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2013年6月25日 (火)

中漠:臨済編⑥鑁阿寺の置文

 後醍醐天皇の政権にトドメをさすのは、足利尊氏ですが、そこを語る前に足利家について触れておきたいことがあります。
 足利家の親戚筋に今川貞世(了俊)という人物がおりました。観応の擾乱に尊氏方で戦い始め、義詮、義満の三代に仕えました。有能な軍略家であり、九州探題を拝命するや、九州に蟠踞していた懐良親王を追い出して、懐良親王が勝手に行っていた明や高麗との外交工作をやめさせました。しかし、南北朝の長い争乱が終わりを告げた時、彼は九州探題を罷免され、遠江半国の守護に封ぜられました。遠江のもう一方の半国は弟の仲秋が務めております。隣国駿河国は甥泰範が守護を務め、彼の子孫が今川義元に繫がります。貞世と協力して九州に武威を示した大内義弘は叛乱を起こしますが、足利義満に討たれました。貞世や大内義弘のような有能な軍略家は不要な時代になっていたわけです。大内義弘の叛乱時、今川貞世は義弘から誘いが来ましたが、これを拒絶しています。しかし、関与を疑われて義満に誅殺されかけたりするわけですが、政界引退と引き替えに助命されます。遠江半国守護は仲秋が引き継ぎ、後に泰範が接収するに至ります。以後は今川一族や子孫のために『今川状』や『難太平記』などをしたため文筆活動にいそしみ、九十歳を超える天寿を全うしました。乱暴に言っちゃうと、彼の後半生は徳川初期における大久保彦左衛門に似ています。
 今川貞世は武功と引き替えにした自適な余生を文筆活動についやしますが、時代の移り変わりに対する憤懣が著作物に顕れています。そんな彼が嚙み付いたのが『太平記』でした、彼は太平記に今川氏の活躍がほとんど触れられていないことを非難し、『難太平記』を書きました。子孫に宛てるというスタイルでか書かれた今川氏の歴史と足利氏の歴史などが主要な内容になっています。
 その顰に倣ったのか、大久保彦左衛門も著書『三河物語』の中で、『信長記』には間違いが多いと難じております。また、『三河物語』は徳川創業伝説の中での大久保家の活躍を、子孫に宛てて書くというスタイルが踏襲されていました。

 その『難太平記』に興味深い記事があります。足利氏の菩提寺である鑁阿寺(ばんなじ)には、足利家の先祖である源義家が言い遺したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取るだろう」という内容が書かれた置文が存在し、今川貞世もそれを読んだというものです。

 源義家は平安時代に起こった前九年・後三年の役で安倍・清原氏を討つ活躍をしましたが、その武功は朝廷には長く評価されず、十年たってようやく昇殿を許された人物です。当時の武家の出世頭ではありましたが、それだけに周囲に疎まれた苦労人でもありました。源義家が興した家は長男の義宗が早世、次男の義親が叛乱を起こして討ち取られ、三男義忠は暗殺されます。四男の義国はそれまでに乱暴狼藉故に、下野国に下野。叔父の新羅三郎義光と争って破れたところを勘勅を蒙るという目にあって、結果として義家の家は没落することになりました。この四男義国の子孫が足利氏です。
 実際には義家――義親――為義――義朝――頼朝と続き、義家の四代後に武家の天下様が出現しているのですが、置文的にはこれはノーカウントらしい。義家の生まれ変わりが天下を獲るということがキモなんですね。出所はともかく、内容には疑問符がつく文書だと思います。

