠点寺院があったそうです。曰く、祇園精舎、竹林精舎、大林精舎、誓多精舎、那蘭陀寺の五つです。祇園精舎というのは日本においても、平家物語の語りだしに出て来ることで有名ですね。モンゴル帝国に攻め込まれて滅亡の危機に瀕していた南宋の皇帝、寧宗( 在位1194年~1224年)が、この故事に基づき、五つの官寺を選んで、国中の最高の寺格としました。径山(きんざん)寺・霊隠(りんにん)寺・天童景徳寺・浄慈(じんず)寺・育王広利寺これを称して五山と言ったのが始まりです。

 この内の径山寺には、兀庵普寧と無学祖元が師とした無準師範がおりました。また、日本から南宋に渡った心地覚心(法燈国師)はここで作られていた味噌の製法を日本に伝えてたそうです。その味噌のことを金山寺味噌もしくは、径山寺味噌というそうです。無学祖元は1286年(弘安九年)に示寂しておりますが、それに前後して本朝における五山を定めようとする計画があったと思われます。
 その動きの最古のものとして確認できるものが、1299年(正安元年)に鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智寺を「五山」とする命令です。
 浄智寺は北条時宗が弟の北条宗政の菩提を弔うために、1283年(弘安六年)にその子師時(当時八歳)を開基として建てさせた寺です。開山には兀庵普寧と大休正念という二人の渡来僧の名が連なってます。もっとも、兀庵普寧はとっくの昔に帰国して示寂していますし、大休正念は名義貸しをしただけです。実質的には大休正念の弟子である日本人僧の南州宏海が開山でした。大休正念も径山寺で修行した経験がある温州出身者でした。兀庵普寧の帰国後に来日していますので、無学祖元と同じく、兀庵普寧の人脈によるものと思われます。

 初期の五山とは、この浄智寺に蘭渓道隆・兀庵普寧・無学祖元らが関わった鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺及び京都の建仁寺を加えたものを指すと考えられます。
 五山の体制が整備され、国家は安泰に至るかとも思われましたが、実際の歴史は早々簡単ではありませんでした。元寇(文永・弘安の役)で鎌倉幕府も大きな傷を負い、それでも建て直しのために統制を強めようとしたのですが、それが逆に朝廷と非北条の御家人層の反発を招いて滅亡します。この辺を書き出すときりがないので割愛しますが、鎌倉幕府滅亡後に天下の権を握ったのは後醍醐天皇でした。
 彼は鎌倉幕府が選んだ五山を自ら選びなおしたのです。そもそも五山は中国の皇帝が官寺として選んだもので、陪臣の立場の北条一族が選ぶことは、朱子学を学んだ後醍醐天皇にとっても我慢のならないことだったと想像します。鎌倉幕府の五山は京都一つ、鎌倉四つの構成だったと推察されます。後醍醐天皇はこれを選びなおしてました。南禅寺、大徳寺、東福寺そして建仁寺。いずれも在京の寺です。もう一つあるはずですが、これは不明です。そればかりではなく後醍醐天皇は南禅寺、大徳寺を五山の筆頭という序列に位置づけました。

 京都東山にある東福寺は1236年(嘉禎二年)に摂政九条道家の発願に円爾が開山した寺でした。寺号の由来は東大寺の『東』に興福寺の『福』を併せたものです。寺号からもわかるように、東福寺の禅風は蘭渓道隆達、渡来僧がやったような純粋な中国風の禅ではなく、旧仏教の教えも混ぜた形のものだったそうです。これは帰国早々博多で天台宗徒のイヤガラセを受けたことの結果のようです。九条道家は鎌倉幕府の将軍職にある藤原頼経の父でもありました。それだけの権力を持ってしても、京都で新たな教義を起こそうとするなら、旧仏教とは何らかの妥協を図らねばならないほど協力だったわけです。このあたりの苦労は禅宗にかぎらず、浄土宗、真宗、法華宗と例外なく受けた洗礼のようなものなのですね。

 南禅寺は亀山天皇の開基によって立てられた日本最初の勅願の禅寺です。つまり、禅の教えが天皇にも認められたことを意味します。さらに意義深いことに、亀山天皇は大覚寺統系の天皇の初代にあたるわけです。後醍醐天皇が鎌倉幕府の選んだ五山を廃して、新五山の筆頭においた理由もうなずけます。もともとは亀山天皇の引退後の寓居だったのが、夜な夜な妖怪の出没に悩まされ、高僧を呼んだら怪異がやんだのでそのまま、その僧を開山としたという話が残ってるそうです。この僧の名を無関普門といい、円爾の弟子に当たる人物です。

 大徳寺は宗峰妙超が開山した寺です。元々彼は浦上氏の出身で赤松家の家臣でした。彼は、兀庵普寧・無学祖元に師事した高峰顕日に学び、蘭渓道隆に師事した建長寺の南浦紹明の印可をもらっております。彼は主家筋の赤松円心の帰依を受け、さらに花園上皇の信心をも獲得しました。1325年(正中二年)の大徳寺の建立はその発願によるものです。花園上皇は持明院統の天皇でしたが、傍系で、持明院統の皇位は甥にあたる光巌天皇にもってゆかれています。後醍醐天皇は幕府に叛旗を翻して敗北した結果、皇位を剝奪されて隠岐に流されていました。その間に天皇になっていたのが、光巌天皇でした。後醍醐天皇からしてみれば、光巌天皇の在位は認められるものではありませんでした。そこで、花園上皇発願の大徳寺を五山の一つに入れて、後伏見天皇系の皇統を否定しようと試みたわけですね。

