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2013年7月23日 (火)

中漠:曹洞編④三代争論

 中国に渡った栄西も能忍の弟子達も、おそらくは中国でやっている禅をすぐにそのままの形で日本に移植するのは難しいと直感したものと思います。栄西は顕密禅三教兼修を掲げて批判をかわしたために、能忍の達磨宗は批判の矢面に立たされた感がありました。それだけに、越前国に安住の地を得た達磨宗は細々とではありますが、禅を極められる環境を得られたのではなかったでしょうか。但し、達磨宗は開祖である能忍の印可は弟子が間接的に臨済宗大慧派のものをもらって来たものであり、正統性に若干の難がありました。
 そこで彼らは宋に渡って長翁如浄の印可を得ていた道元に学びなおすことにしたということでしょう。道元の越前行きは表向きには波多野義重が主体となってやったことになっていますが、懐鑒(えかん)と孤雲懐弉(こうんえじょう)の人脈連携があったものと思います。道元が持ち帰っていた教学は『臨済宗大慧派』のものではなく、『曹洞宗』のものでした。また、曹洞宗の教学の特長なのかも知れませんが、道元はあまり経典などを持ち帰っていませんでした。帰国後の道元は大著『正法眼蔵』の著述にとりかかりますが、道元の教えを文書化するにあたって、能忍の教団が集めた経典なども大いに参考とされた可能性はあります。

 そんな折、道元が越前国で禅宗の教団を形成していることを時頼は聞きつけ、彼を鎌倉に呼びつけました。その当時、時頼は二十代の若き指導者ではあったものの、その時までに摂家将軍を廃して宮家将軍を据え、執権の権力を高めると言う手腕を発揮していました。
 道元は栄西の弟子である明全の侍者として宋に渡り、修行中に亡くなった明全に代わって、中国で印可をもらっていました。よって、最新かつより詳しい禅についての知識を道元から得られるもの、と北条時頼は期待したものと思われます。しかし、実際に道元が師より得ていたものは栄西が日本に持ち帰った臨済宗とは別流の曹洞宗のものでした。栄西の臨済宗にしても、顕密に反発されないように薄め、日本の風土に合うようにアレンジされたものであり、道元が中国で得た臨済宗の知識をそのまま開陳したとしても、栄西の教えとはやや違ったものに映ったのではないかと思います。但し道元は自らの教えを曹洞宗であるとはその生涯において口にしていなかったそうです。道元が南宋から持ち帰ったものの内、最も重要なものは、禅における悟りの境地でした。それ以外に持ち帰った法具・仏典の類はそう多くはありませんでした。
 道元は禅において最も重要な悟りの境地についてを、覚者として北条時頼に示すことは出来たでしょう。しかし、それ以上の期待には充分に応えられなかったようです。北条時頼は道元のために鎌倉に寺地を与えようと申し出ましたが、それを固辞して越前国永平寺に帰りました。それは時頼の態度に原因があったのか、はたまた道元自身が権力者に近づきすぎることを避けようとしたも知れません。どちらにせよ、帰国した道元は越前国の雪中で、悟りを得て覚者となるためのハウ・ツーについての言語化に取り組みました。無論、道元は只管打座を唱えておりますし、正法眼蔵の『眼』とは『不立文字・教外別伝』を指しています。正法眼蔵を読むだけでは、正しい悟りには至ません。しかし、漢文ではなく仮名交じりの和文で書かれたことにより、教義は多くの日本人に受け入れられる端緒となったものと考えております。
 道元は正法眼蔵を百巻書くつもりでしたが、七十五巻目まで書いたところで示寂しました。享年五十四歳。死因は瘍だそうです。最終的な正法眼蔵は九十五巻まで達しております。その差、二十巻は彼の後継者が書き継いだものです。道元の後継者となったのは孤雲懐奘でした。現存している道元著述の七十五巻分のほぼ全てをこの孤雲懐奘が整理・筆写しております。これが意味するところは、七十五巻分の中に孤雲懐奘が師の考えとは異なる記述をしたとしても現代を生きる我々には判別する術を持たないということです。
 また、先に触れたとおり、道元生前の永平寺首座は懐鑒が務めておりました。しかし、懐鑒は師の生前に亡くなっており、後継とはなりませんでした。しかし、禅寺においては首座の立場は実質的には次期住持を意味しておりました。懐鑒・孤雲懐奘とも元達磨宗宗徒です。道元の著作、正法眼蔵の内容に大きくコミットしていた可能性はきわめて高いでしょう。
 もとより、道元本人は自らの教えを『曹洞宗』とは呼んでいません。長翁如浄から学んだ悟りの境地、その精神を自らの知見を通じて和文の教学として完成させようとしていたのです。孤雲懐奘は道元の侍者としてそれを書き留め続け、さらに足らざるを埋めようとした訳です。その材料は達磨宗としての知見だけではなく、弟子である徹通義介を南宋に派遣して曹洞宗を学ばせました。
 孤雲懐奘は自らの後継として徹通義介を選びました。彼が中国で学んだことが、教団の教学の深化・広宣に役立つことを期待してのことではなかったかと思います。
 徹通義介は永平寺の住持として自らが今まで学んだことを実践しようとしましたが、それは始祖である道元のやり方とはやや異なっていたと言います。
 例えば他宗でやっている焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経は初期の道元の教団では行っておらず、それを徹通義介が永平寺に持ち込んだとか、また密教要素を持ち込んだとか、さらには禁欲的な修行よりも世俗受けする行を持ち込んだ等という話があるそうです。
 ただ道元の権力に背を向け、孤高を持ってよしとするような求道的、禁欲的なやり方では、教えが広まらない。ひいては衆生救済にならないことを意識してのことだったのでしょう。その頃には蘭渓道隆をはじめとする渡来僧達が、北条家の庇護の下、純粋禅としての臨済宗を広めていたのですから。

