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2013年7月30日 (火)

中漠:曹洞編⑦足利尾張守家

 人の運というものは、どう転ぶか判らないものです。これからお話しするのは、世が世なら幕府を開いていたかもしれない一族の話をしたいと思います。事の発端は、1203年(建仁三年)というと、二代将軍頼家の頃ですが、比企能員率いる比企一族が謀反を起こして滅ぼされてしまったところから始まります。比企能員は二代将軍頼家の外戚でした。それに北条義時が戦いを仕掛けて滅ぼしてしまったのです。
 北条義時の正妻も比企一族の出でしたが、その子、朝時は追討を免れます。しかし、三代目の将軍となった源実朝が比企氏の報復を恐れたのか、朝時をささいな口実で失脚させてしまいました。北条義時も朝時を廃嫡し、駿河で蟄居の目にあったのです。そして、側室腹の泰時が新たな嫡男に建てられました。母方の比企一族が滅ぼされていなければこんな目に遭うこともなかったでしょう。そうこうするうちに、実朝は暗殺されてしまいます。朝時はその後の和田討伐に武功を上げて鎌倉に復帰できましたが、次期執権の地位は泰時から取り戻すことはできませんでした。
 泰時は朝時に負い目を持っていたのか、厚遇をもってこれに応えました。朝時の家系は名越流と名乗ることになり、北条一門衆の中では宗家に次いで家格の高い一家として認められます。朝時は表面上は大人しくしておりました。有力御家人である足利泰氏に自分の娘を嫁がせていますが、家格相応と見てよいでしょう。ところが、晩年近くになって泰時も孫娘を足利泰氏に嫁がせるのですね。その頃名越氏との設けた子供はすくすくと育っており、将来を嘱望されていたことは間違いのないところだったのですが、ここは北条宗家から迎えた妻の方を正妻としました。北条一門内で目に見えぬ暗闘が始あったのでしょう。正妻との子は1240年(仁治元年)に誕生します。のちの足利頼氏です。

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 しかし、北条泰時と前後して名越朝時も亡くなり、彼らがその結果を見ることはありませんでした。それが炸裂するのはその直後です。名越朝時の死の翌年に将軍九条頼経が将軍職を降ろされます。新たに執権となった北条経時との関係悪化によるものです。執権は将軍よりも強いことがあからさまに示されてしまった為、朝時の息子、光時の代になると不満は表面化することになります。将軍を交代させた北条経時は二十三歳の若さで死去します。前将軍九条頼経は北条宗家に対する不満分子を糾合して蜂起を試みます。名越光時はこれに加わりました。もし、この企てが成功していたら、足利家は北条宗家からの正妻の子である頼氏ではなく、名越氏との子を正嫡にしたかもしれません。
 しかし、歴史の女神は北条宗家に微笑を与えます。執権職を継いだばかりの二十一歳の北条時頼が先手を打ちました。鎌倉に兵を動員して戒厳令を敷いたのです。身動きが取れなくなった名越光時は降伏せざるを得ませんでした。光時は流刑に処せられ、前将軍九条頼経は京に追放となりました。
 変わるはずだった運命は結局変わらず、足利泰氏と名越氏との間の子供は庶流としての人生を歩むことになります。その子供は元服して家氏と名乗ります。北条宗家も足利泰氏もこの家氏に対しては負い目を持っていました。家氏は別家を立てなければなりませんでしたが、足利の名乗りは許されていました。宗家と区別する為に足利尾張守家という言い方をします。名越流がそうだったように足利尾張守家は足利一門内の有力家となりました。名越氏の轍を踏むまいと、積極的に宗家を助けたわけです。宗家の方も遠慮をしたのか、足利頼氏は歴代足利家当主には珍しく、北条家から妻を取っていません。一方の家氏の方は北条時頼の姪を妻にしております。また、北条との間に生まれた嫡男に『宗家(むねいえ)』と名づけています。無論、「我が血筋こそ足利宗家(そうけ)、一門の惣領である」などという意味ではなく、『宗』の字は時の執権北条時宗の偏諱だったのでしょう。家氏は家時の後見人として尽くしたことも事実だったかと思われます。しかし、きっと頼氏・家時親子にとってはいたたまれなかったに違いありません。

 後年、家時の孫の足利尊氏が鎌倉幕府と後醍醐天皇の官軍を破って足利幕府を打ち立てます。足利尾張守家の高経は一門衆として宗家の日本制覇の為に力を尽くします。最終的に幕府執事職を勧められた時、彼はこう答えたといいます。『執事というのは高一族のような足利宗家の家人や上杉氏のような外戚が務めるべき職で、宗家と同格である当家が務めるべき役職ではない』。
 すったもんだの交渉の末、執事職には彼自身ではなく、四男の義将がつき、高経本人はその後見で幕府の実権を握るという形で落ち着きました。
 このプライドの高い足利尾張守家は後に家氏が領した土地の名前から、斯波家と呼ばれるようになります。
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2013年7月27日 (土)

中漠:曹洞編⑥足利将軍家 御一家衆

 少々、長々と余談をしたいと思います。一見、曹洞宗とは関係のない話ですが、道元と同時代に足利家で起こった出来事をニュースのように語りたいと思います。

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 足利家は鎌倉幕府において、有力御家人の地位を保ち続けていたのですが、その秘訣は常に北条一族との血縁関係を保ってきたことにありました。これは、足利義兼が伯父である新田義重を出し抜いて鎌倉幕府における御家人としての地位を固めたこととも関係します。足利義兼は北条時政の娘との間に義氏をもうけ、義氏は北条泰時の娘との間に、泰氏を、泰氏は北条時頼の妹(北条時氏の娘)との間に頼氏を、家時、貞氏も北条家からの正妻を娶っております。足利義氏から尊氏までの六代のうち、四人までが北条家出身の母親をもっています。例外は家時と尊氏ですが、この二人にしても北条家からの妻を娶らされています。
 家時の父、頼氏は病弱だったらしく、家時が六歳になるまでには、家督を譲って引退しておりました。もし、頼氏が壮健であれば間違いなく北条家から正妻が送り込まれて、その間に生まれた子供が足利宗家をつぐことになったものと思われます。
 尊氏にしても、本来なら北条家出身の正妻から生まれた兄、高義がいて、足利宗家の相続は出来ない立場だったのですが、この高義が早世したために、当主になれたに過ぎなかったのです。
 鎌倉時代において足利家の当主を誰に相続させるかを決める権利は、実質的に北条家が握っておりました。そのために、北条家出身の妻から生まれない子供は年長であっても相続が叶わないというケースが続出しました。畠山氏、吉良氏、斯波氏、渋川氏などです。
 足利宗家はこれらの一族を厚く遇しております。幕府を開いて後、畠山氏、斯波氏は足利義兼の庶兄義清の子孫である細川氏とともに三管領に封じております。

 義氏の子、長氏は三河国吉良に封じられ、彼の次男の国氏が今川氏を立てるわけですが、足利宗家はこれらの家を御一家として遇します。足利尊氏が室町幕府を開いた後には、足利家に後継者が絶えた後には吉良家より将軍を迎え、吉良家が絶えた後には後には今川家より将軍をと、江戸幕府における御三家のような待遇が約されていたというのです。実際には足利将軍家が断絶することはなく、空手形に終わっております。また、吉良家、今川家は足利幕府においては幕閣を形成する三管四職の家柄ですらなく、軍事力の提供をする地方領主に留まっております。