 建仁寺は栄西が建てて、蘭渓道隆の入った歴史ある寺で、京にある五山格の寺として選に残したものでしょう。後醍醐天皇の五山選定はかくも政治色の強いものでした。もともとは亡国に瀕した南宋出身の禅僧達が日本にその衣鉢を残そうとしたものですが、格付け序列がからむとどうしても生臭いものになってしまうようです。後醍醐天皇の政権は磐石とは程遠いものでした。彼が組みなおそうとした五山の序列もまた、後醍醐天皇と大覚寺統の命運とともに揺れ動いてゆきます。

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2013年6月20日 (木)

中漠:臨済編④兀庵普寧と無学祖元

 北条時頼と蘭渓道隆との関係は常に良好であったわけではありませんでしたが、蘭渓道隆は彼自身のやり方で日本国に禅宗を広めてゆきました。栄西のもとで顕密禅三教が混交した形の禅寺を宋風の禅寺に変えた彼のやり方は大きな反発を招いただろうことは容易に想像できます。彼は元帝国の密偵であると疑われて甲斐に流されたといわれていますが、彼が勤めていた建長寺の住持の後を継いだのは、兀庵普寧(ごったんふねい)という中国人でした。李下に冠を正さずなんて諺もありますが、本当に蘭渓道隆を元国の密偵だと疑っていたなら、その後を中国人にまかせるなんてことはなかったでしょう。
 兀庵普寧の来日をプロモートしたのは、蘭渓道隆と円爾でした。彼もまた、無準師範の弟子筋です。北条時頼はこの兀庵普寧のもとで臨済禅の印可をうけました。時頼は兀庵普寧が来日する以前に出家はしていました。それは、命に関わるような大病にかかったためだったのですが、持ち直したのですね。だから正式に仏教の修行をしていたわけではなかったわけです。
この兀庵普寧は北条時頼の死後、まもなく帰国してしまいますが、蘭渓道隆はその帰国以前に鎌倉に舞い戻っているのですね。故に、北条家は決してこの中国僧たちを邪険に扱ったわけではない。むしろ、彼らを排斥しようとしたのは、所謂真言・天台の旧仏教系の勢力ではなかったかと思います。彼らからしてみれば、兼学を掲げているから大目に見ていた禅寺から、旧仏教系の教えを排してしまったのです。しかもそれが鎌倉幕府の執権に所縁深い寺院であったので、影響は甚大でした。

 さて、南宋に帰国した兀庵普寧は今の浙江省温州市あたりにある、江心山龍翔寺に落ち着きました。ただし、彼が帰りついた南宋は落ち着くどころではありませんでした。クビライ・ハーン率いる元帝国の猛攻に、滅亡寸前だったわけです。南宋の首都は現在では同じ浙江省の領域にある、臨安(現在の杭州市)でしたが、戦災を逃れて、安全の地を求める人々が列をなしていたそんな時代でした。1273年(文永十年)には南宋の最重要防衛拠点である襄陽が破れ、1275年(文永十二年)は浙江省との境を接する蕪湖(安徽省蕪湖市)で大規模な戦闘が行われました。この戦いで南宋は破れます。もはや南宋領域は実質的に首都臨安を中心とする浙江省領域に限られ、その臨安が次のターゲットになっていたわけです。
 そんな中、戦災を避ける避難民の中に臨済禅の僧がおりました。名を無学祖元といいます。彼が避難地として選んだのは、兀庵普寧がいた温州でした。能仁寺という寺に寓していたといいます。
 兀庵普寧と無学祖元は同じ師、無準師範のもとで修行をしております。同宗でなおかつ同じ師のもとで修行していた僧が同じ温州(現在の温州市、尚、中国の市は日本の県クラスの大きさがあります。)にいたわけです。交流があったと見るのが自然でしょう。
 無学祖元が温州に避難した翌年の1276年(建治二年)、兀庵普寧は示寂します。この年、ついに臨安が陥落し、事実上南宋は滅亡しました。中国に無学祖元の居場所がなくなってしまったのです。

 南宋の残存勢力が広東で抵抗しますが、1279年には鎮圧されます。無学祖元が日本に向かったのはその年でした。時の鎌倉幕府の執権北条時宗が招いたということになっておりますが、その選択肢を与えたのは、北条時頼と兀庵普寧との関係にあったと見てよいでしょう。無学祖元は蘭渓道隆(1278年(弘安元年)示寂)がいた建長寺の住持となって、北条時宗のブレーンの一人となりました。無学祖元が日本に亡命して二年後の1281年(弘安四年)に無学祖元の後を追うようにして元軍が二度目の日本侵略を企てます。世にいう弘安の役です。鎌倉幕府は朝廷と連携して、九州北部沿岸に防衛線を張り、撃退に成功しました。
 文永・弘安の戦いの戦没者を追悼するために、北条時宗は無学祖元に寺院を建立させました。円覚寺です。蘭渓道隆・兀庵普寧・無学祖元は北条執権政治の鎌倉に現れて、北条家の実力を背景に南宋の禅風を日本にもたらしました。それは単純に文化の移植というのではなく、思想・文明の輸出と呼ぶべきものであったのではないかと思います。臨済宗は鎌倉幕府の権力と一体化してゆきます。その現れの一つが五山という制度の導入なのです。

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2013年6月18日 (火)

