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2013年8月11日 (日)

中漠:曹洞編⑫本願寺教団の蚕食

  話が戦国時代にまで進みましたが、戦国期の曹洞宗は大きな試練に見舞われております。それが本願寺教団の伸張でした。曹洞宗は北陸にある永平寺・総持寺を中心に全国に末寺を広めております。その本山のある地に遅れて比叡山から追われて北陸に入った新仏教勢力がありました。蓮如率いる浄土真宗本願寺教団です。応仁の乱が激しく戦われていた頃、蓮如は越前と加賀との国境にある吉崎の地に僧坊を構えました。そしてここを中心に浄土真宗の教えを広めていったわけです。

 曹洞宗が属する禅宗と本願寺教団の浄土真宗とは、同じ仏教ではありながら教えの方向性が少し違います。乱暴に言うと、前者は悟りを得る方法論としての修行のメソッドをひたすら高め、修行の場からノイズとなる世俗性をとことん排除することに努めます。
 後者については、修行は何のために行うかをとことん突き詰め、信仰することそのものに最高の価値を与え、修行者に課す戒律・行を排除する方向に向かったわけです。当然修行の場には世俗が入り込んでくるわけですが、本願寺教団はそれを拒みませんでした。

 その結果、各宗派の受容状況に偏りを生じることになったわけです。端的に言うと曹洞宗の寺を建てるということは世俗と隔離した空間を作るということです。中国の五山に倣い、わざわざ険しい山の頂に山門を設えるようなことをやったわけですね。その維持にはコストがかかりますし、かつ誰でも修業に参加できる場にはならなかったわけですね。せいぜいがスポンサーになってくれる領主とその一門が精一杯です。それが通常の仏教寺院のあり方であり、同時に限界であったわけです。

 ところが浄土真宗の場合は教祖の親鸞自身が僧であることからドロップ・アウトした存在でした。人生の後半において受けた弾圧をきっかけに彼は僧であることを辞めました。同時に俗世にも戻りませんでした。即ち、自らを『愚』もしくは『愚禿』と呼びならわしたわけです。それは親鸞による自省や謙遜に留まることはなく、彼が仏教僧としての枠を超えたことを意味しておりました。僧の立場から見れば、俗に塗れていると指弾されることも、『愚禿』として親鸞は行ったのです。仏教を奉じる程の財を持たない人々でも浄土真宗の門徒にならなれたのです。教勢を教義の正しさではなく、信者の数で比較するなら、これは勝負にはなりません。

 加賀国は鎌倉時代に曹洞宗を奉じた冨樫氏が勢力を振るっておりましたが、その後越前に斯波氏が入り、加賀にも勢力を伸ばしました。同時に彼の郎党達も北陸地方に入植したのですね。斯波氏を含む足利一門の本貫地は下野国です。その下野国こそ、親鸞が布教の拠点としてきた高田専修寺のある場所だったわけです。自然、斯波氏の一族郎党の中には浄土真宗の門徒達が含まれていたとしても不思議はないでしょう。
 親鸞の子孫である覚如が三代目留守職を自称して始めた本願寺が、蓮如の代に至って北陸に布教を始めると、あっという間に冨樫氏を打倒し、加賀国をのみ込んでしまったことは、以上の経緯を思い起こせば決して偶然ではありません。加賀国の曹洞宗は以後百年の間、本願寺教団主導の『百姓の持ちたる国』の中で逼塞を余儀なくされたわけです。

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2013年8月10日 (土)

中漠:曹洞編⑪今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川義忠~今川氏親)