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 吉良氏は三河国吉良荘を領しておりました。足利泰氏の庶兄として長氏が分家した系統です。ところが、長氏の子、満氏の代において、霜月騒動に巻き込まれ、安達泰盛方として北条氏に討たれてしまいます。その前年に宗家の足利家時が自殺しておりますので、宗家の頭領の身代わりになって討たれたといえます。吉良家そのものは満氏の子の貞義を長氏の養子とすることで存続を認められています。その決着には霜月騒動で北条方についた今川国氏の尽力があったと思われますが、貞義としては内心忸怩たるものがあったでしょう。
 足利尊氏の挙兵当時の吉良家当主は貞義の子、満義でした。一軍を任されて信濃方面に派遣されておりましたが、北条残党の蜂起を許すに至るなど軍事的な失策があり頭角を現すにいたっておりません。青野ヶ原の合戦に参加して北畠顕家の西上を止めるなどの活躍をしておりますが、観応擾乱においては、結局敗北してしまった足利直義側についてしまいました。直義側についた一門衆は、吉良満義以外にも数多くおり、中には山名氏清のように尊氏や義詮に軍事的プレゼンスを見せ付けた上で帰順するなどして上手く立場を守った者もいたのですが、満義とその嫡男満貞はそのタイミングを失いました。
 吉良満貞が行き場を失っている間に、吉良家家臣達は満貞の弟である尊義を主人にたてるなどをします。二進も三進もゆかなくなった満貞は足利尊氏方に降伏し、後許されて遠江国引間荘を与えられます。そこはもともと、今川氏が根拠としていた荘園で、その時までには今川氏は遠江守護にまでなっておりました。

 吉良満氏の弟である国氏は三河国今川荘を治めておりましたが、安達泰盛を中心とする御家人間の抗争である霜月騒動の鎮圧に功があったとして、国氏の子の基氏が遠江国引間荘を与えられます。さらにその子の範国の代において足利尊氏が台頭。足利一門衆として従軍した功をもって、遠江国守護に、さらにその隣国の駿河国守護になります。この時点で今川氏は吉良氏を大きく引き離しているように見えますが、この時点の駿河国は南朝勢力が蟠踞する敵地であり、駿河国守護の座をもらったとはいえ、今川範国は自らの手で領地を切り開かなければなりませんでした。範国には範氏、貞世という子がいました。範氏は嫡男でしたが、軍事的才能は貞世の方によりありました。なので、範国は範氏に駿河国守護を、貞世に遠江国守護を譲った訳です。嫡男は対南朝戦の最前線へ、次男は後方に三河国(足利一族第二の本貫地)をもつ比較的安全な土地を領したわけですが、幕府は貞世に静謐な土地を与えるほど甘くはありません。

 貞世は幕府に重用され、山城守護(兼務)を経て九州探題になりました。九州方面軍司令官となって九州を支配する南朝方の懐良親王を駆逐せよというわけです。貞世の九州入りには幼い足利義満を補佐した管領細川頼之の推薦があったようです。貞世は九州に蟠踞していた懐良親王勢力を駆逐して、地元勢力である大内氏との協力関係のもと、一大勢力を築きました。その頃、京では明徳の乱が勃発。一時は日本六十六州のうち六分の一を領した山名一族が解体され、明徳の乱鎮定の功により今川仲秋(範国・貞世の弟)が尾張国守護につくことになりました。これによって九州と駿河、遠江、尾張と東海の要地を今川一族で占めるに至ります。余談ですが、これがきっかけで那古屋に今川氏が入るようになり、最後の那古屋城主今川氏豊が織田信秀に追い出されるまで那古屋今川氏が続くことになります。
 ところが、貞世を九州に送り込んだ管領細川頼之が失脚して、斯波義将が後任の管領になると、今川貞世は罷免されて遠江半国守護にまで落とされてしまいます。但し、この時点では残り半国は本家の甥、泰範が駿河と一緒に守護をしておりました。
 この遠江半国守護の座も、九州を治めていた頃の大内義弘が応永の乱を起こすにあたり、その関与を疑われて引退を余儀なくされます。そして応永の乱の六年後には、今川泰範が担当していた遠江国残り半分と一緒に、遠江国の守護職は斯波義重に与えられることになりました。貞世の子孫は以後、遠江国守護になることはありませんでした。今川家が遠江国守護の座を取り戻すのは、戦国期に入った今川氏親までまたなければなりません。その頃には貞世の末裔は瀬名氏を名乗り、駿河今川家の傘下に入ることになります。
 遥か後、徳川家康は織田信長から謀反の嫌疑を受けた妻と子を自らの手で討ち取ったという話が残っております。妻の名は築山殿。息子は信康です。この築山殿の本名は瀬名と伝えられており、いまお話した今川貞世の子孫であるそうです。

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2013年7月25日 (木)

中漠:曹洞編⑤寒巌義尹

 道元の弟子筋を語るに当たりもう一人重要人物がいます。法名を寒巌義尹といいます。順徳天皇の皇子であったといいますから、血筋は極めて尊い人物であります。始め、天台宗を修め、道元が興聖寺を開いた頃に弟子となったそうです。法号に『義』の文字があることから達磨宗系の後継者たちとの関係が想像できますが、不勉強にて良くわかりません。
 この寒巌義尹は道元の死後に独自の行動をとります。即ち、永平寺を去って南宋に渡ります。この時は一年で帰ってきましたが、1267年(文永四年)にもう一度南宋に向かい、返った時には永平寺には戻りませんでした。丁度この年、永平寺第二代住持孤雲懐奘が職を退いて徹通義介に住持の座を譲っております。徹通義介の代において、永平寺に争論が起こったことを考え合わせると、路線問題によるものなのかもしれません。寒巌義尹の禅風は道元のそれとは異なり、座禅のみを重んじたわけではなかったそうです。道元の死後に師の法の源流を探りに中国入りしたのは何のためでしょうか。敢えて想像を交えるなら、師とは違った形で曹洞宗の禅を展開させたかったのではないでしょうか。徹通義介にしても住持になる以前に南宋に渡って師が持ち帰った禅の教えとは何かを研究しています。永平寺には道元のみを通して学び、道元のみを信じる僧たちもいたものと思われます。その教えと彼らが中国で学んできた宗派の教えには異なる部分もあったのかもしれません。かと言って、徹通義介を助ける形で行動をとらなかったのは、永平寺で禅風を変えることの困難さを理解していたせいなのでありましょう。
 永平寺に戻らなかった寒巌義尹はまず福岡の興聖寺にはいりました。その後に拠点としたのが肥後国です。宇土という寺に如来寺を建てました。さらに大慈寺という寺を建てて九州における曹洞宗の拠点としました。ここは亀山法皇により勅願寺に指定されています。これは永平寺(後円融天皇)や総持寺(後醍醐天皇)が時の天皇から『曹洞宗第一道場』の勅額・綸旨をもらうよりも早い。寒巌義尹が皇族出身であることが影響しているのかもしれません。

 九州は中国との往来のルート上にあります。元軍も攻めてきましたし、足利尊氏も中央の戦いに破れた折にここで捲土重来を果たし、その後には懐良親王や足利直冬らが勢力を築いたりします。鎌倉末期から南北朝時代にかけて九州の地は政治的な要地でした。その理由の一つが南宋や元など、中国の王朝との交易の中継地なのですね。特に懐良親王は九州に独立王国を築こうとし、明国に使節を送って日本国王の称号を得ようと画策までしようとします。それを阻止したのが、足利義詮と細川頼之が切り札として送った今川貞世でした。
 彼が懐良親王を追って九州王となった時、寒巌義尹は既に亡くなっておりましたが、彼の法統は生きておりました。今川貞世がこの時に、寒巌派もしくは法皇派と呼ばれる寒巌義尹の法嗣に出会っていると考えております。おそらくはこの今川氏の動きと後述する吉良氏・足利尾張守家(斯波氏)の動きに関連して、東海地方における曹洞宗の勢力が伸びていったのではないか、と考えております。その詳細な内容は次稿以降で記します。

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2013年7月23日 (火)

