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2013年7月16日 (火)

中漠:曹洞編①曹洞宗とは?

 前編にて五山の形が出来上がるまでの臨済宗を素描いたしましたが、ここで一旦話を締めて別の論題に入ってゆきたいと思います。日本の禅宗は大きく分けて三種類あります。臨済宗と曹洞宗と黄檗宗です。このうちの曹洞宗をとりあげつつ、時代も鎌倉時代に再び戻って論じてみたいと思います。

 それと並行して足利一門衆にどういう家があるのか、どういう特徴を持っているのかを簡単にふれてみます。それは、曹洞宗が盛んだった北陸、東海地域を領した足利尾張守家(斯波氏)と今川氏の位置づけを明らかにするためです。足利尾張守家(斯波氏)自身は臨済宗を熱心に保護しました。今川氏でも義元あたりになると、臨済宗の林下である妙心寺で学んでいますが、貞世(了俊)や、範国の代あたりでは曹洞宗に帰依していたフシがあります。
 本編においては鎌倉時代に北陸の永平寺・総持寺に拠点を築いた曹洞宗教団とそこを領した足利尾張守家(斯波氏)が尾張国を領したことをきっかけに曹洞宗勢力が尾張・美濃エリアに進出したこと、九州王だった今川貞世が応永の乱に連座して失意の帰国をした後に東海地方に曹洞宗が進出したことを順を追ってみてみたいと思います。

 禅宗は達磨大師がインドから南北朝時代の中国にわたったところから始まるとされています。実際に教派の形を取り出したのは唐代に入ってからです。それが北宋の代になって五家七宗と呼ばれる分派を生むようになりました。その中に臨済宗と曹洞宗が含まれて居ます。
 曹洞宗の名は晩唐の洞山良价を祖とし、その数代後の弟子である曹山本寂の頃に確立した所から、それぞれの名前の一字をとってつけられたものです。曹洞宗の禅風には座禅を最も重視する特徴がありました。公案などを用いず、座禅を専らとするそのありかたは「黙照禅」と呼ばれて他宗から見下されてすらいたのですが、それこそが曹洞宗の特長を成すものでした。
 南宋になって曹洞宗の真歇清了門下の長翁如浄が、五山の一つである天童の景徳寺の住持となりました。日本の五山はすべて臨済宗の寺ですが、中国の五山は曹洞宗の流れを汲む者も住持になれたようです。そこで修行し、印可を得たのが日本人留学僧がおりました。日本における曹洞宗の祖となった道元です。

 道元は内大臣土御門通親の子孫という貴族の家柄の出で、園城寺(三井寺)で天台教学を修めたあと、鎌倉に下って建仁寺で栄西の弟子明全に学んだ後、1223年(貞応二年)に師明全とともに宋に渡ります。来日して当初、天童の景徳寺の住持は無際了派という臨済宗の僧でしたが、無際了派は栄西の師でもありました。道元はこの師の考え方にどうも違和感を持っていたようです。あるいは無際了派の指示があったのかもしれませんが、一時この天童の景徳寺を離れて他の師の教えを求めて諸山行脚をすることになります。あるいは、無際了派の学は明全が学ぶことを担当し、明全の弟子道元は諸山を巡ってより見聞を広めて留学の内容を充実させようと考えていたのかもしれません。
 その後、この中国での師匠、無際了派と日本の師である明全が相次いで亡くなり、道元は景徳寺に戻ります。明全・道元の師弟は栄西の法系を継ぐ者として日本に禅の教学を持ち帰るという目的があったものと思われます。ところが、無際了派が景徳寺の後継住持として選んだのが、曹洞宗の長翁如浄だった訳です。臨済宗の教学は景徳寺では学べなくなってしまったのですが、道元にとっては、長翁如浄こそが己が師とすべき人物であると感銘を受けてしまったのですね。縁というものの重要性を感じさせられます。
 道元はこの長翁如浄から印可を受け、日本の師である明全の遺骨を持って帰国します。

 留学で道元が得たものはどうも体得したものが主で、経典などはあまり持ち帰っていなかったようです。ただし、持ち帰ったものを咀嚼して日本語で表現することを試みました。大著『正法眼蔵』の書き始めです。以後、七十五巻目で絶筆するまで道元は自ら体得した禅の教えを文字で表現しようと試みました。
 彼は京の建仁寺にしばらく滞在した後、1233年(天福元年)深草に興聖寺を建てそこの住持となります。そこで弟子を教化するのですが、道元は自らの教えを『曹洞宗』とは呼んでいなかったようです。
 栄西は顕密兼修を掲げて旧仏教との共存をはかりましたが、道元はそれができる程器用な人物ではなかったようです。興聖寺は比叡山延暦寺の圧迫を受けるようになりました。それを見ていたのが波多野義重という越前国比志庄の地頭でした。波多野氏は元々藤原秀郷流の関東武士でしたが、承久の変に参戦して越前に領地をもらって六波羅探題の官僚として京に在住していました。彼の子孫の一流は応仁の乱時に丹波国八上を領する戦国大名となり、細川高国や織田信長と戦うことになるのですが、それはまた別の話。
 1244年(寛元二年)波多野義重は道元を越前に招き、大佛寺という寺を開山します。この大佛寺は二年後に寺号が改めます。これが後に日本における曹洞宗の大本山となる永平寺です。越前波多野氏は道元の外護者になるわけです。

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