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2013年7月 4日 (木)

中獏:臨済編⑩国師夢窓

 夢窓疎石が高峰顕日から印可を受けてから間もなく、高峰顕日は鎌倉を去って那須に引退します。それに伴い夢窓疎石は高峰顕日の宗門も辞して各地に放浪を始めました。これまた想像でしかないのですが、高峰顕日には拳を使って表現するしかなかった一山の宗旨は夢窓疎石の中ではまだまだ未消化なものだったのではないでしょうか。答えを探した東北地方の風景に一山の教え、というか精神世界に通じるものがあったのかもしれません。それは決して言葉にできないものであり、高峰顕日には拳で表現するしかなかった。東北の情景でつかんだ糸口をもう一度自らの中で咀嚼したい。その為に必要としたのは今一度の東北の情景、その根源にある一山から伝えられた南宋五山の景観だったのかと想像します。その典型としてあげたいのが1313年(正和二年)土岐頼貞の招きにより、美濃国に入り、その翌年に開いた虎渓山永保寺です。虎渓山は中国江西省にある廬山虎渓からとったそうです。東洋画の画題として使われる景勝であり、夢窓疎石も一山一寧から示されたのかもしれません。美濃国のその地の風景が廬山虎渓に似ているので山号を虎渓山としたという伝承があるそうです。
 夢窓疎石のノマド生活は師である高峰顕日が示寂にあたって自らの後継に夢窓疎石を指名するまでの七年間も続きました。高峰顕日はもとは皇族でありましたが、出家し、北条時宗が招聘した無学祖元の法嗣となりました。よって師に変わって鎌倉に滞在し得宗家の教化にあたっていたわけですね。那須に隠棲したものの、その死に臨んで後継者を北条高時より求められたためなのですね。
 夢窓疎石は高峰顕日の後継の仕事を真面目には務めていませんでした。指名されると聞くや、土佐国に移ってそこに引きこもろうとします。そして自分の滞在した草庵に『吸江庵』と名付けました。吸江の語源は馬祖道一という唐代の漢人禅僧による『一口吸尽西江水』という公案の禅句によるものです。その句はすべてを超越した者とはどんな人なのか、と問われた解答で西江(揚子江)の水を飲みつくせるほどの者でなくては理解できないという意味です。土佐国五台山から浦戸湾を望む景色を揚子江河口に見立てております。すなわち、彼は高峰顕日の後継者として鎌倉幕府のブレインとなるよりも、日本国の景色の中に、一山一寧が育った中国(これは観念的なものではありましょうが)の情景を探し続けることを好んだわけですね。
 北条高時は役人を派遣して、土佐から夢窓疎石を引っさらって鎌倉に連れ戻しましたが、すぐに上総国の退耕庵に引きこもってしまいました。そんな夢窓疎石を後醍醐天皇が招いて南禅寺の住持に据えましたが、これも直ぐに去って鎌倉に戻ってしまいます。ただ高峰顕日の後継者という立場を利用して、伊勢国に善応寺、鎌倉に瑞泉寺、甲斐国に恵林寺・清白寺・禅長寺と次々に寺社を建てます。あるいは、鎌倉幕府や朝廷に働きかけて、五山を頂点とした禅林のネットワーク構築を実践しようとしたのかもしれません。最終的に夢窓疎石は円覚寺に腰を据えますが、それは部分的に理想の実現が軌道に乗り始めたということだったのでしょう。
 但し、鎌倉幕府の命運は既に尽きていました。幕府と朝廷の対立は決定的になり、元弘の変で幕府は後醍醐天皇を隠岐に流しました。しかし、後醍醐天皇はそれに屈することなく反幕闘争を呼びかけ、護良親王、名和長年、楠木正成、赤松円心らが蜂起し、最終的に足利高氏と新田義貞の寝返りが決定打となって鎌倉幕府は滅亡してしまいました。新田義貞が鎌倉を包囲した折、夢窓疎石は円覚寺におり、北条一門の滅亡をつぶさに見ておりました。後醍醐天皇も禅宗を保護していたので、官軍に攻撃されることはなかったようです。

 夢窓疎石は官軍方に寝返った足利高氏の仲介で、上洛して後醍醐天皇から臨川寺の住持となることを命ぜられます。ここは大覚寺統の世良親王の居館でしたが、早世したため夢窓疎石にここを寺にすることを命じたわけです。併せて彼は国師号を賜ります。夢窓国師の誕生でした。

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