 今川義忠は今川義元の祖父に当たる人物です。彼の代までには、今川氏は駿河で強大な力を得るに至りました。そして、応仁の乱が起こります。応仁の乱において今川義忠は東軍、すなわち細川勝元方につくことになります。駿河にいた今川家にとって当面の敵は美濃国守護代斎藤妙椿でした。彼は西軍に属して尾張に乱入し、東軍方の斯波義敏や細川成之と戦いました。時の当主である今川義忠は東軍に味方して斎藤妙椿と戦うべく軍勢を西上させますが、その途中、遠江国狩野氏と巨海(こみ)氏を滅ぼしてしまいます。彼らは尾張の斯波義寛(義敏の息子)、三河の西条吉良義真ら東軍勢力の被官でした。斯波家は今川了俊を追い詰めて今川家から遠江国を分捕ったという経緯がありますので、義忠の狩野・巨海氏攻撃は今川家による遠江国奪還の野心と受け取られます。今川義忠は遠江国の東軍派に敵を作ってしまい、それが結果として、彼の命取りになりました。
 彼の妻は北川殿といい、伊勢氏出身です。時の伊勢一族の当主は伊勢貞親といい、政所執事の役職を有しておりました。伊勢氏は清和源氏一門でガッチリ固められた室町幕府にあって、桓武平氏出身の幕府官僚という少々特異なポジションにいました。そういう彼の目から今川家という、毛並みはよいものの幕閣にあっては非主流派という存在は魅力的に映ったようです。貞親は自らの姪に当たる北側殿を今川家に嫁がせたのです。

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 応仁乱期においては、今川家も、将軍家・管領家と同じく、分裂の火種を持っておりました。それが小鹿範満です。彼は今川範政の孫にあたります。今川範政は小鹿範満の父、範頼を溺愛しておりました。そこで長子の範忠を廃嫡し、弟の範頼を後継にしようとしたのですが、それを時の将軍足利義教が許さなかったのです。当時範頼はまだ幼く、東方では関東公方の足利持氏が不穏な動きを見せておりました。東海の要を押さえる今川家が幼君を戴いていれば、そのスキを必ず関東公方はついてくるはず。足利義教はそう考えたのです。
 その時既に成人していた今川範忠は足利義教の期待に見事に応え、足利持氏が起こした永享の乱の鎮圧に大きな戦功をあげたのです。将軍義教はその功を賞して今川範忠に『天下一苗字』の栄誉を与えました。すなわち、範忠直系の子孫以外は今川の名乗りをあげられなくなったわけです。これによって、彼の弟である範頼は今川を名乗れなくなり、小鹿を氏とすることになります。小鹿範満はその小鹿範頼の息子でした。足利義教がちょっかいをださねば、祖父の意思によって彼が今川家当主になれたはずだったのですから。故に、小鹿範満は今川家にあって潜在的な不満分子でおりました。
 今川義忠が応仁の乱において不慮の死を遂げたのは丁度そんなころでした。駿河国を巡る政治状況は小鹿範満にとって有利に傾きます。ぶっちゃけていうと、彼は今川家の乗っ取りを企みました。実のところ彼の背後には関東管領の上杉氏がいました。小鹿範満の母は上杉一門の出身だった訳です。しかし、この頃の関東の情勢は混沌としていました。関東公方は古河と堀越に分立し、管領家である山内上杉家も分家筋の扇谷上杉家が実力でそれを凌駕するようになりつつあった時代です。今川家の当主が京の将軍家よりも関東公方の意向で動くようになってしまってはそれはそれで困るのです。ましてや政所執事の伊勢貞親にとっては、今川義忠に一門の娘を嫁に与えています。その間に生まれた龍王丸を廃して小鹿範満が今川家を乗っ取ってしまっては、伊勢貞親の面子が丸つぶれになってしまいます。そこで貞親は幕府奉公衆を務めていた一門の者を駿河に派遣し、談判に及びました。使者として立ったその男の名は伊勢新九郎盛時と言います。後出家し宗瑞と名乗りますが、後世においては北条早雲と言った方が通りはよいでしょう。
 義忠はなくなりましたが、その妻北側殿は存命であり無視できる存在ではありません。その背後には政所執事伊勢貞親がおり、足利将軍がいるのです。応仁の乱以後室町幕府の威光は衰えていたとは言え、小鹿範頼はそれに逆らわなかったようです。そこで妥協が図られ、小鹿範満は龍王丸が成人するまでに限り今川家を総督することを認めました。陣代という立場です。しかし、小鹿範満は後にこの約束を破ります。龍王丸が成人した後も、小鹿範満は今川家陣代の立場を降りませんでした。そこで伊勢新九郎は駿河で挙兵し、小鹿範満を成敗しました。龍王丸は晴れて当主の座につき、今川氏親を名乗った訳です。
 今川氏親にとって伊勢新九郎盛時は恩人であり、良き師匠でした。また伊勢盛時も北側殿とともによく氏親をささえました。その伊勢新九郎盛時の弟に仏門に入ったものがいました。一説に、伊勢盛時の弟ではなく、伊勢貞親・貞藤兄弟の弟にあたるとも言われておりますが、伊勢一族であるらしい。その人物の名は賢仲繁哲と言います。

