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2013年6月22日 (土)

中漠:臨済編⑤五山の形成

 仏教発祥の地であるインドにおいては釈迦が利用したと伝えられる、天竺五精舎という教拠点寺院があったそうです。曰く、祇園精舎、竹林精舎、大林精舎、誓多精舎、那蘭陀寺の五つです。祇園精舎というのは日本においても、平家物語の語りだしに出て来ることで有名ですね。モンゴル帝国に攻め込まれて滅亡の危機に瀕していた南宋の皇帝、寧宗( 在位1194年~1224年)が、この故事に基づき、五つの官寺を選んで、国中の最高の寺格としました。径山(きんざん)寺・霊隠(りんにん)寺・天童景徳寺・浄慈(じんず)寺・育王広利寺これを称して五山と言ったのが始まりです。

 この内の径山寺には、兀庵普寧と無学祖元が師とした無準師範がおりました。また、日本から南宋に渡った心地覚心(法燈国師)はここで作られていた味噌の製法を日本に伝えてたそうです。その味噌のことを金山寺味噌もしくは、径山寺味噌というそうです。無学祖元は1286年(弘安九年)に示寂しておりますが、それに前後して本朝における五山を定めようとする計画があったと思われます。
 その動きの最古のものとして確認できるものが、1299年(正安元年)に鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智寺を「五山」とする命令です。
 浄智寺は北条時宗が弟の北条宗政の菩提を弔うために、1283年(弘安六年)にその子師時(当時八歳)を開基として建てさせた寺です。開山には兀庵普寧と大休正念という二人の渡来僧の名が連なってます。もっとも、兀庵普寧はとっくの昔に帰国して示寂していますし、大休正念は名義貸しをしただけです。実質的には大休正念の弟子である日本人僧の南州宏海が開山でした。大休正念も径山寺で修行した経験がある温州出身者でした。兀庵普寧の帰国後に来日していますので、無学祖元と同じく、兀庵普寧の人脈によるものと思われます。

 初期の五山とは、この浄智寺に蘭渓道隆・兀庵普寧・無学祖元らが関わった鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺及び京都の建仁寺を加えたものを指すと考えられます。
 五山の体制が整備され、国家は安泰に至るかとも思われましたが、実際の歴史は早々簡単ではありませんでした。元寇(文永・弘安の役)で鎌倉幕府も大きな傷を負い、それでも建て直しのために統制を強めようとしたのですが、それが逆に朝廷と非北条の御家人層の反発を招いて滅亡します。この辺を書き出すときりがないので割愛しますが、鎌倉幕府滅亡後に天下の権を握ったのは後醍醐天皇でした。
 彼は鎌倉幕府が選んだ五山を自ら選びなおしたのです。そもそも五山は中国の皇帝が官寺として選んだもので、陪臣の立場の北条一族が選ぶことは、朱子学を学んだ後醍醐天皇にとっても我慢のならないことだったと想像します。鎌倉幕府の五山は京都一つ、鎌倉四つの構成だったと推察されます。後醍醐天皇はこれを選びなおしてました。南禅寺、大徳寺、東福寺そして建仁寺。いずれも在京の寺です。もう一つあるはずですが、これは不明です。そればかりではなく後醍醐天皇は南禅寺、大徳寺を五山の筆頭という序列に位置づけました。

 京都東山にある東福寺は1236年(嘉禎二年)に摂政九条道家の発願に円爾が開山した寺でした。寺号の由来は東大寺の『東』に興福寺の『福』を併せたものです。寺号からもわかるように、東福寺の禅風は蘭渓道隆達、渡来僧がやったような純粋な中国風の禅ではなく、旧仏教の教えも混ぜた形のものだったそうです。これは帰国早々博多で天台宗徒のイヤガラセを受けたことの結果のようです。九条道家は鎌倉幕府の将軍職にある藤原頼経の父でもありました。それだけの権力を持ってしても、京都で新たな教義を起こそうとするなら、旧仏教とは何らかの妥協を図らねばならないほど協力だったわけです。このあたりの苦労は禅宗にかぎらず、浄土宗、真宗、法華宗と例外なく受けた洗礼のようなものなのですね。

 南禅寺は亀山天皇の開基によって立てられた日本最初の勅願の禅寺です。つまり、禅の教えが天皇にも認められたことを意味します。さらに意義深いことに、亀山天皇は大覚寺統系の天皇の初代にあたるわけです。後醍醐天皇が鎌倉幕府の選んだ五山を廃して、新五山の筆頭においた理由もうなずけます。もともとは亀山天皇の引退後の寓居だったのが、夜な夜な妖怪の出没に悩まされ、高僧を呼んだら怪異がやんだのでそのまま、その僧を開山としたという話が残ってるそうです。この僧の名を無関普門といい、円爾の弟子に当たる人物です。

 大徳寺は宗峰妙超が開山した寺です。元々彼は浦上氏の出身で赤松家の家臣でした。彼は、兀庵普寧・無学祖元に師事した高峰顕日に学び、蘭渓道隆に師事した建長寺の南浦紹明の印可をもらっております。彼は主家筋の赤松円心の帰依を受け、さらに花園上皇の信心をも獲得しました。1325年(正中二年)の大徳寺の建立はその発願によるものです。花園上皇は持明院統の天皇でしたが、傍系で、持明院統の皇位は甥にあたる光巌天皇にもってゆかれています。後醍醐天皇は幕府に叛旗を翻して敗北した結果、皇位を剝奪されて隠岐に流されていました。その間に天皇になっていたのが、光巌天皇でした。後醍醐天皇からしてみれば、光巌天皇の在位は認められるものではありませんでした。そこで、花園上皇発願の大徳寺を五山の一つに入れて、後伏見天皇系の皇統を否定しようと試みたわけですね。

 建仁寺は栄西が建てて、蘭渓道隆の入った歴史ある寺で、京にある五山格の寺として選に残したものでしょう。後醍醐天皇の五山選定はかくも政治色の強いものでした。もともとは亡国に瀕した南宋出身の禅僧達が日本にその衣鉢を残そうとしたものですが、格付け序列がからむとどうしても生臭いものになってしまうようです。後醍醐天皇の政権は磐石とは程遠いものでした。彼が組みなおそうとした五山の序列もまた、後醍醐天皇と大覚寺統の命運とともに揺れ動いてゆきます。

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