中漠:臨済編③北条時頼の場合

 栄西は日本における臨済禅の開祖であると同時に茶を始めて日本にもたらした人物です。教義の違いでギスギスしがちな他宗との関係を、お茶でもって和ませた。そんな性格だったのではないかと思います。故に、初期の禅宗は密教、特に真言宗とペアで扱われています。京の建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺でした。そして、栄西の後継として寿福寺の住持におさまったのはそれまで鶴岡八幡宮や永福寺にいた退耕行勇です。彼は頼朝の死後に北条政子の剃髪をした人物ですが、彼女が寓居とした安養院が律宗の寺(後に浄土宗に改められる)であることを考えると、もともと律宗僧であったと考えるべきでしょう。彼は栄西が鎌倉入りする以前に足利義兼のために極楽寺(後の鎌倉五山の一つ浄妙寺)を建てています。
 また、栄西が幕府の力を利用して旧仏教系寺院への影響力を強めようと高野山に禅定院を建てました。ここで北条政子が禅定如実という戒名をもらって入道しようとします。その当時、高野山には頼朝の遺児(政子の子ではない)貞暁がおりました。高野山といえば真言宗の本山です。ここで政子は貞暁と和解すると同時に帰依したとされますから、この頃の禅といっても、建仁寺と同様の禅・天台・真言の三宗兼学のような体制であったと考えられます。

 禅が禅宗という宗派として独り立ちできるようになったのは、北条家第五代執権北条時頼と蘭渓道隆の活躍によるものといえます。それ以前は日本の僧が南宋に渡って禅を学んで故国で禅宗を広めていました。栄西を始めとする禅僧達は既成宗教と妥協的・漸進的でした。それを南宋の禅僧が渡日して正しい禅風を広めようとしたのです。蘭渓道隆が来日したのと同じ年、北条時頼が執権職につきました。源氏三代が滅び、北条家が執権として鎌倉幕府を統括した時代ですが、お飾りの征夷大将軍がお飾りに甘んじず、北条以外の有力御家人と結んで策謀を企んでいました。これを武力で一掃したのが北条時頼です。北条家の全盛時代でした。だから、やりたいことは大体において実現できた。このタイミングで蘭渓道隆が来日できたのは大いなる幸運だったといえます。
 この蘭渓道隆の渡日には円爾という日本人僧の存在があったと考えられます。円爾は南宋に渡り、臨済宗の無準師範を師の印可を受けて帰国しました。蘭渓道隆は四川出身ですが、この無準師範は彼の師の一人で、同門ということができます。蘭渓道隆を皮切りに南宋からの渡来僧が中国の禅文化をもたらすわけですが、そのきっかけとして円爾の存在がありました。彼は京で活躍しますが、別項で取り上げます。

 蘭渓道隆は大船の常楽寺を皮切りに、教えを広め、既存の寺を臨済禅寺風に改めます。寿福寺、建長寺、修善寺、浄妙寺(元極楽寺)、建仁寺、東光寺、禅興寺(元最明寺)と渡日後三十二年年間に驚異的なペースでそれは行われました。ただし、全てが順調にいったわけではありません。今までそれなりに調和をもって行われていた興禅が鎌倉幕府の力を後ろ盾に禅風に改められたことに対しては、大きな反発があったものと思われます。

 1236年に大陸で覇を唱えていた満州族の金国がモンゴルに滅ぼされます。1259年には朝鮮半島にあった王朝高麗がモンゴルに服属するにいたります。そして、1268年に服属を求める国書を日本に届けました。その後モンゴル帝国は分裂し、華北に勢力をもっていたクビライ・ハーンは1272年に国号を元と改めます。
 日本国はこれを脅威と受け止めました。南宋の人々が日本にやってくるのも滅亡寸前の国からの逃亡であるという側面もあるでしょう。しかし、日本のほうもこれをモンゴルのスパイではないかと疑いをもたげたのです。そんな中、過激な宗教改革をする蘭渓道隆はスパイと見なされ、二度ばかし鎌倉を離れざるを得ませんでした。一回目は伊豆に避難しました。そこにあった修善寺は天台宗の寺でしたが、禅寺に改めてます。転んでもただで起きないのは彼のパーソナリティでしょう。二回目は本当に疑いをかけられて甲斐に流されたのです。ここでも甲斐の東光寺を禅寺に仕立て直すことをしています。
 その間、北条時頼は亡くなり、彼の寓居であった最明寺は後継者である北条時宗の手によって興禅寺という寺院に改められています。これに協力して住持になったのも蘭渓道隆でした。彼は不屈の闘志をもって日本における臨済宗の純化に勤めたのでした。
 彼自身が元帝国の間諜であったかわかりません。しかし、日本の仏教風景を大きく塗り替えたという意味においては、彼の影響力はきわめて大きかったと評さざるを得ないでしょう。後に定められた鎌倉五山のうち、建長寺、寿福寺、弟子が関わった浄妙寺、京都五山のうち建仁寺が彼に関わって寺風を変えたのですから。

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2013年6月15日 (土)

中漠:臨済編②源頼朝の場合

  源頼朝は鎌倉を拠点として、京で勢力をふるっていた平氏を打倒、武家勢力の頂点に立ちました。
 1184年(元暦元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために、鎌倉大御堂ヶ谷に阿弥陀山長勝寿院を建立します。源頼朝はこの他に、鶴岡八幡宮、永福寺という寺社を生涯の内にこの鎌倉に建立しています。鶴岡八幡宮が源氏の氏神としての役割を、永福寺が奥州藤原氏や源義経など、頼朝が滅ぼした勢力の怨霊鎮撫のための寺院としての役割を担いましたが、この長勝寿院は頼朝の一家である鎌倉源氏の菩提寺として機能していました。この長勝寿院と永福寺は後に廃寺となり、鶴岡八幡宮のみが残ったのです。この菩提寺の宗派、そして鎌倉源氏が属する宗派が何だったのかを考察するのが本稿の趣旨です。