中漠:曹洞編④三代争論

 中国に渡った栄西も能忍の弟子達も、おそらくは中国でやっている禅をすぐにそのままの形で日本に移植するのは難しいと直感したものと思います。栄西は顕密禅三教兼修を掲げて批判をかわしたために、能忍の達磨宗は批判の矢面に立たされた感がありました。それだけに、越前国に安住の地を得た達磨宗は細々とではありますが、禅を極められる環境を得られたのではなかったでしょうか。但し、達磨宗は開祖である能忍の印可は弟子が間接的に臨済宗大慧派のものをもらって来たものであり、正統性に若干の難がありました。
 そこで彼らは宋に渡って長翁如浄の印可を得ていた道元に学びなおすことにしたということでしょう。道元の越前行きは表向きには波多野義重が主体となってやったことになっていますが、懐鑒(えかん)と孤雲懐弉(こうんえじょう)の人脈連携があったものと思います。道元が持ち帰っていた教学は『臨済宗大慧派』のものではなく、『曹洞宗』のものでした。また、曹洞宗の教学の特長なのかも知れませんが、道元はあまり経典などを持ち帰っていませんでした。帰国後の道元は大著『正法眼蔵』の著述にとりかかりますが、道元の教えを文書化するにあたって、能忍の教団が集めた経典なども大いに参考とされた可能性はあります。

 そんな折、道元が越前国で禅宗の教団を形成していることを時頼は聞きつけ、彼を鎌倉に呼びつけました。その当時、時頼は二十代の若き指導者ではあったものの、その時までに摂家将軍を廃して宮家将軍を据え、執権の権力を高めると言う手腕を発揮していました。
 道元は栄西の弟子である明全の侍者として宋に渡り、修行中に亡くなった明全に代わって、中国で印可をもらっていました。よって、最新かつより詳しい禅についての知識を道元から得られるもの、と北条時頼は期待したものと思われます。しかし、実際に道元が師より得ていたものは栄西が日本に持ち帰った臨済宗とは別流の曹洞宗のものでした。栄西の臨済宗にしても、顕密に反発されないように薄め、日本の風土に合うようにアレンジされたものであり、道元が中国で得た臨済宗の知識をそのまま開陳したとしても、栄西の教えとはやや違ったものに映ったのではないかと思います。但し道元は自らの教えを曹洞宗であるとはその生涯において口にしていなかったそうです。道元が南宋から持ち帰ったものの内、最も重要なものは、禅における悟りの境地でした。それ以外に持ち帰った法具・仏典の類はそう多くはありませんでした。
 道元は禅において最も重要な悟りの境地についてを、覚者として北条時頼に示すことは出来たでしょう。しかし、それ以上の期待には充分に応えられなかったようです。北条時頼は道元のために鎌倉に寺地を与えようと申し出ましたが、それを固辞して越前国永平寺に帰りました。それは時頼の態度に原因があったのか、はたまた道元自身が権力者に近づきすぎることを避けようとしたも知れません。どちらにせよ、帰国した道元は越前国の雪中で、悟りを得て覚者となるためのハウ・ツーについての言語化に取り組みました。無論、道元は只管打座を唱えておりますし、正法眼蔵の『眼』とは『不立文字・教外別伝』を指しています。正法眼蔵を読むだけでは、正しい悟りには至ません。しかし、漢文ではなく仮名交じりの和文で書かれたことにより、教義は多くの日本人に受け入れられる端緒となったものと考えております。
 道元は正法眼蔵を百巻書くつもりでしたが、七十五巻目まで書いたところで示寂しました。享年五十四歳。死因は瘍だそうです。最終的な正法眼蔵は九十五巻まで達しております。その差、二十巻は彼の後継者が書き継いだものです。道元の後継者となったのは孤雲懐奘でした。現存している道元著述の七十五巻分のほぼ全てをこの孤雲懐奘が整理・筆写しております。これが意味するところは、七十五巻分の中に孤雲懐奘が師の考えとは異なる記述をしたとしても現代を生きる我々には判別する術を持たないということです。
 また、先に触れたとおり、道元生前の永平寺首座は懐鑒が務めておりました。しかし、懐鑒は師の生前に亡くなっており、後継とはなりませんでした。しかし、禅寺においては首座の立場は実質的には次期住持を意味しておりました。懐鑒・孤雲懐奘とも元達磨宗宗徒です。道元の著作、正法眼蔵の内容に大きくコミットしていた可能性はきわめて高いでしょう。
 もとより、道元本人は自らの教えを『曹洞宗』とは呼んでいません。長翁如浄から学んだ悟りの境地、その精神を自らの知見を通じて和文の教学として完成させようとしていたのです。孤雲懐奘は道元の侍者としてそれを書き留め続け、さらに足らざるを埋めようとした訳です。その材料は達磨宗としての知見だけではなく、弟子である徹通義介を南宋に派遣して曹洞宗を学ばせました。
 孤雲懐奘は自らの後継として徹通義介を選びました。彼が中国で学んだことが、教団の教学の深化・広宣に役立つことを期待してのことではなかったかと思います。
 徹通義介は永平寺の住持として自らが今まで学んだことを実践しようとしましたが、それは始祖である道元のやり方とはやや異なっていたと言います。
 例えば他宗でやっている焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経は初期の道元の教団では行っておらず、それを徹通義介が永平寺に持ち込んだとか、また密教要素を持ち込んだとか、さらには禁欲的な修行よりも世俗受けする行を持ち込んだ等という話があるそうです。
 ただ道元の権力に背を向け、孤高を持ってよしとするような求道的、禁欲的なやり方では、教えが広まらない。ひいては衆生救済にならないことを意識してのことだったのでしょう。その頃には蘭渓道隆をはじめとする渡来僧達が、北条家の庇護の下、純粋禅としての臨済宗を広めていたのですから。

 しかしながら徹通義介のやり方は教団内部から批判を浴びました。批判者は義演と宝慶寺の寂円らでした。ともに孤雲懐奘の弟子で、寂円は道元に付き従って日本に来た渡来僧でもありました。彼らは徹通義介に道元の遺風を守ることを求めました。これは三代争論と呼ばれています。結果として、徹通義介は永平寺を追われることになります。後は一度引退した孤雲懐奘が復帰して務め、その後を義演、寂円の弟子である義雲が継いで行きましたが、内部抗争は教勢を大いに削ぐことになり、以後の永平寺は一度衰微するに至ります。

 永平寺を追われた徹通義介は加賀国の冨樫家尚の保護を受けます。冨樫家尚は徹通義介を押野庄にあった真言宗の大乗寺に住まわせ、そこを禅宗寺としました。冨樫家尚の祖父は冨樫泰家と言い、彼には歌舞伎の勧進帳で逃亡生活を送る源義経に情けをかけ、関所を見て見ぬ振りして通したというエピソードが残っています。子孫は加賀国守護になりましたが、末裔の冨樫政家は加賀一向一揆に滅ぼされることになります。富樫家は鎌倉時代から戦国時代にかけて加賀国に大きな勢力を持っていた一族でありました。
 そして徹通義介の弟子の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登に進出して、総持寺を立てます。この段階に至って、道元が自らの宗派をそう呼ばなかった『曹洞宗』の看板を掲げるようになり、あわせて『王法即仏法』、政治的な法令も仏法と同じく尊重せよという方針を出しました。もとより、ライバルである臨済宗は政治に密着した布教活動をしています。道元はそれに背を向けていましたが、瑩山紹瑾は深山に籠もって道を求めるよりも、大州に教えを広めることを重視した訳です。結果として、瑩山門下の曹洞宗は全国に広まり、永平寺を遥かにしのぐ教勢を示すようになりました。
 後に総持寺は永平寺と並んで大本山とされ、瑩山紹瑾は道元と並んで崇められるようになる訳です。

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2013年7月20日 (土)