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 賢仲繁哲は総持寺三代目の峨山韶碩から太源・恕仲に?がる一派の末にあたります。彼が伊勢新九郎と北側殿を通して、今川氏親の帰依をうけます。その結果、今川義忠、氏親、北川殿(義忠夫人)、寿桂尼(氏親夫人)が曹洞宗の菩提寺をもつことになりました。今川義忠には遠江小笠の他に、駿府大岩に臨済宗の菩提寺があるにはあるのですが、これはどうやら孫の義元の代における太原崇孚の影響であるようです。
 これらの曹洞宗系菩提寺は遠江にある今川範国の寒厳・華蔵派のものではなく、伊勢一族がもたらしたものであると考えるべきでしょう。

 今川義忠 正林寺 曹洞宗 静岡県小笠町
 今川氏親 増善寺 曹洞宗 静岡市慈悲尾
 北川殿  徳願寺 曹洞宗 静岡市向敷地
 寿桂尼  竜雲寺 曹洞宗  静岡市沓谷

後に伊勢新九郎は出家して宗瑞と名乗るようになります。後に伊豆を領して、修禅寺を再興させました。ここはもともと真言宗の寺で、後に政治犯の収容所となり、源範頼、源頼家らがここに幽閉されて暗殺されたという歴史を持ちます。少しくだって、蘭渓道隆がここに流された折、臨済宗に改められていたのですが、応仁の乱の戦火で荒廃していたところを、伊勢宗瑞が再興させたのですね。その折に、隆渓繁紹禅師を呼んだのですが、彼によって宗旨が曹洞宗に改められています。また、隆渓繁紹は伊勢宗瑞の叔父にあたるそうです。これらを鑑みるに宗瑞の宗旨は曹洞宗であった可能性があります。

 但し、異説があります。彼は死後、早雲寺に葬られます。ここは彼の息子の氏綱が父宗瑞のために建てた寺ですが、ここの宗旨は大徳寺派臨済宗なのですね。その大徳寺の記録に伊勢宗瑞は建仁寺と大徳寺で臨済禅を学んだとあるそうです。また、道号に『宗』がつくのは大徳寺系の特長ですので、伊勢宗瑞は大徳寺派臨済宗を宗旨としたと見ることが出来る、とその説はいいます。
 氏綱は宗瑞の息子ですが、伊勢氏を名乗らず、氏を北条と改め、鎌倉幕府の執権家の衣鉢を継ぐことを志したわけです。そして、故宗瑞を『北条早雲』として祀ったのですね。過去に本稿で触れておりますが、鎌倉時代の北条家は熱心な臨済宗の外護者でした。時の執権北条時頼は道元が持ち帰った教えを採用しなかったのです。氏綱が後の北条氏たらんとするならば、選ぶべき宗旨は臨済宗以外になかったと思われます。私はこれが早雲寺が臨済宗寺である理由ではないかと考えております。

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2013年8月 6日 (火)

中漠:曹洞編⑩今川家の宗旨報告書Ⅰ(今川範国~今川範忠)

 駿河に拠点を移して以降、駿河守護今川家の歴代当主はそれぞれが自分用の菩提寺を持っております。しかも、下記に示すように曹洞宗と臨済宗が入り混じっております。本稿ではその事情を考察し、もって宗旨報告としたいと思います。