 この時点における仏教は後に興隆する鎌倉仏教(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗等)の宗派色、本寺統制色の強さと比べて宗派の区別はそれほど強くありません。なので、例えば平泉にある奥州藤原氏の菩提寺である中尊寺は天台宗寺院であるにもかかわらず、阿弥陀仏が本尊となっております。この長勝寿院も本尊は金色阿弥陀仏だったといい、阿弥陀信仰の影響を見ることが出来ます。むしろ、中尊寺やこの長勝寿院だけではなく、この当時阿弥陀信仰は一大ムーブメントの様相を呈しておりました。というのは1052年(永承七年)は末法思想における末法元年と見なされていました。釈迦の教えは既に正しい形では後世に残らず、新たな救いを与える存在として脚光を浴びたのが阿弥陀如来だったわけです。
 この阿弥陀信仰を研究して日本における浄土宗の開祖となった法然(1133年~1212年)は既に活動を開始していましたが、1184年時点ではその活動は京都に限られ、『浄土宗』としての寺院が鎌倉に建てられるのはもう少し後のことになります。

 源頼朝の宗旨ですが、ここで結論を先に述べてしまえば真言宗であったと思われます。源頼朝は父義朝のためにここの他に、義朝の終焉の地である尾張国知多郡野間に大御堂寺という寺を建てています。行基が開祖とか、白河天皇の勅願寺等の諸説が寺伝にありますが、それは伝説に過ぎないらしいです。寺号は長勝寿院が建立の地である大御堂ヶ谷。義朝の菩提のための寺であること、本尊が阿弥陀如来であることなど、長勝寿院との深い所縁を感じさせる寺院で、ここの宗旨が真言宗であるわけです。
 頼朝の一家は真言宗とのかかわりは深いです。源頼朝の弟である範頼は兄の頼朝の怒りを買い、また頼朝の子である頼家は御家人の権力闘争に敗れ、伊豆の修善寺と号する寺に幽閉後に殺害されます。修善寺は地名でもあります。この修善寺の当時の宗旨は真言宗。開基は空海となっております。この修善寺は後に蘭渓道隆によって臨済宗に改められ、その後寂れたところを伊勢宗瑞が曹洞宗の寺に改め中興したとの話が残っています。
 範頼と同じく頼朝の弟であった阿野全成は幼時に醍醐寺で出家しております。この醍醐寺も真言宗寺院です。頼家の庶弟である貞暁は高野山で修行をしております。それほどまでに鎌倉源氏と真言宗の所縁は深いものがありました。

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 鎌倉に禅宗が入ったのは頼朝の死後のことです。正治元年(1199年)源頼朝が亡くなりました。墓は大倉山山腹に建てられて持仏堂・法華堂と呼ばれました。鶴岡八幡宮においても朝廷から白旗大明神の神号を賜り、域内に神社を建てて祀られました。
 日本における臨済宗の開祖、栄西(1141年~1215年)が鎌倉入りしたのは、頼朝の死の前年でした。彼は頼朝が征夷大将軍になって鎌倉幕府を開く前年建久二年に二度目の南宋への留学から帰国し、禅の印可を引っさげて日本に臨済禅を広める活動を九州から始めました。この活動は当然天台宗の反発を招き、1194年(建久五年)に禅宗停止の勅令などが発せられました。同時代に独学で禅宗興隆を志した大日房能忍などはこれに挫折を余儀なくされております。能忍の禅宗は研究の便宜上日本達磨宗と呼ばれています。禅宗の特徴は相伝による嗣法にありましたが、能忍は禅の重要性を認識しながら自らは禅師を持てませんでした。(但し、弟子が入宋し能忍の研究の正しさを確認した上で、中国の禅師から弟子が印可をもらってます)このことが天台宗のみならず、同じ禅宗からも攻撃されることになりました。その攻撃者が栄西でした。彼は『興禅護国論』を表し、禅が既存宗教を脅かすものではないことを強調すると同時に、能忍の禅を形ばかりの真似事に過ぎないとこき下ろしました。併せて栄西は真言宗の印信も得ていたのです。もともとが比叡山で勉強をした経歴を持つ栄西は既存勢力との親和性を持ち合わせていたわけですね。この辺りは法然とその弟子の一部にも共通する部分です。栄西は他宗との協調を謳いながらの禅を興隆しようとの志を持って鎌倉に向かいました。
 そこで頼朝の未亡人北条政子の依頼により、頼朝の菩提を弔うための寿福寺を建てました。頼朝菩提の寺は他にも先ほど紹介した白旗神社や、安養院などがあります。過去の経緯、そしてその二年後に京に建てた建仁寺が禅・天台・真言の三宗兼学の宗旨だったことを考えると、栄西は真言僧の顔で鎌倉入りしたものと推量致します。栄西は鎌倉幕府の力を借りて京で猟官活動をし、東大寺大勧進職・権僧正になりました。さらに大師号を得ようとしたのを天台の慈円(愚管抄の著者)に増上慢の権化と罵られるにいたります。

 この寿福寺創建と同じ年に日本における曹洞宗の開祖である道元が生まれました。

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2013年6月13日 (木)

中漠:臨済編①臨済宗とは?

