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2013年7月27日 (土)

中漠:曹洞編⑥足利将軍家 御一家衆

 少々、長々と余談をしたいと思います。一見、曹洞宗とは関係のない話ですが、道元と同時代に足利家で起こった出来事をニュースのように語りたいと思います。

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 足利家は鎌倉幕府において、有力御家人の地位を保ち続けていたのですが、その秘訣は常に北条一族との血縁関係を保ってきたことにありました。これは、足利義兼が伯父である新田義重を出し抜いて鎌倉幕府における御家人としての地位を固めたこととも関係します。足利義兼は北条時政の娘との間に義氏をもうけ、義氏は北条泰時の娘との間に、泰氏を、泰氏は北条時頼の妹(北条時氏の娘)との間に頼氏を、家時、貞氏も北条家からの正妻を娶っております。足利義氏から尊氏までの六代のうち、四人までが北条家出身の母親をもっています。例外は家時と尊氏ですが、この二人にしても北条家からの妻を娶らされています。
 家時の父、頼氏は病弱だったらしく、家時が六歳になるまでには、家督を譲って引退しておりました。もし、頼氏が壮健であれば間違いなく北条家から正妻が送り込まれて、その間に生まれた子供が足利宗家をつぐことになったものと思われます。
 尊氏にしても、本来なら北条家出身の正妻から生まれた兄、高義がいて、足利宗家の相続は出来ない立場だったのですが、この高義が早世したために、当主になれたに過ぎなかったのです。
 鎌倉時代において足利家の当主を誰に相続させるかを決める権利は、実質的に北条家が握っておりました。そのために、北条家出身の妻から生まれない子供は年長であっても相続が叶わないというケースが続出しました。畠山氏、吉良氏、斯波氏、渋川氏などです。
 足利宗家はこれらの一族を厚く遇しております。幕府を開いて後、畠山氏、斯波氏は足利義兼の庶兄義清の子孫である細川氏とともに三管領に封じております。

 義氏の子、長氏は三河国吉良に封じられ、彼の次男の国氏が今川氏を立てるわけですが、足利宗家はこれらの家を御一家として遇します。足利尊氏が室町幕府を開いた後には、足利家に後継者が絶えた後には吉良家より将軍を迎え、吉良家が絶えた後には後には今川家より将軍をと、江戸幕府における御三家のような待遇が約されていたというのです。実際には足利将軍家が断絶することはなく、空手形に終わっております。また、吉良家、今川家は足利幕府においては幕閣を形成する三管四職の家柄ですらなく、軍事力の提供をする地方領主に留まっております。

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 吉良氏は三河国吉良荘を領しておりました。足利泰氏の庶兄として長氏が分家した系統です。ところが、長氏の子、満氏の代において、霜月騒動に巻き込まれ、安達泰盛方として北条氏に討たれてしまいます。その前年に宗家の足利家時が自殺しておりますので、宗家の頭領の身代わりになって討たれたといえます。吉良家そのものは満氏の子の貞義を長氏の養子とすることで存続を認められています。その決着には霜月騒動で北条方についた今川国氏の尽力があったと思われますが、貞義としては内心忸怩たるものがあったでしょう。
 足利尊氏の挙兵当時の吉良家当主は貞義の子、満義でした。一軍を任されて信濃方面に派遣されておりましたが、北条残党の蜂起を許すに至るなど軍事的な失策があり頭角を現すにいたっておりません。青野ヶ原の合戦に参加して北畠顕家の西上を止めるなどの活躍をしておりますが、観応擾乱においては、結局敗北してしまった足利直義側についてしまいました。直義側についた一門衆は、吉良満義以外にも数多くおり、中には足利尾張守高経や山名時氏のように尊氏や義詮に軍事的プレゼンスを見せ付けた上で帰順するなどして上手く立場を守った者もいたのですが、満義とその嫡男満貞はそのタイミングを失いました。
 吉良満貞が行き場を失っている間に、吉良家家臣達は満貞の弟である尊義を主人にたてるなどをします。二進も三進もゆかなくなった満貞は足利尊氏方に降伏し、後許されて遠江国引間荘を与えられます。そこはもともと、今川氏が根拠としていた荘園で、その時までには今川氏は遠江守護にまでなっておりました。

 吉良満氏の弟である国氏は三河国今川荘を治めておりましたが、安達泰盛を中心とする御家人間の抗争である霜月騒動の鎮圧に功があったとして、国氏の子の基氏が遠江国引間荘を与えられます。さらにその子の範国の代において足利尊氏が台頭。足利一門衆として従軍した功をもって、遠江国守護に、さらにその隣国の駿河国守護になります。この時点で今川氏は吉良氏を大きく引き離しているように見えますが、この時点の駿河国は南朝勢力が蟠踞する敵地であり、駿河国守護の座をもらったとはいえ、今川範国は自らの手で領地を切り開かなければなりませんでした。範国には範氏、貞世という子がいました。範氏は嫡男でしたが、軍事的才能は貞世の方によりありました。なので、範国は範氏に駿河国守護を、貞世に遠江国守護を譲った訳です。嫡男は対南朝戦の最前線へ、次男は後方に三河国(足利一族第二の本貫地)をもつ比較的安全な土地を領したわけですが、幕府は貞世に静謐な土地を与えるほど甘くはありません。

 貞世は幕府に重用され、山城守護(兼務)を経て九州探題になりました。九州方面軍司令官となって九州を支配する南朝方の懐良親王を駆逐せよというわけです。貞世の九州入りには幼い足利義満を補佐した管領細川頼之の推薦があったようです。貞世は九州に蟠踞していた懐良親王勢力を駆逐して、地元勢力である大内氏との協力関係のもと、一大勢力を築きました。その頃、京では明徳の乱が勃発。一時は日本六十六州のうち六分の一を領した山名一族が解体され、明徳の乱鎮定の功により今川仲秋(範国・貞世の弟)が尾張国守護につくことになりました。これによって九州と駿河、遠江、尾張と東海の要地を今川一族で占めるに至ります。余談ですが、これがきっかけで那古屋に今川氏が入るようになり、最後の那古屋城主今川氏豊が織田信秀に追い出されるまで那古屋今川氏が続くことになります。
 ところが、貞世を九州に送り込んだ管領細川頼之が失脚して、斯波義将が後任の管領になると、今川貞世は罷免されて遠江半国守護にまで落とされてしまいます。但し、この時点では残り半国は本家の甥、泰範が駿河と一緒に守護をしておりました。
 この遠江半国守護の座も、九州を治めていた頃の大内義弘が応永の乱を起こすにあたり、その関与を疑われて引退を余儀なくされます。そして応永の乱の六年後には、今川泰範が担当していた遠江国残り半分と一緒に、遠江国の守護職は斯波義重に与えられることになりました。貞世の子孫は以後、遠江国守護になることはありませんでした。今川家が遠江国守護の座を取り戻すのは、戦国期に入った今川氏親までまたなければなりません。その頃には貞世の末裔は瀬名氏を名乗り、駿河今川家の傘下に入ることになります。
 遥か後、徳川家康は織田信長から謀反の嫌疑を受けた妻と子を自らの手で討ち取ったという話が残っております。妻の名は築山殿。息子は信康です。この築山殿の本名は瀬名と伝えられており、いまお話した今川貞世の子孫であるそうです。

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