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2013年8月10日 (土)

中漠:曹洞編⑪今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川義忠~今川氏親)

 今川義忠は今川義元の祖父に当たる人物です。彼の代までには、今川氏は駿河で強大な力を得るに至りました。そして、応仁の乱が起こります。応仁の乱において今川義忠は東軍、すなわち細川勝元方につくことになります。駿河にいた今川家にとって当面の敵は美濃国守護代斎藤妙椿でした。彼は西軍に属して尾張に乱入し、東軍方の斯波義敏や細川成之と戦いました。時の当主である今川義忠は東軍に味方して斎藤妙椿と戦うべく軍勢を西上させますが、その途中、遠江国狩野氏と巨海(こみ)氏を滅ぼしてしまいます。彼らは尾張の斯波義寛(義敏の息子)、三河の西条吉良義真ら東軍勢力の被官でした。斯波家は今川了俊を追い詰めて今川家から遠江国を分捕ったという経緯がありますので、義忠の狩野・巨海氏攻撃は今川家による遠江国奪還の野心と受け取られます。今川義忠は遠江国の東軍派に敵を作ってしまい、それが結果として、彼の命取りになりました。
 彼の妻は北川殿といい、伊勢氏出身です。時の伊勢一族の当主は伊勢貞親といい、政所執事の役職を有しておりました。伊勢氏は清和源氏一門でガッチリ固められた室町幕府にあって、桓武平氏出身の幕府官僚という少々特異なポジションにいました。そういう彼の目から今川家という、毛並みはよいものの幕閣にあっては非主流派という存在は魅力的に映ったようです。貞親は自らの姪に当たる北側殿を今川家に嫁がせたのです。

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 応仁乱期においては、今川家も、将軍家・管領家と同じく、分裂の火種を持っておりました。それが小鹿範満です。彼は今川範政の孫にあたります。今川範政は小鹿範満の父、範頼を溺愛しておりました。そこで長子の範忠を廃嫡し、弟の範頼を後継にしようとしたのですが、それを時の将軍足利義教が許さなかったのです。当時範頼はまだ幼く、東方では関東公方の足利持氏が不穏な動きを見せておりました。東海の要を押さえる今川家が幼君を戴いていれば、そのスキを必ず関東公方はついてくるはず。足利義教はそう考えたのです。
 その時既に成人していた今川範忠は足利義教の期待に見事に応え、足利持氏が起こした永享の乱の鎮圧に大きな戦功をあげたのです。将軍義教はその功を賞して今川範忠に『天下一苗字』の栄誉を与えました。すなわち、範忠直系の子孫以外は今川の名乗りをあげられなくなったわけです。これによって、彼の弟である範頼は今川を名乗れなくなり、小鹿を氏とすることになります。小鹿範満はその小鹿範頼の息子でした。足利義教がちょっかいをださねば、祖父の意思によって彼が今川家当主になれたはずだったのですから。故に、小鹿範満は今川家にあって潜在的な不満分子でおりました。
 今川義忠が応仁の乱において不慮の死を遂げたのは丁度そんなころでした。駿河国を巡る政治状況は小鹿範満にとって有利に傾きます。ぶっちゃけていうと、彼は今川家の乗っ取りを企みました。実のところ彼の背後には関東管領の上杉氏がいました。小鹿範満の母は上杉一門の出身だった訳です。しかし、この頃の関東の情勢は混沌としていました。関東公方は古河と堀越に分立し、管領家である山内上杉家も分家筋の扇谷上杉家が実力でそれを凌駕するようになりつつあった時代です。今川家の当主が京の将軍家よりも関東公方の意向で動くようになってしまってはそれはそれで困るのです。ましてや政所執事の伊勢貞親にとっては、今川義忠に一門の娘を嫁に与えています。その間に生まれた龍王丸を廃して小鹿範満が今川家を乗っ取ってしまっては、伊勢貞親の面子が丸つぶれになってしまいます。そこで貞親は幕府奉公衆を務めていた一門の者を駿河に派遣し、談判に及びました。使者として立ったその男の名は伊勢新九郎盛時と言います。後出家し宗瑞と名乗りますが、後世においては北条早雲と言った方が通りはよいでしょう。
 義忠はなくなりましたが、その妻北側殿は存命であり無視できる存在ではありません。その背後には政所執事伊勢貞親がおり、足利将軍がいるのです。応仁の乱以後室町幕府の威光は衰えていたとは言え、小鹿範頼はそれに逆らわなかったようです。そこで妥協が図られ、小鹿範満は龍王丸が成人するまでに限り今川家を総督することを認めました。陣代という立場です。しかし、小鹿範満は後にこの約束を破ります。龍王丸が成人した後も、小鹿範満は今川家陣代の立場を降りませんでした。そこで伊勢新九郎は駿河で挙兵し、小鹿範満を成敗しました。龍王丸は晴れて当主の座につき、今川氏親を名乗った訳です。
 今川氏親にとって伊勢新九郎盛時は恩人であり、良き師匠でした。また伊勢盛時も北側殿とともによく氏親をささえました。その伊勢新九郎盛時の弟に仏門に入ったものがいました。一説に、伊勢盛時の弟ではなく、伊勢貞親・貞藤兄弟の弟にあたるとも言われておりますが、伊勢一族であるらしい。その人物の名は賢仲繁哲と言います。