 一口に禅宗と言っても、他宗と同様色々な分派に分かれております。その淵源は達磨大師にあります。この達磨大師はもともとはインドの王子様でしたが、出家して中国に流れてきました。その時、中国は南北朝時代で、南朝は梁、北朝は北魏が治めておりました。達磨大師は中国に座禅の修行法を伝えて禅宗を始めたものとされております。しかし、禅宗が重視する座禅による瞑想は、仏教徒の基本的な修行法であり、釈迦以前にもあったものです。同時に達磨大師本人が禅宗の根本経典を書いたというわけでもありません。座禅を重視する仏教の一派が唐末になって自らの流儀の正統性を強調するために達磨大師の名前を借りたというところが正しいところでしょう。
 禅宗の特徴は座禅を通じて悟りを得る、いわゆる自力本願を目指すところにあります。自力本願を最初から放棄した阿弥陀信仰=浄土門とは異なるものです。大乗仏教のカテゴリに入りますが、自力救済を掲げる上座部仏教に似た面もあり、古態に近いものと考えることが出来るでしょう。
(もっとも、禅宗に念仏を取り入れた黄檗宗というものが明末に発生し、江戸時代に日本に入ってきますが、これは戦国時代の仏教のカテゴリから外れますので割愛します)

 この仏教の流派は南北朝から隋唐・五胡十六国を経て宋代まで中国で発展し五家七宗の分派を形成して発展しました。これが最初に日本に入ってきたのは平安時代らしいのですが、本格的に入ってきたのは鎌倉時代になってからです。日本から宋へと留学した学僧栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を学んで持ち帰りました。それをきっかけとして、中国から禅宗の教えを広めに来日する禅宗の高僧達があまた現れます。それはモンゴルの南下によって宋国が滅亡したこととおそらくは何らかの関係があるでしょう。北条時頼以降の歴代執権は彼らを保護して、彼らのために京と鎌倉に寺を建立します。これが五山の始まりです。

 戦国史を研究するに当たりとりあえず押さえておくべきは先ほど述べた臨済宗と曹洞宗です。どちらも座禅を重視するところは同じです。が、その大まかな違いは曹洞宗が『只管打坐』と言うただひたすら座禅を組むことを重視したことに対し、臨済宗は修行の方法として座禅の他に『公案』というものを取り入れていることですね。公案というのは本を読んだだけで自分も理解出来ていないのですが、悟りというものは言葉や文字では表現出来ないものなんだそうです。で、どうやって悟りに至るのか、悟りに至った境地というものはどんなものなのか、等のヒントを問答と言う形で記したものらしい。具体的には問答の形式を取るもので、『そもさん!』という言葉とともに問いがなされ、『説破!』という言葉の後にその問いの答えが示されます。いわゆる『禅問答』と言う奴ですね。問答そのものは文字で読む限りにおいては、非論理と言うか、脱論理なものであり、それ故に悟りは文字や言葉では得られないものであるという構造になっているようです。

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2013年6月11日 (火)

中漠:中世史漠談

 川の戦国史は一旦お休みして、戦国史以前の話を当分の間したいと思います。視野を戦国史から中世史全体に広げて漠然とした語りをやってみたいと思います。名付けて『中世史漠談』です。
 コンセプトとしては、日本中世史、具体的には鎌倉・室町・戦国期における中世史を仏教史、とくに鎌倉仏教と呼ばれる新仏教史と絡めながら漫然と語ってゆくことを目指していきたいと思います。
 なぜ、そのような形で取り進めるかと申しますと、かつて司馬遼太郎氏が織田信長の業績について言及する時に『仏教や荘園制などの古い制度を破壊して、近世の扉を開いた』と評価されていたことが、ずっと心に残っていたためです。
 織田信長は良く知られている通り、延暦寺を焼き討ちし、本願寺教団の拠点を根切りし、洛中の法華信徒に論争を仕掛けて折伏を止めさせました。それ以降、寺社勢力は猫の子のように大人しくなり、江戸期になって、葬式と戸籍を管理する役場としての役目を果たすだけの存在になったと言われております。

 ただ、歴史の本を読むに、例えば、北条早雲や武田信玄や上杉謙信などは僧形の武将なのに、彼らがどのような宗旨で、その宗派はどんなコネクションを持っていたのか語られることは稀です。太原崇孚は今川義元の側近として辣腕をふるった禅僧ですが、一介の禅僧が何故戦国武将の軍師として活躍しえたのか。豊臣秀吉や徳川家康が天下を取った後も、西笑承兌や天海・崇伝らが当たり前のような顔をして脇を固めていることに違和感を禁じえませんでした。

 それは間違いなく、織田信長が壊した古き物の残滓であったのでしょう。では、それは一体何だったのでしょうか? 果たして我々は十二分に知っているでしょうか? 『中世史漠談』においては、その実相がどんなものだったのか、判り易く迫ってゆきたいと思います。

 宗教、宗派、宗門というものは組織です。寺領や寄進などの財源を持ち、本末の寺院統制をベースとするシステムが形成されているのです。鎌倉幕府や室町幕府の重鎮達はこの組織人たちとの密接なつながりを有していました。末は国主に満たぬ、国人・土豪達も自らの祖先を祭るため、菩提寺をたてておりますね。古代・中世・近世の政治史の見えにくい部分には、そういったコネクションが厳然として存在しています。まずは、それらの諸宗教の成り立ちと発展経緯を素描し、併せて鎌倉・室町時代の政治史と絡ませてゆきたいと思います。