中漠:曹洞編③鎌倉布教の話

 中国に渡った栄西も能忍の弟子達も、おそらくは中国でやっている禅をすぐにそのままの形で日本に移植するのは難しいと直感したものと思います。栄西は顕密禅三教兼修をかかげて批判をかわしたために、能忍の達磨宗は批判の矢面に立たされた感がありました。それだけに、越前国に安住の地を得た達磨宗は細々とではありますが、禅を極められる環境を得られたのではなかったでしょうか。但し、達磨宗は開祖である能忍の印可は弟子が間接的に臨済宗大慧派のものをもらって来たものであり、正統性に若干の難がありました。
 そこで彼らは宋に渡って長翁如浄の印可を得ていた道元に学びなおすことにしたということでしょう。道元の越前行きは表向きには波多野義重が主体となってやったことになっていますが、懐鑒と孤雲懐弉の人脈連携があったものと思います。道元が持ち帰っていた教学は『臨済宗大慧派』のものではなく、『曹洞宗』のものでした。また、曹洞宗の教学の特長なのかも知れませんが、道元はあまり経典などを持ち帰っていませんでした。帰国後の道元は大著『正法眼蔵』の著述にとりかかりますが、道元の教えを文書化するにあたって、能忍の教団が集めた経典なども大いに参考とされた可能性はあります。

 そんな折、道元が越前国で禅宗の教団を形成していることを時頼は聞きつけ、彼を鎌倉に呼びつけました。その当時、時頼は二十代の若き指導者ではあったものの、その時までに摂家将軍を廃して宮家将軍を据え、執権の権力を高めると言う手腕を発揮していました。
 道元は栄西の弟子である明全の侍者として宋に渡り、修行中に亡くなった明全に代わって、中国で印可をもらっていました。よって、最新かつより詳しい禅についての知識を道元から得られるもの、と北条時頼は期待したものと思われます。しかし、実際に道元が師より得ていたものは栄西が日本に持ち帰った臨済宗とは別流の曹洞宗のものでした。栄西の臨済宗にしても、顕密に反発されないように薄め、日本の風土に合うようにアレンジされたものであり、道元が中国で得た臨済宗の知識をそのまま開陳したとしても、栄西の教えとはやや違ったものに映ったのではないかと思います。但し道元は自らの教えを曹洞宗であるとはその生涯において口にしていなかったそうです。道元が南宋から持ち帰ったものの内、最も重要なものは、禅における悟りの境地でした。それ以外に持ち帰った法具・仏典の類はそう多くはありませんでした。
 道元は禅において最も重要な悟りの境地についてを、覚者として北条時頼に示すことは出来たでしょう。しかし、それ以上の期待には充分に応えられなかったようです。北条時頼は道元のために鎌倉に寺地を与えようと申し出ましたが、それを固辞して越前国永平寺に帰りました。それは時頼の態度に原因があったのか、はたまた道元自身が権力者に近づきすぎることを避けようとしたも知れません。どちらにせよ、帰国した道元は越前国の雪中で、悟りを得て覚者となるためのハウ・ツーについての言語化に取り組みました。無論、道元は只管打座を唱えておりますし、正法眼蔵の『眼』とは『不立文字・教外別伝』を指しています。正法眼蔵を読むだけでは、正しい悟りには至れません。しかし、漢文ではなく仮名交じりの和文で書かれたことにより、教義は多くの日本人に受け入れられる端緒となったものと考えております。
 一方の時頼は、道元から悟りの境地の存在を伝えられ、また栄西の教学をより純化した『禅宗』の存在を知りました。権力者は望めば何でも叶うのです。時頼の望みに応じて南宋から禅宗の高僧が招かれました。蘭渓道隆です。彼は祖国の禅宗を日本に移植することに腐心し、日本における臨済宗、いや仏教界全体に革命を起こしたのです。もし、道元が北条時頼に受け入れられ、また道元も時頼の元にいることを良しとしたならば、蘭渓道隆の来日は無く、今日の禅文化は大きく様相を異にしていかもしれません。

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2013年7月18日 (木)

中漠:曹洞編②日本達磨宗

 禅宗の教えは基本的に師のもとで修行して、修行のレベルが一定以上に達したと、師が判断した時に、印可を授けます。禅僧は印可を受けて初めて一人前と認められる訳です。それには理由があって、禅において悟りの境地は書物を読んだだけでは至れないという発想があったのです。これを『不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)』と言います。おそらくはロジックだけでは説明できない感覚的なものがあるのでしょう。これを正しく修行した者が指導しないと、誤った方向に堕落してゆくと考えられていました。そういった誤った境地を野狐禅(やこぜん)と言うそうです。

 故に禅は独学で学べるものではないのですが、中国から流入する書物を研究して禅とはこのようなものではなかったか、独学で喝破した者がありました。名を大日坊能忍と言います。もとは延暦寺の学僧でしたが、摂津国水田に三宝寺を建てそこで禅宗の研究をした訳です。ただ、今言った観点から能忍の研究は最初から矛盾を孕んでいました。『不立文字・教外別伝』は達磨大師の言葉として言われているものでしたから、禅宗全般に共通するものだったようです。禅の師匠を持たない能忍が禅の教義を理解しているはずがない、という批判に晒されるのは止むを得ざるところでした。
 その状況を打開するために、能忍は練中、勝弁の二人の弟子を南宋に派遣し、自分の教学が正しいかどうかを育王の拙庵徳光に問い合わせたのです。1189年(文治五年)拙庵徳光は能忍への印可の証しとして達磨像、自讃頂相などを能忍の弟子たちに託したのです。拙庵徳光は臨済宗大慧派に属するので、能忍もその法脈にあると言ってよいのですが、日本においては彼の教学は達磨宗(日本達磨宗)と呼ばれております。
 栄西が南宋で虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受けたのは、この二年後の1191年(建久二年)のことですので、能忍の教学は日本における禅宗の先駆であると言ってよいでしょう。ただし、能忍の嗣法の経緯に若干の問題があるところから、栄西も『興禅護国論』の中で能忍を「禅宗を妄称し祖語を曲解して破戒怠行にはしり、その坐禅は形ばかりである」と批判しております。栄西にしても、日本に禅を広めるに当たり、自分の教学の正統性を強調しておかなければならないという事情があったみたいです。

 この段階における興禅運動は能忍と栄西が担った訳ですが、新興の教学に対して比叡山延暦寺が攻撃を加えるのはお約束のようなものでした。1194年(建久五年)延暦寺は朝廷に働きかけて禅宗停止の綸旨を得ます。栄西はこの時の批判を上手くかわし、真言宗の印信を受けるなどして、顕密禅三教兼修を掲げながら、朝廷・幕府に接触して後の臨済宗興隆の種をまきましたが、能忍は攻撃の矢面に立ってしまい、大和国多武峰の妙楽寺に逃れたところで示寂しました。近年の研究においては事故死・病死の可能性が高いとされていますが、それ以前は平家の落ち武者である平景清による暗殺と伝えられておりました。
 妙楽寺の教学は能忍の弟子である仏地覚晏が継ぎますが、妙楽寺は1228年(安貞二年)に興福寺衆徒の焼き討ちにより多武峰を追われます。仏地覚晏の弟子である懐鑒は越前国一乗谷の波著寺に難を逃れました。
 丁度その頃、道元が曹洞宗の長翁如浄の教学を持ち帰っておりました。それに興味を示したのが懐鑒の弟弟子である孤雲懐弉でした。彼は当時建仁寺に滞在していた道元と宗論を交わしたそうです。論争は三日に及び、道元の教学に感銘を受けた孤雲懐弉は道元の弟子となることを決めます。
 彼が実際に入門したのは、道元が深草に興聖寺を建てた年の翌年1234年(文暦元年)です。この興聖寺も延暦寺の圧迫を受け、1244年(寛元二年)道元は波多野義重の斡旋で越前国志比庄の大佛寺(後の永平寺)に移ります。このタイミングで波著寺の懐鑒が道元に帰依し、波著寺の達磨宗教団は道元の教団に合流します。
 永平寺において、懐鑒は首座の地位を得、道元の死後永平寺を継いだのは、孤雲懐弉でした。そして永平寺三代目の住持となったのは懐鑒の達磨宗時代の弟子である義介でありますので、越前国における永平寺の活動は一乗谷の波著寺から転宗した人脈によって担われたと言っても過言ではないでしょう。道元は自らの教学を禅とも、曹洞宗とも呼ばなかったそうです。教団の宗旨をどうしても呼ばなければならない時には仏心宗と呼んでいました。道元の帰国後の活動が元達磨宗の僧たちの活動に多くを依存していたことによるのでしょう。

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2013年7月16日 (火)

中漠:曹洞編①曹洞宗とは?

