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2013年6月15日 (土)

中漠:臨済編②源頼朝の場合

  源頼朝は鎌倉を拠点として、京で勢力をふるっていた平氏を打倒、武家勢力の頂点に立ちました。
 1184年(元暦元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために、鎌倉大御堂ヶ谷に阿弥陀山長勝寿院を建立します。源頼朝はこの他に、鶴岡八幡宮、永福寺という寺社を生涯の内にこの鎌倉に建立しています。鶴岡八幡宮が源氏の氏神としての役割を、永福寺が奥州藤原氏や源義経など、頼朝が滅ぼした勢力の怨霊鎮撫のための寺院としての役割を担いましたが、この長勝寿院は頼朝の一家である鎌倉源氏の菩提寺として機能していました。この長勝寿院と永福寺は後に廃寺となり、鶴岡八幡宮のみが残ったのです。この菩提寺の宗派、そして鎌倉源氏が属する宗派が何だったのかを考察するのが本稿の趣旨です。

 この時点における仏教は後に興隆する鎌倉仏教(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗等)の宗派色、本寺統制色の強さと比べて宗派の区別はそれほど強くありません。なので、例えば平泉にある奥州藤原氏の菩提寺である中尊寺は天台宗寺院であるにもかかわらず、阿弥陀仏が本尊となっております。この長勝寿院も本尊は金色阿弥陀仏だったといい、阿弥陀信仰の影響を見ることが出来ます。むしろ、中尊寺やこの長勝寿院だけではなく、この当時阿弥陀信仰は一大ムーブメントの様相を呈しておりました。というのは1052年(永承七年)は末法思想における末法元年と見なされていました。釈迦の教えは既に正しい形では後世に残らず、新たな救いを与える存在として脚光を浴びたのが阿弥陀如来だったわけです。
 この阿弥陀信仰を研究して日本における浄土宗の開祖となった法然(1133年~1212年)は既に活動を開始していましたが、1184年時点ではその活動は京都に限られ、『浄土宗』としての寺院が鎌倉に建てられるのはもう少し後のことになります。

 源頼朝の宗旨ですが、ここで結論を先に述べてしまえば真言宗であったと思われます。源頼朝は父義朝のためにここの他に、義朝の終焉の地である尾張国知多郡野間に大御堂寺という寺を建てています。行基が開祖とか、白河天皇の勅願寺等の諸説が寺伝にありますが、それは伝説に過ぎないらしいです。寺号は長勝寿院が建立の地である大御堂ヶ谷。義朝の菩提のための寺であること、本尊が阿弥陀如来であることなど、長勝寿院との深い所縁を感じさせる寺院で、ここの宗旨が真言宗であるわけです。
 頼朝の一家は真言宗とのかかわりは深いです。源頼朝の弟である範頼は兄の頼朝の怒りを買い、また頼朝の子である頼家は御家人の権力闘争に敗れ、伊豆の修善寺と号する寺に幽閉後に殺害されます。修善寺は地名でもあります。この修善寺の当時の宗旨は真言宗。開基は空海となっております。この修善寺は後に蘭渓道隆によって臨済宗に改められ、その後寂れたところを伊勢宗瑞が曹洞宗の寺に改め中興したとの話が残っています。
 範頼と同じく頼朝の弟であった阿野全成は幼時に醍醐寺で出家しております。この醍醐寺も真言宗寺院です。頼家の庶弟である貞暁は高野山で修行をしております。それほどまでに鎌倉源氏と真言宗の所縁は深いものがありました。

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 鎌倉に禅宗が入ったのは頼朝の死後のことです。正治元年(1199年)源頼朝が亡くなりました。墓は大倉山山腹に建てられて持仏堂・法華堂と呼ばれました。鶴岡八幡宮においても朝廷から白旗大明神の神号を賜り、域内に神社を建てて祀られました。
 日本における臨済宗の開祖、栄西(1141年~1215年)が鎌倉入りしたのは、頼朝の死の前年でした。彼は頼朝が征夷大将軍になって鎌倉幕府を開く前年建久二年に二度目の南宋への留学から帰国し、禅の印可を引っさげて日本に臨済禅を広める活動を九州から始めました。この活動は当然天台宗の反発を招き、1194年(建久五年)に禅宗停止の勅令などが発せられました。同時代に独学で禅宗興隆を志した大日房能忍などはこれに挫折を余儀なくされております。能忍の禅宗は研究の便宜上日本達磨宗と呼ばれています。禅宗の特徴は相伝による嗣法にありましたが、能忍は禅の重要性を認識しながら自らは禅師を持てませんでした。(但し、弟子が入宋し能忍の研究の正しさを確認した上で、中国の禅師から弟子が印可をもらってます)このことが天台宗のみならず、同じ禅宗からも攻撃されることになりました。その攻撃者が栄西でした。彼は『興禅護国論』を表し、禅が既存宗教を脅かすものではないことを強調すると同時に、能忍の禅を形ばかりの真似事に過ぎないとこき下ろしました。併せて栄西は真言宗の印信も得ていたのです。もともとが比叡山で勉強をした経歴を持つ栄西は既存勢力との親和性を持ち合わせていたわけですね。この辺りは法然とその弟子の一部にも共通する部分です。栄西は他宗との協調を謳いながらの禅を興隆しようとの志を持って鎌倉に向かいました。
 そこで頼朝の未亡人北条政子の依頼により、頼朝の菩提を弔うための寿福寺を建てました。頼朝菩提の寺は他にも先ほど紹介した白旗神社や、安養院などがあります。過去の経緯、そしてその二年後に京に建てた建仁寺が禅・天台・真言の三宗兼学の宗旨だったことを考えると、栄西は真言僧の顔で鎌倉入りしたものと推量致します。栄西は鎌倉幕府の力を借りて京で猟官活動をし、東大寺大勧進職・権僧正になりました。さらに大師号を得ようとしたのを天台の慈円(愚管抄の著者)に増上慢の権化と罵られるにいたります。

 この寿福寺創建と同じ年に日本における曹洞宗の開祖である道元が生まれました。

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