 記述の中で各宗派の教義に言及しているところがありますが、そこははっきり言って半可通の思い込みの産物です。一応、歴史的事実は追っているつもりではありますが、各宗派の教義の理解については、不正確なところがままあるかと思いますし、そういうところに関心のある方は直接寺院の門を叩いて本職の僧侶に話をうかがう方がより理解が進むことでしょう。

 寺社は飛鳥時代に日本に来てから現代にいたるまでずっと存在し続けてきたものです。中世における寺社というものを何に例えるのが適当でしょうか。按ずるに、それは金が流通する以前、資本主義が発生しえない環境において発生した企業、カンパニーとしての側面があるととらえればよいのではないかと考えております。寺院は朝廷や豪族から寄進された土地を経営します。寺院組織の横のネットワークは最適化された経営情報を共有し、効率的な統治を行います。寄進した朝廷貴族や豪族達は時にその寺社に一族の物を送り込んで、その経営手法を学び、自らの統治に役立ててきたのではなかったでしょうか。

 仏教そのものは中国から伝来しましたが、仏教の名のもとに渡来してきたのは経典や渡来僧だけではなく、茶や味噌など仏教寺院を経由してライフスタイルまでが規定されていったものと推察いたします。寄進者はそういったメリットを享受できるために、ただ単に財産を捨てているわけではなく、ウィン・ウィンの関係を構築していると言えるでしょう。もちろん、寺社側でも自らのノウハウを全て提供してしまってはそれ以後の飯の種がなくなりますので、時に難解な経文を教えて優位性を保つこともあったでしょう。ただ、それだけではなく本山と呼ばれた寺院の多くは自らの組織中に職人集団を形成しておりました。運慶・快慶などがその代表例です。寺社はそのような職能集団を自らの組織の中に抱え込んでゆきました。
 銭が十分に普及していない時代に、物流を裏打ちするものは、信用以外の何物もありません。そんな時代に寺社は全国にネットワークを広げて物や技術の流通に寄与したのではないでしょうか? 宗教指導者達はそれぞれ自らの教理の正しさを他宗派と競いましたが、武家や公家が寺社に期待した物は主にそういうものなのではなかったでしょうか。
 そういう問いかけを投げつつ、取り進めをしてゆきたいと思います。

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2013年6月 6日 (木)

川戦:安城合戦編⑮考察

 とりあえず、私は現時点においても、天文十一年の第一次小豆坂合戦はなかった説を支持しております。それでも天文九年の安城城陥落はあると考える人は多いとは思いますが、以下の根拠でそれは疑わしいと考えております。第一に、平野明夫氏が「三河松平一族」で明らかにした天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書、第二に宗牧の東国紀行という書物において、天文十三年に美濃国加納口合戦に織田信秀が敗北します。それに乗じて岡崎城から阿部大蔵定吉が「おはりおもて」に向けて出陣したという記述があります。三河国安城が占領されている状況の中でどうすれば、阿部定吉が岡崎城を留守にして「おはりおもて」に到達できるかが疑問であること、第三に天文十三年の段階で深溝松平家の人間が安城で年貢をめぐるトラブルを起こした文書が残されていることです。

 その中でも、安城市史で天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛北条氏康文書についての疑義が立てられていたことが本稿の考察のきっかけです。この考察において、安城市史があげている当該文書の疑問点については自分なりの解答が出せたと思っております。

 まず、朝野旧聞ほう藁において、織田弾正忠宛北条氏康文書の後半部分が永正年間に発せられたと思われる閏十一月七日付巨海越中守宛(北条早雲)宗瑞文書とくっついている理由です。これは古証文に乱丁があり、異なる文書が合わさってしまった為と推測しました。これは現在国立公文書館に蔵してある内閣文庫蔵の古証文三種文書を比較した結果たどりついた結論です。

 第二に、安城市史が「被相談」としている当該文書の内容です。これは同じ活字本でも戦国遺文と小田原市史所載の同文書が「無相談」としておりますが、これを安城市史では『「被相談」の「被」を「無」の誤写とみる説もあるが、文字自体は「被」である』という見解がありましたが、三種本と字体辞典を比較検討した結果、素人目で恐縮ですが「被相談」より寧ろ、「無相談」の方が妥当ではないかと判断いたします。
 同じ文書を書写していても、朝野旧聞ほう藁と古証文では書写の方針が異なっていて、朝野旧聞ほう藁では読みやすさを重視して異字体があれば統一を図り、改行位置などには頓着していないことに対して、古証文は字形や改行位置、改頁位置まで一致する完全コピーを作ることを目的とした書写がなされていることを確認しました。
 また、字体辞典における「無」と「被」の字形比較においては古証文三種の中でも大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書、旧蔵元不明書の順で無に近かったです。むしろ旧蔵元不明書は、完全コピーを目指しながらも朝野旧聞ほう藁の解釈に近づけるよう書写がなされているのではないか、というのが調べている内に思った実感です。

 第三点は安城市史が直接述べていることではありませんが、活字本三種で「被」と読まれている文字でも、「無」である可能性の指摘ができたことです。「被致本意」は本意を致されというよくわからない日本語に読み下すしかないのですが、大久保酉山旧蔵書、和学講談所旧蔵書の二書の「被」は「無」に近いじでした。これをもとに「本」の字形が辞典の字形と必ずしも一致しないことを確認したうえで「無致方意」(致し方無き意)という読み下し方を提起してみました。これはあくまでも別解であり、私自身の今後の勉強も必要になるだろうことを含め、指摘のみしておく次第です。