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 賢仲繁哲は総持寺三代目の峨山韶碩から太源・恕仲に?がる一派の末にあたります。彼が伊勢新九郎と北側殿を通して、今川氏親の帰依をうけます。その結果、今川義忠、氏親、北川殿(義忠夫人)、寿桂尼(氏親夫人)が曹洞宗の菩提寺をもつことになりました。今川義忠には遠江小笠の他に、駿府大岩に臨済宗の菩提寺があるにはあるのですが、これはどうやら孫の義元の代における太原崇孚の影響であるようです。
 これらの曹洞宗系菩提寺は遠江にある今川範国の寒厳・華蔵派のものではなく、伊勢一族がもたらしたものであると考えるべきでしょう。

 今川義忠 正林寺 曹洞宗 静岡県小笠町
 今川氏親 増善寺 曹洞宗 静岡市慈悲尾
 北川殿  徳願寺 曹洞宗 静岡市向敷地
 寿桂尼  竜雲寺 曹洞宗  静岡市沓谷

後に伊勢新九郎は出家して宗瑞と名乗るようになります。後に伊豆を領して、修禅寺を再興させました。ここはもともと真言宗の寺で、後に政治犯の収容所となり、源範頼、源頼家らがここに幽閉されて暗殺されたという歴史を持ちます。少しくだって、蘭渓道隆がここに流された折、臨済宗に改められていたのですが、応仁の乱の戦火で荒廃していたところを、伊勢宗瑞が再興させたのですね。その折に、隆渓繁紹禅師を呼んだのですが、彼によって宗旨が曹洞宗に改められています。また、隆渓繁紹は伊勢宗瑞の叔父にあたるそうです。これらを鑑みるに宗瑞の宗旨は曹洞宗であった可能性があります。

 但し、異説があります。彼は死後、早雲寺に葬られます。ここは彼の息子の氏綱が父宗瑞のために建てた寺ですが、ここの宗旨は大徳寺派臨済宗なのですね。その大徳寺の記録に伊勢宗瑞は建仁寺と大徳寺で臨済禅を学んだとあるそうです。また、道号に『宗』がつくのは大徳寺系の特長ですので、伊勢宗瑞は大徳寺派臨済宗を宗旨としたと見ることが出来る、とその説はいいます。
 氏綱は宗瑞の息子ですが、伊勢氏を名乗らず、氏を北条と改め、鎌倉幕府の執権家の衣鉢を継ぐことを志したわけです。そして、故宗瑞を『北条早雲』として祀ったのですね。過去に本稿で触れておりますが、鎌倉時代の北条家は熱心な臨済宗の外護者でした。時の執権北条時頼は道元が持ち帰った教えを採用しなかったのです。氏綱が後の北条氏たらんとするならば、選ぶべき宗旨は臨済宗以外になかったと思われます。私はこれが早雲寺が臨済宗寺である理由ではないかと考えております。

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