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2013年7月20日 (土)

中漠:曹洞編③鎌倉布教の話

 中国に渡った栄西も能忍の弟子達も、おそらくは中国でやっている禅をすぐにそのままの形で日本に移植するのは難しいと直感したものと思います。栄西は顕密禅三教兼修をかかげて批判をかわしたために、能忍の達磨宗は批判の矢面に立たされた感がありました。それだけに、越前国に安住の地を得た達磨宗は細々とではありますが、禅を極められる環境を得られたのではなかったでしょうか。但し、達磨宗は開祖である能忍の印可は弟子が間接的に臨済宗大慧派のものをもらって来たものであり、正統性に若干の難がありました。
 そこで彼らは宋に渡って長翁如浄の印可を得ていた道元に学びなおすことにしたということでしょう。道元の越前行きは表向きには波多野義重が主体となってやったことになっていますが、懐鑒と孤雲懐弉の人脈連携があったものと思います。道元が持ち帰っていた教学は『臨済宗大慧派』のものではなく、『曹洞宗』のものでした。また、曹洞宗の教学の特長なのかも知れませんが、道元はあまり経典などを持ち帰っていませんでした。帰国後の道元は大著『正法眼蔵』の著述にとりかかりますが、道元の教えを文書化するにあたって、能忍の教団が集めた経典なども大いに参考とされた可能性はあります。

 そんな折、道元が越前国で禅宗の教団を形成していることを時頼は聞きつけ、彼を鎌倉に呼びつけました。その当時、時頼は二十代の若き指導者ではあったものの、その時までに摂家将軍を廃して宮家将軍を据え、執権の権力を高めると言う手腕を発揮していました。
 道元は栄西の弟子である明全の侍者として宋に渡り、修行中に亡くなった明全に代わって、中国で印可をもらっていました。よって、最新かつより詳しい禅についての知識を道元から得られるもの、と北条時頼は期待したものと思われます。しかし、実際に道元が師より得ていたものは栄西が日本に持ち帰った臨済宗とは別流の曹洞宗のものでした。栄西の臨済宗にしても、顕密に反発されないように薄め、日本の風土に合うようにアレンジされたものであり、道元が中国で得た臨済宗の知識をそのまま開陳したとしても、栄西の教えとはやや違ったものに映ったのではないかと思います。但し道元は自らの教えを曹洞宗であるとはその生涯において口にしていなかったそうです。道元が南宋から持ち帰ったものの内、最も重要なものは、禅における悟りの境地でした。それ以外に持ち帰った法具・仏典の類はそう多くはありませんでした。
 道元は禅において最も重要な悟りの境地についてを、覚者として北条時頼に示すことは出来たでしょう。しかし、それ以上の期待には充分に応えられなかったようです。北条時頼は道元のために鎌倉に寺地を与えようと申し出ましたが、それを固辞して越前国永平寺に帰りました。それは時頼の態度に原因があったのか、はたまた道元自身が権力者に近づきすぎることを避けようとしたも知れません。どちらにせよ、帰国した道元は越前国の雪中で、悟りを得て覚者となるためのハウ・ツーについての言語化に取り組みました。無論、道元は只管打座を唱えておりますし、正法眼蔵の『眼』とは『不立文字・教外別伝』を指しています。正法眼蔵を読むだけでは、正しい悟りには至れません。しかし、漢文ではなく仮名交じりの和文で書かれたことにより、教義は多くの日本人に受け入れられる端緒となったものと考えております。
 一方の時頼は、道元から悟りの境地の存在を伝えられ、また栄西の教学をより純化した『禅宗』の存在を知りました。権力者は望めば何でも叶うのです。時頼の望みに応じて南宋から禅宗の高僧が招かれました。蘭渓道隆です。彼は祖国の禅宗を日本に移植することに腐心し、日本における臨済宗、いや仏教界全体に革命を起こしたのです。もし、道元が北条時頼に受け入れられ、また道元も時頼の元にいることを良しとしたならば、蘭渓道隆の来日は無く、今日の禅文化は大きく様相を異にしていかもしれません。

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