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2013年8月 1日 (木)

中漠:曹洞編⑧新田・山名・細川氏など

 前々回で吉良家、今川家、前回は足利尾張守家(斯波家)を中心に足利流の有力一門をおおかた紹介しましたが、書き漏らしで外せない人々を紹介します。家系図は前回・前々回より少しさかのぼって源義家、八幡太郎から始めます。前九年・後三年の役で活躍し、貴族達の蔑視に耐えつつも武家の身で昇殿を果たした立志伝中の人物でした。彼の長男義宗は早世し、義親が嫡流として河内源氏の一門を率いてゆくことになります。系図を下記に掲げます。世良田・得川家、石川家については、一応書いておりますが、本稿では触れません。あくまでも参考です。

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 義家に比べると、彼の子達は政治争いに巻き込まれてパッとしませんでした。義親は早々に暗殺され、その子の為義は保元の乱で息子の義朝と戦って敗れ、義朝の代になって、河内源氏宗家はようやく日の目をみたというところです。その義朝も平治の乱で一度没落。平氏政権を経て、義朝の子、頼朝が鎌倉幕府を開くことで、ようやく誰もが認める名家となったわけです。
 義家・義親親子が京にいた頃、義国は関東の在地勢力として下野国に土着します。義国は二人の息子に新田荘と足利荘を与え、それぞれ新田家、足利家を立てることになりました。新田家の祖は足利家の祖の兄に当たるわけで、家格も上になるはずだったのですが、伊豆に流罪になった源頼朝が伊豆で挙兵した時、時の足利家当主の義兼がいち早く頼朝のもとに参陣したのに対して、新田義兼(奇しくも足利家当主と同じ名前)は参陣が遅れたために、鎌倉幕府は新田家を冷遇し、足利家を厚遇しました。

 後醍醐天皇が反鎌倉幕府の挙兵をした時、後醍醐天皇は足利尊氏と新田義貞に誘いを入れました。結果として、両方とも後醍醐天皇の誘いに乗ったわけですが、この時に足利家の影響力が明暗を分けることになります。新田家は血統でいうと東国の清和源氏一族を率いてもおかしくない立場にあったのですが、河内源氏宗家や北条家が足利家を厚遇したため、新田流の分家である山名政氏までが足利尊氏に従ったのですね。
 山名氏はこの後、政争と戦争をたくみに渡りぬいて、氏清の代においては日本国六十六カ国のうち、山名一族が十一カ国の守護を占めて、六分の一殿と呼ばれるようになりました。足利義満に山名氏清が粛清にあって、これは是正されるのですが、それでも三管四職のうちの四職の一角をしめる名族となりました。

 新田義貞は足利家をライバル視していたのですが、足利尊氏にその気持ちはありませんでした。そこを後醍醐天皇がたくみにつけ込んで、新田家は南朝の主力勢力となります。結果として、北朝と足利幕府の攻撃の矢面に立たされて、新田家は没落する羽目になります。
 足利義兼の弟に矢田義清という人物がいます。兄義兼は源頼朝に味方しましたが、矢田義清は木曾義仲に仕えました。都落ちした平家を追って備中まで軍を進めましたが、返り討ちにあって戦死した人物です。彼の孫である義季は足利義氏に仕えております。義氏が三河守護になったおりに、三河国細川に領地を持ちました。以後、義季の子孫は細川を名乗るようになります。

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