 しかしながら徹通義介のやり方は教団内部から批判を浴びました。批判者は義演と宝慶寺の寂円らでした。ともに孤雲懐奘の弟子で、寂円は道元に付き従って日本に来た渡来僧でもありました。彼らは徹通義介に道元の遺風を守ることを求めました。これは三代争論と呼ばれています。結果として、徹通義介は永平寺を追われることになります。後は一度引退した孤雲懐奘が復帰して務め、その後を義演、寂円の弟子である義雲が継いで行きましたが、内部抗争は教勢を大いに削ぐことになり、以後の永平寺は一度衰微するに至ります。

 永平寺を追われた徹通義介は加賀国の冨樫家尚の保護を受けます。冨樫家尚は徹通義介を押野庄にあった真言宗の大乗寺に住まわせ、そこを禅宗寺としました。冨樫家尚の祖父は冨樫泰家と言い、彼には歌舞伎の勧進帳で逃亡生活を送る源義経に情けをかけ、関所を見て見ぬ振りして通したというエピソードが残っています。子孫は加賀国守護になりましたが、末裔の冨樫政家は加賀一向一揆に滅ぼされることになります。富樫家は鎌倉時代から戦国時代にかけて加賀国に大きな勢力を持っていた一族でありました。
 そして徹通義介の弟子の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登に進出して、総持寺を立てます。この段階に至って、道元が自らの宗派をそう呼ばなかった『曹洞宗』の看板を掲げるようになり、あわせて『王法即仏法』、政治的な法令も仏法と同じく尊重せよという方針を出しました。もとより、ライバルである臨済宗は政治に密着した布教活動をしています。道元はそれに背を向けていましたが、瑩山紹瑾は深山に籠もって道を求めるよりも、大州に教えを広めることを重視した訳です。結果として、瑩山門下の曹洞宗は全国に広まり、永平寺を遥かにしのぐ教勢を示すようになりました。
 後に総持寺は永平寺と並んで大本山とされ、瑩山紹瑾は道元と並んで崇められるようになる訳です。

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