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 今川範国が亡くなったのは1384年(至徳元年)です。彼は駿河と遠江守護を兼ねましたが、それ以前は遠江に拠点を持っておりました。戒名を定光寺悟庵心省といい、定光寺という寺を菩提寺にしております。それに該当しそうな寺院は、袋井市横川の常光寺、掛川市前野の定光寺とふたつあります。いずれも、曹洞宗の寺院で、そこに範国が葬られていたという伝があるのです。どちらかを範国の菩提寺と比定しても良さそうに思えます。但し、遠江国に曹洞宗が入ってくるのは応永年間(1394-1427年)の頃です。範国の孫である泰範の代にあたります。よって、この『定光寺』は後になって曹洞宗に改宗したものと考えられます。
 彼の子である範氏は駿河・遠江国境にある島田市大草に慶寿寺に葬られております。ここの宗旨が真言宗ですので、定光寺のもともとの宗旨もまた真言宗であったと考えても差しつかえないかと思います。源頼朝の一族がもともと真言宗でありましたし、足利宗家も鑁阿寺という真言宗の菩提寺を持っております。

 この範氏の弟が九州王の今川貞世でした。彼は管領細川頼之に見出されて九州を平定したのですが、管領細川頼之の失脚後、遠江半国守護に押し込められ、あまつさえ謀反の疑いまでかけられた上に引退を余儀なくされました。1411年(応永十八年)、失意の彼が領地の堀越(現在の静岡県袋井市)に建てたのが海蔵寺。曹洞宗の寺です。その頃には今川家は遠江国守護の座を斯波義重に明け渡しておりました。貞世は斯波家支配下の遠江国に逼塞して生涯を閉じ、海蔵寺に葬られました。

 この頃、九州に展開していた曹洞宗寒厳義尹派の法脈を継ぐ華蔵義曇が吉良氏の為に遠江国随縁山(現在の浜松市浜北区寺島)に普済寺を建てております。吉良家は今川家の本家筋にあたります。足利一門の中でも屈指の家格の高さを誇っており、鎌倉幕府体制において臨済宗の実相寺を菩提寺として持っておりました。開基は円璽です。しかし、鎌倉時代にあっては霜月騒動に巻き込まれ、南北朝期の観応の擾乱にあっては直義派に与して引き際を誤り家勢を小さくする結果となっております。吉良氏は遠江国に引間荘(現在の浜松市)という領地を持っていました。もともとは霜月騒動の折に戦功を立てた今川国氏に与えられたものだったのですが、南北朝期には吉良氏の領地になっております。その頃までには今川宗家は駿河・遠江守護を任じられておりますから、引間荘は吉良氏に譲られたものとして理解して良さそうです。

 この普済寺は後に今川氏の援助によって、1432年(永享 四年)に随縁山から広沢山に寺基を移します。華蔵義曇はここを拠点に東海一円の寒厳・華蔵流拡大を図ったわけです。少し想像を逞しくしてみます。吉良氏は今川氏と同族でした。吉良氏と九州にいた華蔵義曇との接点を考えるならば、それは九州探題を務めた今川貞世にあったのではないかと思うのです。海蔵寺の『蔵』の字は華蔵義曇の法号からきているのかもしれません。海蔵=『かいぞう』、華蔵=『かぞう』と音も似ております。

 駿河守護として生涯を終えた今川泰範は長慶寺という臨済宗寺院を現在の藤枝市下之郷に建てます。ここはもともと臨済宗ではありませんでした。臨済宗に改宗させたのは、今川義元の側近、太原崇孚でずっと後年に下ってからです。よって、もともとは真言宗寺院であったと考えても差しつかえはなさそうです。彼は今川範氏の次男でした。氏家という名の長男がおり、泰範は出家させられておりました。氏家が早世した為に、還俗して跡を継いだわけです。それまでは鎌倉五山の一角をなす建長寺で僧としての生活をいとなんでおりました。彼の代において遠江国守護職は斯波氏に移ってしまった為、彼の菩提寺は駿河国藤枝にあります。
 但し、今川氏は範国の代から駿河守護だったわけですが、だからといって支配力が駿河国全域に及んでいたわけではありませんでした。せいぜいが、西部地域の島田、葉梨あたりにとどまっていたのです。今川家が実力で駿河国全域を制圧したのは、次代の範政になってからです。

 義元に至るまで、基本的には駿府の大岩の地に葬られることになります。宗旨は臨済宗です。ただ、正確なところはわかりません。義元の代において、臨済宗妙心寺派の太原崇孚が藤枝の長慶寺にやったような寺社の整備を行ったからです。それでも若干の例外はありました。次項からは、その若干の例外の対象となった今川氏親を中心に今川義元まで見てまいりたいと思います。