 前編にて五山の形が出来上がるまでの臨済宗を素描いたしましたが、ここで一旦話を締めて別の論題に入ってゆきたいと思います。日本の禅宗は大きく分けて三種類あります。臨済宗と曹洞宗と黄檗宗です。このうちの曹洞宗をとりあげつつ、時代も鎌倉時代に再び戻って論じてみたいと思います。

 それと並行して足利一門衆にどういう家があるのか、どういう特徴を持っているのかを簡単にふれてみます。それは、曹洞宗が盛んだった北陸、東海地域を領した足利尾張守家(斯波氏)と今川氏の位置づけを明らかにするためです。足利尾張守家(斯波氏)自身は臨済宗を熱心に保護しました。今川氏でも義元あたりになると、臨済宗の林下である妙心寺で学んでいますが、貞世(了俊)や、範国の代あたりでは曹洞宗に帰依していたフシがあります。
 本編においては鎌倉時代に北陸の永平寺・総持寺に拠点を築いた曹洞宗教団とそこを領した足利尾張守家(斯波氏)が尾張国を領したことをきっかけに曹洞宗勢力が尾張・美濃エリアに進出したこと、九州王だった今川貞世が応永の乱に連座して失意の帰国をした後に東海地方に曹洞宗が進出したことを順を追ってみてみたいと思います。

 禅宗は達磨大師がインドから南北朝時代の中国にわたったところから始まるとされています。実際に教派の形を取り出したのは唐代に入ってからです。それが北宋の代になって五家七宗と呼ばれる分派を生むようになりました。その中に臨済宗と曹洞宗が含まれて居ます。
 曹洞宗の名は晩唐の洞山良价を祖とし、その数代後の弟子である曹山本寂の頃に確立した所から、それぞれの名前の一字をとってつけられたものです。曹洞宗の禅風には座禅を最も重視する特徴がありました。公案などを用いず、座禅を専らとするそのありかたは「黙照禅」と呼ばれて他宗から見下されてすらいたのですが、それこそが曹洞宗の特長を成すものでした。
 南宋になって曹洞宗の真歇清了門下の長翁如浄が、五山の一つである天童の景徳寺の住持となりました。日本の五山はすべて臨済宗の寺ですが、中国の五山は曹洞宗の流れを汲む者も住持になれたようです。そこで修行し、印可を得たのが日本人留学僧がおりました。日本における曹洞宗の祖となった道元です。

 道元は内大臣土御門通親の子孫という貴族の家柄の出で、園城寺(三井寺)で天台教学を修めたあと、鎌倉に下って建仁寺で栄西の弟子明全に学んだ後、1223年(貞応二年)に師明全とともに宋に渡ります。来日して当初、天童の景徳寺の住持は無際了派という臨済宗の僧でしたが、無際了派は栄西の師でもありました。道元はこの師の考え方にどうも違和感を持っていたようです。あるいは無際了派の指示があったのかもしれませんが、一時この天童の景徳寺を離れて他の師の教えを求めて諸山行脚をすることになります。あるいは、無際了派の学は明全が学ぶことを担当し、明全の弟子道元は諸山を巡ってより見聞を広めて留学の内容を充実させようと考えていたのかもしれません。
 その後、この中国での師匠、無際了派と日本の師である明全が相次いで亡くなり、道元は景徳寺に戻ります。明全・道元の師弟は栄西の法系を継ぐ者として日本に禅の教学を持ち帰るという目的があったものと思われます。ところが、無際了派が景徳寺の後継住持として選んだのが、曹洞宗の長翁如浄だった訳です。臨済宗の教学は景徳寺では学べなくなってしまったのですが、道元にとっては、長翁如浄こそが己が師とすべき人物であると感銘を受けてしまったのですね。縁というものの重要性を感じさせられます。
 道元はこの長翁如浄から印可を受け、日本の師である明全の遺骨を持って帰国します。

 留学で道元が得たものはどうも体得したものが主で、経典などはあまり持ち帰っていなかったようです。ただし、持ち帰ったものを咀嚼して日本語で表現することを試みました。大著『正法眼蔵』の書き始めです。以後、七十五巻目で絶筆するまで道元は自ら体得した禅の教えを文字で表現しようと試みました。
 彼は京の建仁寺にしばらく滞在した後、1233年(天福元年)深草に興聖寺を建てそこの住持となります。そこで弟子を教化するのですが、道元は自らの教えを『曹洞宗』とは呼んでいなかったようです。
 栄西は顕密兼修を掲げて旧仏教との共存をはかりましたが、道元はそれができる程器用な人物ではなかったようです。興聖寺は比叡山延暦寺の圧迫を受けるようになりました。それを見ていたのが波多野義重という越前国比志庄の地頭でした。波多野氏は元々藤原秀郷流の関東武士でしたが、承久の変に参戦して越前に領地をもらって六波羅探題の官僚として京に在住していました。彼の子孫の一流は応仁の乱時に丹波国八上を領する戦国大名となり、細川高国や織田信長と戦うことになるのですが、それはまた別の話。
 1244年(寛元二年)波多野義重は道元を越前に招き、大佛寺という寺を開山します。この大佛寺は二年後に寺号が改めます。これが後に日本における曹洞宗の大本山となる永平寺です。越前波多野氏は道元の外護者になるわけです。

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2013年7月11日 (木)

中漠:臨済編⑬考察

 臨済宗の歴史を追ってきましたが、当初私が考えていた以上に、武家権力に密着している印象でした。栄西の頃はそうでもなかったのですが、蘭渓道隆が来日し、宋が滅亡して以後はそれが加速している印象です。この渡日僧たちは、禅と同時に日本にもたらしたものがあります。それは朱子学でした。一山一寧は禅と同時に朱子学の素養もあり、日本に伝えたとされます。彼は来日後一度、修善寺に隔離された後、許されて鎌倉の建長寺の住持になり、その後、後宇多上皇の招きで入洛し、南禅寺の住持となりました。その南禅寺が後に後醍醐天皇によって、五山の一つに序せられるわけです。
 朱子学の考え方から見て、日本の権力構造はかなり歪つなものに見えたのではないかと思います。朱子学は儒教から派生した学問で、人のあり方、社会のあり方を規定したものです。その前提になったものは皇帝と家臣、万民からなる中国の社会制度でした。中国の社会制度から見ると、日本のそれは特異です。京に天皇がいて、鎌倉に幕府があって、その実権は幕府が握っている。にもかかわらず、幕府は皇帝になろうとはしないわけですよね。しかも、その幕府の実権も幕府の長である征夷大将軍ではなく、将軍家の家宰に過ぎない執権が握っており、その執権も執権家の惣領である得宗には頭が上がりません。にもかかわらず、この得宗には皇帝になろうという意思がないのです。
 最初に臨済宗を日本にもたらした栄西は極めて日本人的な発想をもって、顕密兼修で禅宗との共存を図りました。興禅の志を持ちつつ、他宗をも修め真言僧の顔で、将軍家に近づきました。そして、その夫人である北条政子の庇護を得て、真言宗寺の中に禅宗の萌芽を植えつけたわけです。
 その後に来日した蘭渓道隆にとって、そんな日本の都合などは知ったことではありませんでした。彼には禅宗・禅寺はかくあるべしという明確なヴィジョンがあり、それにそぐわないものは次々と廃してゆきました。それが実現可能になったのは北条時頼という実質的な独裁者の権力が背景があったわけです。彼にとって『正しき禅』を知らない日本はフロンティアとして開拓されるべきマニフェスト・ディスティニィの地であったわけです。彼ら渡来僧は事あるごとに故国に帰りたがったとされていますが、実質妥協を引き出すための戦術であったと考えたほうがしっくり来ます。興禅運動は御家人である足利家などにも及び、かくして、鎌倉幕府の宗教地図は中国風禅宗に塗りつぶされたわけです。