 足利家時はこの置文が言う、源義家七代の子孫にあたっておりました。時代は北条氏の全盛時代でした。元寇で辛うじて侵略軍を撃退した日本国でしたが、それは北条家の専制強化をさらに促すことになっております。有力な御家人たちはほとんど粛清され、足利家は北条家との姻戚関係で立場を維持することに汲々としていた時期だったのです。
 足利家は代々北条家から妻を娶り、時の執権から偏諱をもらっているのですが、家時は歴代足利家当主とは異例でした。第一に母が北条家出身ではありません。第二に偏諱です。足利尊氏は初名を足利高氏といい、時の執権、北条高時から上の一字『高』を受けています。しかし、家時は北条一門の通字である『時』をいただいていると同時に、七代前の義家から『家』の字を得ているのですね。しかも、家の字が時の上にきています。源氏が北条家の上位に立つことが念頭に置かれた命名であると読み取ることが出来ます。
 東北の人たちを貶める意図はありませんが、当時の認識として源義家は、東夷を討って武威を東北地方に示した武家の英雄であり、武家で昇殿を果たした先駆者でした。家時が元服したのはまさに国難の時期でした。時の執権北条時宗にとってもそういう英雄にあやかろうとする足利家の姿勢を心強いと思ったかもしれません。何より源義家は、置文の内容とは違って天下人とは程遠い生涯を送った人でしたから。
 足利家時は一門から、それまでの北条従属・補完勢力的なありかたから脱却することを期待されていたフシがあります。しかし、それを許すほど当時の北条家は甘くありませんでした。
 足利家時は北条家内の勢力争いに巻き込まれた挙げ句、謎の自害をして果てます。源義家も苦労人でしたが、足利家時には期待の上に苦労があり、なおかつ武威を示すチャンスも与えられていませんでした。期待に潰された典型例でしょう。足利家時の自害においては、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に自分の三代のうちに天下を取らせよと祈願し、願文を残したといいます。家時の孫にあたる足利尊氏や弟の足利直義は鑁阿寺でこれを実見したといいます。その予言の実現を果たした足利尊氏の弟、直義から今川貞世(了俊)はこの置文(おそらくは写し)を見せてもらったらしい。これが『難太平記』にある源義家の置文の顚末です。

 閑話休題。というか、ここまでが前振りです。ここで述べたかったのは足利家の宗旨についてです。この源義家の置文は足利一族の菩提寺にある鑁阿寺に保管されてあったといいます。宗旨は真言宗です。足利氏は源頼朝と同じ源氏の一族であることを考えると、当然の帰結でありましょう。空海を祖とするこの密教は加持祈禱を専らとし、人々に現世利益を提供することに努めておりました。
 足利氏は鎌倉幕府の御家人でしたから、鎌倉にも居館があり、そこに極楽寺という寺を建てています。時に1188年(文治四年)。開基は足利義兼、開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)といいますが、この時点で日本における臨済宗の開祖である栄西はまだ鎌倉にきておらず、退耕行勇も臨済宗に帰依すらしておりません。よって、この時点においては、極楽寺は鑁阿寺と同じく真言宗の寺として建てられました。足利一門は下野国足利に鑁阿寺、鎌倉に極楽寺という二つの菩提寺の檀家となりました。
 この後鎌倉の寺の多くは臨済宗に宗旨を変えてゆくわけですが、この極楽寺も例外ではありませんでした。そのきっかけになるいくつかの事件を述べてゆきます。
 栄西が鎌倉に下り、退耕行勇が臨済宗に帰依した時点で、極楽寺の宗旨が変わった可能性はあまり高くないと思われます。栄西自身が真言宗や旧仏教とは妥協的な態度でいたからです。開基である足利義兼の子、義氏の代で改宗したという話もありますが、詳細は不明です。改宗があったとしても三宗兼学のような形が取られたものと考えるのが一番しっくり来ます。
 極楽寺が禅宗に変わったきっかけの本命はやっぱり、蘭渓道隆でしょう。彼の弟子の月峰了然が1257年(正嘉元年)~1288年(正応元年)にこの寺の住持となって禅宗寺院に改まりました。足利貞氏の頃です。これに伴って貞氏は増築なども行ったようです。貞氏の法号が浄明寺殿貞山道観であることから、彼の在世中、もしくは死の直後に極楽寺は寺号を浄妙寺と改められたと考えられます。貞氏は同時期に鑁阿寺の大御堂の再建を行っているので、足利氏の宗旨が完全に禅宗に変わったわけではなく、真言宗と臨済宗にあわせて帰依するという形がとられたようです。
 浄妙寺はその後、足利家により鎌倉五山の一角を占めるにいたります。

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