 第四点は偽書説についてです。安城市史では偽書とまでは言われてませんが、史料編において疑義とともに参考文書の扱いとされている状況について考察をしてみました。偽書とするためにはやはり、どのような意図をもってそのような記述になったのかを考察することが必要ではないかというのが実感です。安城市史における疑義においても、最初から書式として整わない形になっていたかは不明であるし、天文十七年の小豆坂合戦前の状況において、敵地を経由して書状を送る段においては、同一人宛に複数文書が出ることもあり得るのではないかと考えてみました。

 安城合戦、小豆坂合戦においては今後も研究が進み、深い考察が出てくることを期待しております。

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2013年6月 4日 (火)

川戦:安城合戦編⑭偽書説について

 ここまで調べていてなんですが、この天文十七年三月十一日付織田弾正忠宛氏康文書には偽書説が安城市史に提起されております。主なる論拠としては、同年同一日付で内容もほぼ重複している織田弾正忠宛氏康文書が同じ古証文に所載されているからです。しかも、元文書に長々と書かれていた背景説明を全てすっ飛ばして、氏康の返答のみが短く記されておりました。

(短文版全文・安城市史より[カッコ書きは安城市史の注])
 五二八 〔参考)北条氏康書状写  (古証文)

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、
      (今川義元)
背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖
遂一和候、自披国疑心無止候、委細者、御使可申入
候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、
天文十七
 三月十一日
  〈信秀)
 織田弾正忠殿
                 (北条)
                  氏康在判

 また、長文版においては、末尾に日付と署名がなされておりますが、この日付の様式がいわゆる文書の書式を満たしていないとのことです。下記に書かれているような、年号を抜いた「十七年」という書式は文書礼としておかしいということだそうです。

(長文版末尾内容)
何様御礼自是可申入候、委細者、使者可有演説候、
恐々謹言、
  (天文)
 十七年          (北条)
  三月十一日       氏康在判
          (信秀)
    織田弾正忠殿
             御返報

 故に、長文版は短文版をもとに作られたものであろうとの考察がなされ、短文版を含め安城市史では「参考」扱いの史料となっております。念のために書いておくと、安城市史で参考扱いとした村岡准教授ご本人は偽書であるとは言っておりませんが、この見解をもって偽書説として扱っている書籍を拝見したことがあります。

 偽書は、その文言に書かれた言説を流布することにより、事実とは異なる記事が盛られている文書と解釈しております。例えば武功夜話などがその範疇に入るといわれております。武功夜話は現存史料が後代になって書き写されたものであり、その内容に同時代文書には現れがたいオーパーツが入っていることなどからそう言われます。ただ、偽書説が説として機能するためにはその偽書が何故そのような形で後代に残ったのかの考察が必要ではないかと思うのです。

 例えば、武功夜話等であれば、前野家先祖が戦国時代に書いた史料を、子孫は一文字たりとも改変せずに封印保管していた訳ではなかったようなのですね。その時々の子孫がその都度知った知識を後代の子孫に読ませるために加筆を行い続けていたのであれば、歴史的史料価値は下がるかもしれませんが、決してその行いは責められるべきものではありませんし、その子孫がどのようなソースでどの部分を加筆したのかについては、むしろ理解・研究を深めるべきでしょう。
 もちろん、これが伝平岩親吉の三河後風土記をでっちあげた沢田源内のようなプロの偽書作者が書いた物であることが判れば話は別ですが。

 確かに年数のみ記された文書は見られませんが、古証文に所載されている氏康文書は書写文書です。故に古証文に掲載される過程で、書式の前後に加筆があったと考えられます。例えば、長文版には織田弾正忠殿の後に短文版にはない御返報が書き加えられております。短文版から長文版を作ったとすれば、この御返報を書き加えた理由が判じえません。同様に、短文版に天文十七と記されているとすれば、長文版から天文の年号を除いた意味が分からなくなります。

 ずっと後年に下って、桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士の兇刃に倒れた折、彦根藩江戸藩邸は二日にわたり、二ルート、二丁の早籠を調達し、国許に主君の死を伝えたと言います。北条氏康から織田信秀に届いた書状の日付は天文十七年三月十一日です。この八日後の三月十九日に三河国小豆坂で織田軍と今川軍の衝突が起こりました。後に言う小豆坂合戦です。当然尾張から相模のルートの中間にある今川義元は信秀と氏康が通じていることを知れば妨害しようとするでしょう。信秀としては、北条氏康に今川義元の後背をついてもらえればどれほど助かったことでしょう。そこまでいかなくても、色よい返事であれば政治的に活用できます。それを考えれば、北条氏康は織田信秀に確実に書状を届けるために、書状を二通用意したと考えてもよいかもしれません。

 いずれにせよ、私が把握している限りにおいては、安城市史に記された記事のみをもって偽書説と呼ぶにはやや根拠の提示が足りないように思われます。私自身、それらの情報にアクセスできていないだけかもしれませんが、今後の研究でこの時代の史実が明らかにされてゆくことを期待いたします。

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2013年6月 2日 (日)

川戦:安城合戦編⑬漢字パズルⅢ(被の読み方)

図表5:「被」の字体比較
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同じ手順で活字本が「被」としている文字との比較表を作成してみました。対象になるのは040文字目にある「被起軍」(軍を起こされ)と51文字目の「被破破之由」(破られるの由?)、83文字目の「被致本意候」(本意を致し候)、104文字目の「被相詰之由」の「被」です。