 ここで一つの仮定をおいて、歴史を捉えてみます。宗教を変えるだけの力を持つ、臨済宗グループは、政治をも変えよう、中国風にしようと考えなかったか、という問い掛けです。

 もちろん、実質的に元軍を撃退するほどの実力を持ちながら、得宗は決して皇帝になろうとはしませんでした。元寇以降、得宗および北条一族は既存御家人層を圧してその勢力基盤を伸ばしました。しかし、鎌倉に新たに朝廷を作るなどとは露ほどにも考えていなかった。寧ろ、対立する二つの皇統を調停してその存続をはかることすらしていました。
 そこで次に考えられたことは天皇を皇帝にすることです。無論、発端は後醍醐天皇がそれを望んだことに始まるでしょう。しかし、その下地を整えたのは京の臨済宗の禅寺です。そのネットワークの末端に足利高氏と赤松円心がいたわけですね。しかし、後醍醐天皇の短兵急な革命運動は三年も持たずに瓦解します。宗峰妙超はこの瓦解の時期に示寂し、彼の大徳寺は五山からはずされるに至ります。
 日本の天皇を中国の皇帝のような絶対権力者にするということはどだい大きな無理があるということでしょう。一山一寧から禅を学んだ経験のある夢窓疎石は交易の利をもって足利兄弟に接近し、彼らの帰依を得ます。日本人である夢窓疎石は日本の最大の権力者はナンバーワンにはならないことを知っていました。南朝との妥協を探りつつ、天竜寺を建てたりしましたが、結局混迷を糺すには至りません。
 その後足利兄弟が喧嘩をし、ゴタゴタを繰り返すわけですが、この間、五山は室町幕府の官僚を輩出する機関となります。幕府将軍を支え、ブレインとなってその戦略面を支えたわけですね。その長となったのは足利義満でした。彼は勢力の大きくなりすぎた御家人たちを次々に粛清し、南朝も降伏させ、北朝系天皇をも圧迫させたわけです。室町幕府の官僚群は新たな皇帝を作ろうとしておりました。その試みは結局のところ、足利義満の突然の死によって頓挫するに至ります。その試みは足利義教にも引き継がれ、御家人統制のための諸施策を打ち出し、それに伴って室町幕府の官僚機構は後の江戸幕府のそれを凌駕するほどの完成度を持つに至るわけです。それを実現する下支えとして、五山の存在が大きかったと考えます。

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2013年7月 9日 (火)

中漠:臨済編⑫五山の完成

 天竜寺船が中国の寧波に向かう前年、足利尊氏・直義兄弟は五山の制度を改めて制定します。既に、鎌倉幕府が鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺、京の建仁寺、他一寺を指定し、後醍醐天皇は京の南禅寺、大徳寺、東福寺、建仁寺、他一寺を五山としました。
 これから建てる天竜寺を五山に入れることが大前提です。北朝の光巌上皇は1341年(暦応四年)に院宣を出して尊氏に五山の決定を一任します。これに応えて同年に尊氏は第一位に南禅寺&建長寺、第二位に円覚寺&天竜寺、第三位に寿福寺(鎌倉)、第四位に建仁寺(京都)、第五位に東福寺(京都)、准五山(次席)に浄智寺(鎌倉)の八つの寺院を選定します。
 既にご紹介している寺社ばかりですが、鎌倉幕府の五山と後醍醐天皇の新五山に、天竜寺が新たに加わったことと、後醍醐天皇が五山に加えた大徳寺が外されていました。これは浦上氏出身の宗峰妙超が後醍醐天皇に肩入れしたことや、この寺がそもそも花園上皇の開基によるものです。同じ持明院統の天皇といっても花園上皇は当時の今上帝である光明天皇からみれば傍系の天皇であったことも作用したかと思われます。
 これ以後、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立しました。この時あわせて十刹が選ばれております。五山以外にも、五山候補の有力寺院がここに入っているということなのでしょう。鎌倉幕府からこれが選ばれていたとされますが、詳しいことは不明です。以下の寺院が選ばれていたといいます。

 浄妙寺(鎌)、禅興寺(鎌)、聖福寺(鎌)、万寿寺(京)、東勝寺(鎌)、万寿寺(鎌)、長楽寺(鎌)、真如寺(鎌)、安国寺、万寿寺(豊後)

 浄妙寺は足利氏の鎌倉における臨済宗菩提寺です。その他は鎌倉の幇助受け縁の寺や夢窓疎石が設置した安国寺なども含まれています。大徳寺はこの五山予備軍である十刹の選にも漏れてしまいました。安国寺は夢窓疎石が全国に建てた利生搭(りしょうとう)を祀る施設なんですが、これが特定の寺院を指すものかは不勉強なのでわかっていません。

 それから、歴代の将軍や管領の意見も入って入れ替えが行われ、1386年(至徳三年)最終的に五山十刹は下記の通りとなります。

京都五山:南禅寺(別格)、天竜寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、相国寺
鎌倉五山:建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺

京都十刹:等持寺、臨川寺、真如寺、安国寺(後に廃寺)、宝幢寺
     普門寺(→後に廃寺)、広覚寺(→後に廃寺)、妙光寺、大徳寺、竜翔寺
関東十刹:禅興寺、瑞泉寺、東勝寺(→後に廃寺)、万寿寺(鎌倉→後に廃寺) 、大慶寺(→後に廃寺)
     興聖寺、東漸寺、善福寺(→後に廃寺)、法泉寺(→後に廃寺)、長楽寺(→後に天台宗改宗)

 さらにその下に諸山というものがあり、特に幕府が指定したものがあたりました。これには数の制限が加わらなかったため、調べが追いついておりません。諸山は北条高時の頃からあったといいます。五山・十刹・諸山は幕府が定めた官寺であり、これらを総称して禅林と呼ばれました。

 五山僧は中国元・明とのチャンネルをもっておりました。そもそも元寇の折に元から使者としてつかわされた一山一寧大師が紆余曲折を経て、戦後もそのまま日本に残って南禅寺の住持をつとめております。その人脈の系譜を室町幕府は最大限に利用したものと思われます。
 足利尊氏のために天竜寺船を元に派遣することを企画した夢窓疎石(むそうそせき・南禅寺)を筆頭に、義堂周信(ぎどう しゅうしん・建仁寺)は三代義満の家庭教師を務め、絶海中津(ぜっかい ちゅうしん・相国寺等)、春屋妙葩(しゅんのくみょうは・臨川寺)は義満の代における外交顧問として働きました。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう・相国寺)は八代義政の外交僧として活躍しています。季瓊真蘂(きけいしんずい・鹿苑院)は幕閣人事に介入して失脚し、それが応仁・文明の乱のきっかけとなっております。

