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2013年6月27日 (木)

中漠:臨済編⑦元からの使者

 1279年(弘安二年)に南宋は滅亡しましたが、幸いなことに禅宗が弾圧されたということはありませんでした。むしろ禅宗を含む仏教を弾圧したのは、元朝よりも、その後に中国を支配した明朝だったりします。それはさておき、南宋を滅ぼした元帝国は都合二回、日本に向けて侵略軍を差し向けましたが、そのいずれも避けたことは元国にとって征服を考え直す良い機会になったようです。
 ということで、武力行使を控えて交渉に映ります。とはいってもこれは決して簡単なことではありませんでした。文永弘安の役の前に元は使節を送って日本の方針を探らせましたが、文永の役以前は返事もせずに使者を追い返し、以後は使者を悉く斬り捨て、二度と祖国の土を踏ませませんでした。

 それを野蛮ということは簡単です。ただ使者を生かして返せば、使者たちが見知ったことは全て元側に伝わったことでしょう。そして、日本を攻めるに充分な編成の軍勢を送り込むことが可能となります。仮に元帝国が不戦方針であったとしても、その事実は交渉にとって有利なカードとなることでしょう。使者を殺してはいけないというルールは陸続きの大陸内部での『グローバル(笑)』・スタンダードでしかないのです。結果として元帝国は有り余るほどの国力と協力的な近隣国とで大軍団を動員しておきながら、日本を攻めるに充分な編成にするには至りませんでした。

 弘安の役の翌年、1282年(弘安五年)にフビライは再び日本に向けて使者を送りますが、荒天に阻まれたり、船員の叛乱で使者の長が殺されたりして、お流れになります。本当に日本に向かうつもりだったのかはわかりません。この時の使者の一人として選ばれたのは補陀落山観音寺の住職であった愚渓という僧侶だったと言います。これはいかに強硬な日本でも、僧侶は殺さないだろうという思惑からですが、自分が行くわけではありません。愚渓にしてみれば、行けば殺される可能性は高く、言い訳が立つなら行かずに済ませたい所だったと思われます。

 1294年(永仁二年)になってフビライをついで元の皇帝となった成宗が再び日本に向けて使者を立てます。既に弘安の役から十年以上の歳月が経っていました。前に使者に立てようとした愚渓に話をもってゆきましたが、老齢の故断られ替わりに白羽の矢が立ったのが、一山一寧でした。一山一寧は愚渓の後継の観音寺住持でした。無論彼もまた、斬られ死にすることを怖れたとは思いますが、元皇帝は一山一寧に保険をかけました。その一つが大師号の授与です。一山一寧が大師号を得るにふさわしい威徳をもっていたかどうかはともかく、大師号の授与に政治的な配慮がありました。蘭渓道隆、兀庵普寧、無学祖元を初めとして日本の鎌倉幕府は次々と南宋の高僧を招聘していました。南宋の滅亡に伴って、中国からの禅僧の渡日は途絶えていましたが、禅宗に対する需要が消えたわけではありません。故に大師である一山一寧を日本に送っても、無碍な扱いにはならないと踏んだわけです。
 また、元皇帝はもう一つの手を打ちました。使者の一行に、渡日経験のある禅僧西澗子曇を加えたのです。彼は蘭渓道隆と同流の臨済僧で彼が来日したのは、兀庵普寧が帰国してしばらくして後のこと。当時の鎌倉には蘭渓道隆や、浄智寺を開山した同流の大休正念がいました。彼自身は侍者という立場で、南宋と日本との間で法語を伝え、南宋の僧侶を日本に送り込むスカウトのようなことをしておりました。蘭渓道隆の示寂と同時に中国に帰国しています。おそらくはその後継を求めてのことでしょう。その翌年に無学祖元の来日が実現しています。但し、その時にはもう南宋の命運は尽きていました。南宋の首都臨安は元の支配下にありましたが、その中で無学祖元を日本に送り込む使いの役割を果たしています。無学祖元の渡日と併行して元の使者が日本に向かいましたが、こちらは博多で斬られています。
 元皇帝が僧侶の使者であれば斬られることはないと判断したのは、このことがあったのかもしれません。そして、その使者として関与した西澗子曇をつければ、禅宗のコネクションが一山一寧を守るだろうと判断したものと思われます。
 その意図は当たり、一山一寧は元の国書を鎌倉幕府の北条貞時に手渡すことに成功します。しかし、皇帝が期待した回答は帰ってこず、使いの成立と言う観点からは上手くいかなかったものの、いくつかの紆余曲折を経て、一山一寧は日本に迎え入れられました。その交渉に西澗子曇の交友関係があったことは鎌倉幕府の当初の一山一寧と西澗子曇の扱いの差をみればわかります。但し、西澗子曇の二度目の来日時には、彼が送り込んだ無学祖元や、日本で知己を得た北条時宗や円璽も亡くなっておりました。無学祖元が来日してから既に十五年の歳月が経っています。南宋の滅亡後も中国に臨済宗は弾圧にあうどころか、大師号をもらうほどに国家に保護されていること。五山のうち天童・育王は焼かれたものの、僧たちは健在であることが確認されたのです。一山一寧と西澗子曇の人脈から禅僧たちが再び日本目指してくるようになりました。

 この一山一寧のが伝えた法流から夢窓疎石があらわれます。

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