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2013年7月25日 (木)

中漠:曹洞編⑤寒巌義尹

 道元の弟子筋を語るに当たりもう一人重要人物がいます。法名を寒巌義尹といいます。順徳天皇の皇子であったといいますから、血筋は極めて尊い人物であります。始め、天台宗を修め、道元が興聖寺を開いた頃に弟子となったそうです。法号に『義』の文字があることから達磨宗系の後継者たちとの関係が想像できますが、不勉強にて良くわかりません。
 この寒巌義尹は道元の死後に独自の行動をとります。即ち、永平寺を去って南宋に渡ります。この時は一年で帰ってきましたが、1267年(文永四年)にもう一度南宋に向かい、返った時には永平寺には戻りませんでした。丁度この年、永平寺第二代住持孤雲懐奘が職を退いて徹通義介に住持の座を譲っております。徹通義介の代において、永平寺に争論が起こったことを考え合わせると、路線問題によるものなのかもしれません。寒巌義尹の禅風は道元のそれとは異なり、座禅のみを重んじたわけではなかったそうです。道元の死後に師の法の源流を探りに中国入りしたのは何のためでしょうか。敢えて想像を交えるなら、師とは違った形で曹洞宗の禅を展開させたかったのではないでしょうか。徹通義介にしても住持になる以前に南宋に渡って師が持ち帰った禅の教えとは何かを研究しています。永平寺には道元のみを通して学び、道元のみを信じる僧たちもいたものと思われます。その教えと彼らが中国で学んできた宗派の教えには異なる部分もあったのかもしれません。かと言って、徹通義介を助ける形で行動をとらなかったのは、永平寺で禅風を変えることの困難さを理解していたせいなのでありましょう。
 永平寺に戻らなかった寒巌義尹はまず福岡の興聖寺にはいりました。その後に拠点としたのが肥後国です。宇土という寺に如来寺を建てました。さらに大慈寺という寺を建てて九州における曹洞宗の拠点としました。ここは亀山法皇により勅願寺に指定されています。これは永平寺(後円融天皇)や総持寺(後醍醐天皇)が時の天皇から『曹洞宗第一道場』の勅額・綸旨をもらうよりも早い。寒巌義尹が皇族出身であることが影響しているのかもしれません。

 九州は中国との往来のルート上にあります。元軍も攻めてきましたし、足利尊氏も中央の戦いに破れた折にここで捲土重来を果たし、その後には懐良親王や足利直冬らが勢力を築いたりします。鎌倉末期から南北朝時代にかけて九州の地は政治的な要地でした。その理由の一つが南宋や元など、中国の王朝との交易の中継地なのですね。特に懐良親王は九州に独立王国を築こうとし、明国に使節を送って日本国王の称号を得ようと画策までしようとします。それを阻止したのが、足利義詮と細川頼之が切り札として送った今川貞世でした。
 彼が懐良親王を追って九州王となった時、寒巌義尹は既に亡くなっておりましたが、彼の法統は生きておりました。今川貞世がこの時に、寒巌派もしくは法皇派と呼ばれる寒巌義尹の法嗣に出会っていると考えております。おそらくはこの今川氏の動きと後述する吉良氏・足利尾張守家(斯波氏)の動きに関連して、東海地方における曹洞宗の勢力が伸びていったのではないか、と考えております。その詳細な内容は次稿以降で記します。

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