 大徳寺は五山からは漏れたものの、最終的に京都十刹の第九位に選ばれております。但し、当の寺側はそれを潔しとせず、宗峰妙超の一風変わった禅を前面に押し出し、自らを禅林の下として林下と称しました。この林下には、宗峰妙超の弟子である関山慧玄が宗峰妙超の死後も花園上皇を教え導くために建てた妙心寺が含まれております。ちなみにこの妙心寺は妙心寺派の本山として現代では臨済宗最大の勢力を有しております。

 このように、臨済宗は武士階級や公家の保護の下に文字通り大勢力を築いていたわけです。それはまさしく、一個の世界と呼んで良いものだったと私は思います。

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2013年7月 6日 (土)

中漠:臨済編⑪寺社造営料唐船

 後醍醐天皇が新五山の上位に選んだ寺が大徳寺の他にもう一つありました。祖父に当たる亀山上皇が開基した南禅寺です。後醍醐天皇が九州から東上する足利尊氏に敗北した時、この南禅寺の住持をしていたのは夢窓疎石でした。大徳寺も後醍醐天皇が厚く保護した寺院でありますが、どうやら、尊氏東上にあたって、後醍醐方に味方したために足利尊氏からは嫌われたようです。それに対して、南禅寺の夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟の深い帰依を得ることに成功します。
 夢窓疎石は一山一寧に学んだ後、高峰顕日から印可をうけ、全国に布教活動をしたところを後醍醐天皇に認められて南禅寺の住持となりました。
 一方、先だって書いたとおり、足利氏の菩提寺は下野国にある真言宗の鑁阿寺と鎌倉にある臨済宗の浄妙寺の二つでした。足利尊氏は夢窓疎石に傾倒することで政策に影響が出てきました。南禅寺は後醍醐天皇の庇護の篤かった寺院です。1339年(延元四年)に後醍醐天皇が吉野で憤死した時、夢窓疎石は尊氏に対して後醍醐天皇の菩提を弔うことを提案するのです。尊氏にとって後醍醐天皇は敵でした。少なくとも後醍醐天皇は足利尊氏を恨んで死んだと思っていてまずは間違いのないところです。敵の菩提を弔うというのは、通常の感覚ではありえないことだと思います。
 しかし、大勢はすでに足利尊氏の勝利で決している中、敢えて敵を祀ることで分裂した朝廷の対立関係が修復されるきっかけとなることを策し、パックス・アシカガーナを完成させようとしたものと思われます。但し、戦乱の中で足利尊氏には財源がありませんでした。そこで活用したのが禅宗の人脈です。
 後醍醐天皇の菩提を弔うために天竜寺を建てることになりましたが、その財源を得るために、夢窓礎石は元に向けて使節を送ることを足利尊氏に提言したりもしています。世に言う天竜寺船です。

 資金調達のために元に船を送るという発想は、これに始まったことではなく、一山一寧の来日後、幾度かの船の往来が鎌倉幕府もしくはそれに近い筋から出されておりました。これを寺社造営料唐船と言います。

1306年(嘉元四年)称名寺造営料唐船
1315年(正和四年)極楽寺造営料唐船
1323年(元亨三年)東福寺造営料唐船?(新安沈船)
1325年(正中二年)勝長寿院・建長寺造営料唐船
1329年(元徳元年)関東大仏造営料唐船
1332年(元弘二年)住吉神社造営料唐船

 中でも1323年(元享三年)に派遣されたと見られる東福寺造営料唐船は、1976年に韓国の新安という地で見つかった沈没船の中にあった遺物からその存在が発見されたという劇的な経緯を持つ者です。沈没船の中には大量の積み荷、木簡が含まれており、木簡には「綱司」「東福寺」「筥崎」などと記されたものが多数含まれておりました。「綱司」とは交易船の船長のことで、この木簡が「東福寺」と書かれたもの以外の荷についているということは、この船が造営料以外の交易もやっていたことになります。それに幕府やそれに近い筋(もちろん臨済宗グループを含む)に金が落ちていたことでしょう。「筥崎」は博多あたりの地名でこの船が博多を目指していたことがわかります。これらの枠組みの中で、日本から入元していた雪村友梅や、元の僧である明極楚俊・竺仙梵僊ら禅僧が「商船で」日本へ渡来していたと言います。
 但し、元に行ったと言っても、朝貢をして多大な贈り物をもらったわけではないようです。上記の寺社造営料唐船は鎌倉幕府もしくはそれに近い筋の関与があったと考えられますが、中国側にとってみれば私的な貿易船に過ぎず、監視・規制の対象にあったものでした。

 足利直義は夢窓疎石と相談の上、翌年秋に造営料唐船の派遣を企画します。博多商人の至本が綱司(船長)に指名されました。至本は貿易の成否に関わらず、帰国時に五千貫文を納めることを約した上で、1342年(康永元年)八月に元へ渡航します。この船は「造天龍寺宋船」の名で呼ばれていることでもわかるように、日本から派遣する船の行き先はもはや存在しない「宋」であり、元の朝廷はアウト・オブ・眼中でした。

 天龍寺船には性海霊見・愚中周及など約六十名の禅僧が乗船したのですが、この頃元側でも倭寇の被害が始まっており、慶元(明州、のちの寧波)に入港する日本船を海賊船と見なして、港の出入を厳しく制限しておりました。その結果、天竜寺船の上院で、入国を許されたのは六十命中愚中周及ら十一名のみでした。この唐船の利益を元手に天龍寺の建立が行われ、1343年(康永二年)に竣工しております。

 重要なことは、末期鎌倉幕府が財源の一つとして開拓した寺社造営料唐船が夢窓疎石を通じて足利尊氏・直義兄弟の企画するものとなったということです。この当時日本は自国通貨を流通させる力はなく、「宋銭」を輸入して使っておりました。ですので、交易ルートを足利幕府が掌握するということは成立して間もない日本における貨幣経済の実を握るに等しいものでした。

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2013年7月 4日 (木)

中獏:臨済編⑩国師夢窓

 夢窓疎石が高峰顕日から印可を受けてから間もなく、高峰顕日は鎌倉を去って那須に引退します。それに伴い夢窓疎石は高峰顕日の宗門も辞して各地に放浪を始めました。これまた想像でしかないのですが、高峰顕日には拳を使って表現するしかなかった一山の宗旨は夢窓疎石の中ではまだまだ未消化なものだったのではないでしょうか。答えを探した東北地方の風景に一山の教え、というか精神世界に通じるものがあったのかもしれません。それは決して言葉にできないものであり、高峰顕日には拳で表現するしかなかった。東北の情景でつかんだ糸口をもう一度自らの中で咀嚼したい。その為に必要としたのは今一度の東北の情景、その根源にある一山から伝えられた南宋五山の景観だったのかと想像します。その典型としてあげたいのが1313年(正和二年)土岐頼貞の招きにより、美濃国に入り、その翌年に開いた虎渓山永保寺です。虎渓山は中国江西省にある廬山虎渓からとったそうです。東洋画の画題として使われる景勝であり、夢窓疎石も一山一寧から示されたのかもしれません。美濃国のその地の風景が廬山虎渓に似ているので山号を虎渓山としたという伝承があるそうです。
 夢窓疎石のノマド生活は師である高峰顕日が示寂にあたって自らの後継に夢窓疎石を指名するまでの七年間も続きました。高峰顕日はもとは皇族でありましたが、出家し、北条時宗が招聘した無学祖元の法嗣となりました。よって師に変わって鎌倉に滞在し得宗家の教化にあたっていたわけですね。那須に隠棲したものの、その死に臨んで後継者を北条高時より求められたためなのですね。
 夢窓疎石は高峰顕日の後継の仕事を真面目には務めていませんでした。指名されると聞くや、土佐国に移ってそこに引きこもろうとします。そして自分の滞在した草庵に『吸江庵』と名付けました。吸江の語源は馬祖道一という唐代の漢人禅僧による『一口吸尽西江水』という公案の禅句によるものです。その句はすべてを超越した者とはどんな人なのか、と問われた解答で西江(揚子江)の水を飲みつくせるほどの者でなくては理解できないという意味です。土佐国五台山から浦戸湾を望む景色を揚子江河口に見立てております。すなわち、彼は高峰顕日の後継者として鎌倉幕府のブレインとなるよりも、日本国の景色の中に、一山一寧が育った中国(これは観念的なものではありましょうが)の情景を探し続けることを好んだわけですね。
 北条高時は役人を派遣して、土佐から夢窓疎石を引っさらって鎌倉に連れ戻しましたが、すぐに上総国の退耕庵に引きこもってしまいました。そんな夢窓疎石を後醍醐天皇が招いて南禅寺の住持に据えましたが、これも直ぐに去って鎌倉に戻ってしまいます。ただ高峰顕日の後継者という立場を利用して、伊勢国に善応寺、鎌倉に瑞泉寺、甲斐国に恵林寺・清白寺・禅長寺と次々に寺社を建てます。あるいは、鎌倉幕府や朝廷に働きかけて、五山を頂点とした禅林のネットワーク構築を実践しようとしたのかもしれません。最終的に夢窓疎石は円覚寺に腰を据えますが、それは部分的に理想の実現が軌道に乗り始めたということだったのでしょう。
 但し、鎌倉幕府の命運は既に尽きていました。幕府と朝廷の対立は決定的になり、元弘の変で幕府は後醍醐天皇を隠岐に流しました。しかし、後醍醐天皇はそれに屈することなく反幕闘争を呼びかけ、護良親王、名和長年、楠木正成、赤松円心らが蜂起し、最終的に足利高氏と新田義貞の寝返りが決定打となって鎌倉幕府は滅亡してしまいました。新田義貞が鎌倉を包囲した折、夢窓疎石は円覚寺におり、北条一門の滅亡をつぶさに見ておりました。後醍醐天皇も禅宗を保護していたので、官軍に攻撃されることはなかったようです。