一見してわかるのは古証文三種の字体のばらつきと、朝野の文字の統一具合です。特に040文字目の「被」は古証文では他の「被」の字と字形が異なっているのに、朝野は同文中の「被」の字と同じ字形としています。すなわち、朝野は書写対象の文字を「被」と解釈したなら
ば、一種類の字体に統一校正しているのです。
対して、 古証文肉筆本の三種は、いずれも同じ位置の字については、字形を変えたりすること無く、あるがままに書写されております。

これは、書写の目的、編集方針の違いによる差異と解釈できます。朝野は徳川幕府創業の記録をまとめることを目的としておりますので、古証文からの引用をするにあたっても、想定する読者(幕府の人間)の可読性の確保を重視としており、文中に異字体があれば、編集方針に沿って彼らが慣れ親しんだ字体に変更されたということでしょう。

 対して古証文は底本の忠実なコピーとして読まれることを目的としたために、字体や改行位置、さらには乱丁があってもそのままに記されたと考えられます。

 古文書の解釈においては、単純に字形を読むだけではなく、同じ文書でも他文書との異同を調べることによって、資料の作られ方や編集方針などを判読できるところが大変興味深いものです。以上を踏まえると、刊本だけでは出てこない別解も出せるのではないか。敢えてそのようなサンプルを出してみます。

図表6:83文字目:被致本意
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これは活字本がいずれも「被致本意」としているのですが、古証文の特に古(酉)と古(和)における「被」の字体が、「被」よりも、「無」によっていることが気になります。併せて、「本」の字体も右側のはらいが湾曲しているのですが、このような特徴は辞典に該当する文字がありません。

また、ここの文章の前後を拾うと以下のようになりますが、「本意を致す」という表現は意味は解せますが、日本語や漢語として不自然ではないかと思われます。事実現代語訳文には、「本意を遂げ」と解されているものも散見されますが、明らかに文字が異なっています。

駿州ニも今橋被致本意候
(訳案)駿州にも今橋、本意を致され候

「本」の字ですが、朝野と古証文三種とでは明らかに字形が異なっております。これは右側のはらいの湾曲から、「方」ではないかと思うのです。被が無、本が方と読んだ場合、以下のような文章となります。

駿州ニも今橋無致方意候
(読み下し案)駿州にも今橋、致し方無き意に候
(訳案)今川義元が今橋を取ったことは仕方のない事である。

「被致本意」の場合は、今川義元が露わにした野心に氏康は警戒しているという感じですが、「無致方意」であれば、氏康は義元行為について、肯定的なニュアンスとなるのではないでしょうか。今橋は戸田一族の戸田宣成が守っていたのですが、この戸田宣成が今川に逆らったことを名目に兵を動員しました。これに対して一族である田原の戸田康光は中立を保ち、松平広忠は今川方で参戦しているのですね。すなわち、三河国人・土豪衆の賛意の中、今川義元は戸田宣成を成敗したのであり、他国人である織田信秀の介入の余地はなかったと言いたかったのではないでしょうか。

 以上、一応説としてはだしてみましたが、これが正しいとか、これしか解がないというわけではなく、あくまでも古文書を楽しむ別解としてだしてみました。他にも、「則時ニ被破破之由候」と、「破」の字が重ねられている理由は何か(朝野は破を一文字だけに校正しております)とか、この文書を読むだけでも興味が尽きない部分は多々残されております。

最後にここまでの説を踏まえた文書の文言及び、大意は以下の通りとなります。

01---+----10----+----20
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候
21---+----30----+----40
悦着候仍三州之儀駿州へ無相談去年向彼国被
41---+----50----+----60-
起軍安城者要害則時ニ被破破之由候毎度御戦功
62--+----70----+----80--
奇特候殊岡崎之城自其国就相押候駿州ニも今橋
83-+----90----+----00-
無致方意候其以後万其国相違之刷候哉因茲
02--+----10----+----20-
彼国被相詰之由承候無余儀題目候就中駿州此
22--+----30----+----40-
方間之儀預御尋候近年雖遂一和候自彼国疑心
42--+----50----+----60-
無止候間迷惑候抑自清須御使并預貴札候忝候
62--+----70----+----80-
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
82--+
恐々謹言、

 いただいたお手紙に書かれていた通り、私のいる相模とあなたのいる尾張国は遠路なので、近年は行き来もありませんでした。にもかかわらず、このたびご丁寧にも使者を送っていただいたことは、喜ばしいことです。あなたの手紙に書かれている三河国の件についてですが、駿河の今川義元に相談もなく、昨年三河国に対し軍を起こし、安城の要害を即時にやぶられたそうですね。あなたの戦功についてはいつも聞き及んでおりますが、このたびの軍功も凄いものだと思います。
 とりわけ岡崎城は駿河勢との角逐の場となってしまいました。駿河勢も今橋(現在の吉田)を占領してますが、それは仕方のないことでしょう。それ以後の駿河国の情勢に変わりはないでしょうか。ここに三河国は尾張と駿河の二勢力が詰め合いする場となったとこと、承りました。余儀の無いことだと思います。
 駿河の情報の中でも我々北条との関係について、お問い合わせの件にお答えします。近年駿河国とは確かに講和を結びましたが、駿河国に対する疑心は止むことがなく、迷惑な思いをしております。
 ともあれ清洲からの使いとお手紙いただいたことはありがたいことです。お礼をこれより申し入れたいと思います。委細は使者に述べさせます。恐々謹言。

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