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2013年8月 3日 (土)

中漠:曹洞編⑨海道への展開

 なぜ、ここしばらく長々と曹洞宗と一見関係のない足利一門衆の話をしていたかというと、南北朝期から戦国期にかけて、彼らの領地を舞台にして曹洞宗が伸展したからです。
 足利尊氏・直義兄弟が建てた体制において足利尾張守家(斯波氏)は北陸地方の平定を受け持っておりました。足利尾張守高経は足利氏の主力兵力を率いて北陸に逃げた新田義貞を追い詰めるのがその任務でした。新田義貞を討ち取った後も、そのまま越前に残り、勢力を扶植しました。その後、足利尾張守高経は若狭・越前・越中守護を任じられております。加賀国は冨樫氏、能登国は吉見氏が足利尊氏に味方したため、それぞれの国の守護になっておりますが、斯波家の最盛期には一時的にではありますが、加賀国の守護に斯波氏が任じられていたこともあるのですね。斯波家と曹洞宗の結びつきはここから始まり、家臣団の相当深いところまで達しておりました。例えば、後に斯波家の所領を簒奪する越前朝倉家と尾張織田家はともに曹洞宗を宗旨にしております。

 東海地方における曹洞宗の伸展には、この足利尾張守家(斯波家)ともうひとつ、今川家が関与していました。
 応永元年に尾張国中島郡下津に天鷹祖祐が正眼寺を開創します。この時の尾張国守護は今川貞世の弟にして養子である今川仲秋でした。今川仲秋は遠江守護も兼ねておりました。1401年(応永八年)に恕仲天誾、遠江飯田に山内氏の懇請のもと、崇信寺を開創します。この時の遠江国守護は今川宗家の泰範(貞世・仲秋の甥)です。尾張の天鷹祖祐、遠江の恕仲天誾は系統は異なっていますが、双方総持寺の峨山韶碩の系統です。峨山韶碩の師は瑩山紹瑾でした。仲秋や泰範が支配していた尾張国、遠江国は今川貞世の失脚と彼が九州探題時代に重用していた大内義弘が応永の乱を起こしてその関与を疑われたことに端を発して、足利尾張守家改め、斯波家にその守護職を奪われることになります。そして恕仲天誾の系統である太源・恕仲派は遠江・三河国に勢力を扶植してゆきます。

 1370年(応安三年)に今川貞世は九州探題に任じられます。どうもこの時に寒厳派を通して曹洞宗との人脈を得たようです。1394-1427年(応永年間)に寒厳派の華蔵義曇が、吉良氏の招きで遠江国随縁山に普済寺を開創します。吉良氏は今川氏の本家筋です。吉良氏は最盛期である満氏の代に臨済宗の東福寺の円爾を三河国に呼んで吉良氏の菩提寺である実相寺を建てました。吉良満氏は一時鎌倉幕府下の越前国守護(足利家庶流としては唯一の守護就任例)に任じられたのですが、霜月騒動に巻き込まれて没落。以後、三河国における臨済宗はあまり奮いませんでした。逆に霜月騒動で功績のあった今川国氏が遠江国引間荘を得るなどして、勢力を持つようになります。この引間荘は今川氏から吉良氏へ南北朝期にどうも譲り渡されたらしいのですが、その頃今川氏は遠江国守護になっておりました。その吉良氏が寒厳派の華蔵義曇を遠江国に呼んだのです。これに前後して、遠江国守護は今川家から斯波家に移ります。吉良氏は斯波家被官として引馬荘一帯を支配するようになりました。1432年(永享四年)華蔵義曇は今川氏の支援により、随縁山から広沢山に普済寺の寺基を移しています。ここを起点に、寒厳・華蔵派は東海地方に末寺を増やしていったのです。