 夢窓疎石は官軍方に寝返った足利高氏の仲介で、上洛して後醍醐天皇から臨川寺の住持となることを命ぜられます。ここは大覚寺統の世良親王の居館でしたが、早世したため夢窓疎石にここを寺にすることを命じたわけです。併せて彼は国師号を賜ります。夢窓国師の誕生でした。

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2013年7月 2日 (火)

中漠:臨済編⑨継嗣高峰

 高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子であり、兄弟に大覚寺統の亀山天皇、持明院統の後深草天皇がおり、さらに宗尊親王は鎌倉に降って征夷大将軍になっております。貴人の中の貴人といえるでしょう。彼は円爾、兀庵普寧、無学祖元の三人の師から学んでおりました。先に述べたとおり、南宋禅を本格的に日本にもたらしたのは蘭渓道隆ですが、その蘭渓道隆の来日をプロデュースしたのが円爾です。
 円爾は南宋に渡って無準師範の印可を受けました。彼は日本に戻り、祖国に本格的な中国禅を移植することに生涯を捧げます。彼は東福寺を開山して底の住持に収まるも、それだけでは満足していませんでした。それは、中国における禅と栄西が持ち帰ったはずの禅とはまるっきり違っているものだったからです。日本における禅は天台宗延暦寺の介入があって、顕密禅三教兼修を行うものだったわけです。円爾はこの状況を改善して純粋禅を広めたいと思ったはずですが、彼もまた祖国にしがらみのある身だったので、せいぜいが自分の寺で学んだ禅を教えるしか方法がなかったのですね。そこで円爾は帰国後も中国にいる師無準師範と文通を行う一方、鎌倉幕府の北条時頼と接近して漢人の禅僧を呼び寄せることに成功します。それが蘭渓道隆でした。蘭渓道隆は円爾とは印可を受けた法流こそ異なっていますが、円爾の師である無準師範の教えを受けたことがあり、来日したのもその縁であると思われます。蘭渓道隆は空気を読まずに自分が入った寺を次々と南宋風に作り変えてゆきました。とは言っても中にいる僧たちを総とっかえするわけにもいきませんし、彼一人では南宋と同じレベルの修行を弟子たちに課すこともままならなかったのではないか、と思われます。蘭渓道隆の強引なやり方は各所で反発を招いて北条時頼は彼を流罪にせざるを得ないところまで追い込まれましたが、その一方で円爾と諮って兀庵普寧を呼び寄せます。兀庵普寧は蘭渓道隆が整えた日本における南宋風禅院の状況をつぶさに観察した後、帰国します。時に南宋は滅亡寸前でした。すでに蘭渓道隆も北条時頼も亡くなっておりましたが、その遺志を北条時宗が継いで再び中国からの禅僧招聘を円爾に依頼します。円爾は兀庵普寧ルートで同じ無準師範門下の無学祖元を送り込んだのでした。日本の状況をつぶさに見て帰国した漢人僧の手になるものでしたので、日本に南宋風禅院を移植するには何をすればよいのか、無学祖元は心得ていたと思われます。その無学祖元の法統を嗣いだのが、高峰顕日だったわけです。それ以前には円爾と兀庵普寧にも学んでます。南宋に留学して五山で直接学んだ者をおけば、日本に居ながらにしてもっともシステマティックな教学を学ぶことが出来たと言えるでしょう。

 夢窓疎石はその高峰顕日を頼ったわけです。何分にも来日した漢人僧から印可を与えられた高峰顕日ですから、夢窓疎石が何に苦しんでいるのかを恐らくは自分の経験と引き比べて理解していたはずです。但し禅宗はしその達磨大師が梁の皇帝と対峙した時の逸話にあるように、ストレートなコミュニケーションを好みません。高峰顕日は夢窓疎石に禅問答を仕掛けてしまうわけですね。我が宗に語句なしといっても、それまで一山一寧は夢窓疎石を言葉で指導していなかったのか、とその時なぜ言い返さなかったのか。逆にこの言葉に夢窓疎石は追い詰められてしまうのでした。夢窓疎石はこの問答の答えを探すために、東北地方を旅をし、何かをつかんで鎌倉に舞い戻り、高峰顕日に再会します。
 そして、高峰顕日が問います。お前が師一山から教わったことは何かと。夢窓疎石が高峰顕日に披露した答えは、言葉ではなく拳という肉体言語でした。要するに、夢窓疎石は新しい師、高峰顕日をぶん殴った訳です。ぶん殴られた高峰顕日は意を得たりと笑って、法衣を渡しました。高峰顕日による印可の証です。俗人には理解の埒外にある話ではあります。高峰顕日は出家しているとはいえ、元皇族です。彼の兄弟には大覚寺統の亀山天皇と持明院統の後深草天皇がおわします。夢窓疎石は母方が執権の娘だったかもしれませんが、俗世の身分はそれに比べればはるかに低いわけです。『王法不思議、仏法と対峙す』と花園上皇に嘯いた宗峰妙超以上に過激な振る舞いですが、根は宗峰妙超と同じなのでしょう。仏法は王法を超越しているという認識からの物だと私は解釈してみます。
 もっとも、臨済禅の法義として『臨済打爺』というものがあります。臨済宗の宗祖臨済が修行中に師である黄檗に『お前の考えは間違っている!』と決めつけられた上で三度もどつかれまくったのですが、どつかれた臨済は『いいや間違ってやしない!』という信念のもと、師である黄檗に対してど突き返すわけですね。
 黄檗はそれを是として臨済に印可を与えました。要するにもっと自分の考えに自信を持てという教えを肉体言語でもって表現すると、そうなるわけですね。夢想礎石が実際に高峰顕日を殴ったかどうか、確認してはおりませんが、おそらくはそれは彼自身の茶目っ気だったろうと思います。

 それ以後、夢窓疎石は『ノマド』な時代に入ります。

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