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2013年7月 6日 (土)

中漠:臨済編⑪寺社造営料唐船

 後醍醐天皇が新五山の上位に選んだ寺が大徳寺の他にもう一つありました。祖父に当たる亀山上皇が開基した南禅寺です。後醍醐天皇が九州から東上する足利尊氏に敗北した時、この南禅寺の住持をしていたのは夢窓疎石でした。大徳寺も後醍醐天皇が厚く保護した寺院でありますが、どうやら、尊氏東上にあたって、後醍醐方に味方したために足利尊氏からは嫌われたようです。それに対して、南禅寺の夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟の深い帰依を得ることに成功します。
 夢窓疎石は一山一寧に学んだ後、高峰顕日から印可をうけ、全国に布教活動をしたところを後醍醐天皇に認められて南禅寺の住持となりました。
 一方、先だって書いたとおり、足利氏の菩提寺は下野国にある真言宗の鑁阿寺と鎌倉にある臨済宗の浄妙寺の二つでした。足利尊氏は夢窓疎石に傾倒することで政策に影響が出てきました。南禅寺は後醍醐天皇の庇護の篤かった寺院です。1339年(延元四年)に後醍醐天皇が吉野で憤死した時、夢窓疎石は尊氏に対して後醍醐天皇の菩提を弔うことを提案するのです。尊氏にとって後醍醐天皇は敵でした。少なくとも後醍醐天皇は足利尊氏を恨んで死んだと思っていてまずは間違いのないところです。敵の菩提を弔うというのは、通常の感覚ではありえないことだと思います。
 しかし、大勢はすでに足利尊氏の勝利で決している中、敢えて敵を祀ることで分裂した朝廷の対立関係が修復されるきっかけとなることを策し、パックス・アシカガーナを完成させようとしたものと思われます。但し、戦乱の中で足利尊氏には財源がありませんでした。そこで活用したのが禅宗の人脈です。
 後醍醐天皇の菩提を弔うために天竜寺を建てることになりましたが、その財源を得るために、夢窓礎石は元に向けて使節を送ることを足利尊氏に提言したりもしています。世に言う天竜寺船です。

 資金調達のために元に船を送るという発想は、これに始まったことではなく、一山一寧の来日後、幾度かの船の往来が鎌倉幕府もしくはそれに近い筋から出されておりました。これを寺社造営料唐船と言います。

1306年(嘉元四年)称名寺造営料唐船
1315年(正和四年)極楽寺造営料唐船
1323年(元亨三年)東福寺造営料唐船?(新安沈船)
1325年(正中二年)勝長寿院・建長寺造営料唐船
1329年(元徳元年)関東大仏造営料唐船
1332年(元弘二年)住吉神社造営料唐船

 中でも1323年(元享三年)に派遣されたと見られる東福寺造営料唐船は、1976年に韓国の新安という地で見つかった沈没船の中にあった遺物からその存在が発見されたという劇的な経緯を持つ者です。沈没船の中には大量の積み荷、木簡が含まれており、木簡には「綱司」「東福寺」「筥崎」などと記されたものが多数含まれておりました。「綱司」とは交易船の船長のことで、この木簡が「東福寺」と書かれたもの以外の荷についているということは、この船が造営料以外の交易もやっていたことになります。それに幕府やそれに近い筋(もちろん臨済宗グループを含む)に金が落ちていたことでしょう。「筥崎」は博多あたりの地名でこの船が博多を目指していたことがわかります。これらの枠組みの中で、日本から入元していた雪村友梅や、元の僧である明極楚俊・竺仙梵僊ら禅僧が「商船で」日本へ渡来していたと言います。
 但し、元に行ったと言っても、朝貢をして多大な贈り物をもらったわけではないようです。上記の寺社造営料唐船は鎌倉幕府もしくはそれに近い筋の関与があったと考えられますが、中国側にとってみれば私的な貿易船に過ぎず、監視・規制の対象にあったものでした。

 足利直義は夢窓疎石と相談の上、翌年秋に造営料唐船の派遣を企画します。博多商人の至本が綱司(船長)に指名されました。至本は貿易の成否に関わらず、帰国時に五千貫文を納めることを約した上で、1342年(康永元年)八月に元へ渡航します。この船は「造天龍寺宋船」の名で呼ばれていることでもわかるように、日本から派遣する船の行き先はもはや存在しない「宋」であり、元の朝廷はアウト・オブ・眼中でした。

 天龍寺船には性海霊見・愚中周及など約六十名の禅僧が乗船したのですが、この頃元側でも倭寇の被害が始まっており、慶元(明州、のちの寧波)に入港する日本船を海賊船と見なして、港の出入を厳しく制限しておりました。その結果、天竜寺船の上院で、入国を許されたのは六十命中愚中周及ら十一名のみでした。この唐船の利益を元手に天龍寺の建立が行われ、1343年(康永二年)に竣工しております。

 重要なことは、末期鎌倉幕府が財源の一つとして開拓した寺社造営料唐船が夢窓疎石を通じて足利尊氏・直義兄弟の企画するものとなったということです。この当時日本は自国通貨を流通させる力はなく、「宋銭」を輸入して使っておりました。ですので、交易ルートを足利幕府が掌握するということは成立して間もない日本における貨幣経済の実を握るに等しいものでした。

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