 太源・恕仲派と寒厳・華蔵派は競うようにして遠江・三河地方に勢力を伸ばしてゆきました。例えば、三河松平氏です。この一族は浄土宗が宗旨なんですが、歴代松平氏は禅宗寺を二つ建てています。一つが松平信光の代における萬松寺。これは寒厳・華蔵派の龍沢永源が建てています。もう一つは信光の曾孫にあたる松平清康の代の龍海院。こちらは太源・恕仲派の摸外惟俊によるものです。似たパターンは水野氏にもあって、1413年(応永二十年)に華蔵義曇の弟子の利山義聡が、刈谷に楞厳寺を開創しています。後になって水野忠政がここを菩提寺とするわけなんです。でも、1475年(文明 七年)に太源・恕仲派の川僧慧済が、水野貞守のために緒川に乾坤院を開創しているのですね。緒川と刈谷は水野一族の主要な根拠地で境川を挟んだ両岸にありました。水野忠政は系図上水野貞守の曾孫ということになっております。この共通項を一つの流れとして捉えてみれば面白い仮説が立てられるかもしれません。

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2013年8月 1日 (木)

中漠:曹洞編⑧新田・山名・細川氏など

 前々回で吉良家、今川家、前回は足利尾張守家(斯波家)を中心に足利流の有力一門をおおかた紹介しましたが、書き漏らしで外せない人々を紹介します。家系図は前回・前々回より少しさかのぼって源義家、八幡太郎から始めます。前九年・後三年の役で活躍し、貴族達の蔑視に耐えつつも武家の身で昇殿を果たした立志伝中の人物でした。彼の長男義宗は早世し、義親が嫡流として河内源氏の一門を率いてゆくことになります。系図を下記に掲げます。世良田・得川家、石川家については、一応書いておりますが、本稿では触れません。あくまでも参考です。

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 義家に比べると、彼の子達は政治争いに巻き込まれてパッとしませんでした。義親は早々に暗殺され、その子の為義は保元の乱で息子の義朝と戦って敗れ、義朝の代になって、河内源氏宗家はようやく日の目をみたというところです。その義朝も平治の乱で一度没落。平氏政権を経て、義朝の子、頼朝が鎌倉幕府を開くことで、ようやく誰もが認める名家となったわけです。
 義家・義親親子が京にいた頃、義国は関東の在地勢力として下野国に土着します。義国は二人の息子に新田荘と足利荘を与え、それぞれ新田家、足利家を立てることになりました。新田家の祖は足利家の祖の兄に当たるわけで、家格も上になるはずだったのですが、伊豆に流罪になった源頼朝が伊豆で挙兵した時、時の足利家当主の義兼がいち早く頼朝のもとに参陣したのに対して、新田義兼(奇しくも足利家当主と同じ名前)は参陣が遅れたために、鎌倉幕府は新田家を冷遇し、足利家を厚遇しました。

 後醍醐天皇が反鎌倉幕府の挙兵をした時、後醍醐天皇は足利尊氏と新田義貞に誘いを入れました。結果として、両方とも後醍醐天皇の誘いに乗ったわけですが、この時に足利家の影響力が明暗を分けることになります。新田家は血統でいうと東国の清和源氏一族を率いてもおかしくない立場にあったのですが、河内源氏宗家や北条家が足利家を厚遇したため、新田流の分家である山名政氏までが足利尊氏に従ったのですね。
 山名氏はこの後、政争と戦争をたくみに渡りぬいて、氏清の代においては日本国六十六カ国のうち、山名一族が十一カ国の守護を占めて、六分の一殿と呼ばれるようになりました。足利義満に山名氏清が粛清にあって、これは是正されるのですが、それでも三管四職のうちの四職の一角をしめる名族となりました。

 新田義貞は足利家をライバル視していたのですが、足利尊氏にその気持ちはありませんでした。そこを後醍醐天皇がたくみにつけ込んで、新田家は南朝の主力勢力となります。結果として、北朝と足利幕府の攻撃の矢面に立たされて、新田家は没落する羽目になります。
 足利義兼の弟に矢田義清という人物がいます。兄義兼は源頼朝に味方しましたが、矢田義清は木曾義仲に仕えました。都落ちした平家を追って備中まで軍を進めましたが、返り討ちにあって戦死した人物です。彼の孫である義季は足利義氏に仕えております。義氏が三河守護になったおりに、三河国細川に領地を持ちました。以後、義季の子孫は細川を名乗るようになります。

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