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2013年11月30日 (土)

中漠:法華編⑨日印と日静

 日蓮が六人の高弟を持ったように、六老僧の一人、日朗もまた有能な弟子に恵まれました。法華宗を京にはじめてもたらした日像もそうでしたが、もう一人、特筆すべきでしが日印です。北条高時に仕える内管領長崎円喜入道が諸宗の高僧を呼んで法華宗に宗論を挑んだ話を先稿にていたしましたが、この時に法華宗代表として宗論に応じたのが日印でした。彼は怜悧な知性を持って諸宗派の論難を次々に論破し、見事法華宗を守り通したと言います。日蓮本人がそうだったように、この宗派においては卓抜したディベーターを多く輩出する傾向にあるようです。紛れもなく日印もまたその一人でした。この鎌倉宗論のみならず、日印は遊行と折伏を重ねることによって日朗門流を盛りたててゆきました。
 正統性はおくとして、初期の法華宗の教団においてはこの日朗系の門流がもっとも勢いがあったように見えます。ところが、日朗が示寂した後、日朗の門流は分裂するに至ります。日印自らは師である日朗から正当に後継者として選ばれたと称しましたが、他の弟子たちがそれを認めなかったのです。日蓮直弟子の日昭と日朗、そして日像は血縁関係にありました。さらに日蓮入滅の地、池上本門寺の開基となった池上宗仲も日朗、日像の血縁にあたります。日像は京にいましたが、彼の実弟である日輪は日朗とともに鎌倉を中心に活動し、日朗の死後は本門寺を継ぎます。日朗の門流は血縁関係ある親族で固められており、自らの才をたのむ日印はそれを打破したかったのではないか、と想像します。日印は日朗の遺品である日蓮ゆかりの重宝をめぐって他の弟子達とトラブルを起こし、分裂は決定的になります。

 但し、日印は転んでもただで起きる人物ではありませんでした。有力な御家人をパトロンにつけることに成功したのです。彼にはその有力御家人出身の直弟子がおりました。名を日静といいます。彼の父親は上杉頼重といい、母親は足利氏出身でした。
 上杉というと戦国武将の上杉謙信が有名ですが、彼は長尾氏出身で関東管領の家格を持っていた上杉氏の名跡を継いだにすぎません。その上杉氏はもともとは藤原北家の勧修寺家出身の公家でありました。ちなみに家名の由来である勧修寺は山城と近江の国境、山科にある真言宗の寺で、勧修寺家はこの寺の旦那として結束した一族です。延暦寺や日蓮が始めた法華宗との直接の関係はありませんでした。本家の方は朝臣として政務を記した日記が後世に残されており、研究家の飯のタネとなっております。
 鎌倉幕府とは『幕府=幕僚たちの府庁』という名が示すように辺境最前線に置かれた出張政庁でありました。その存在はジェネラルとしての将軍がいることが大前提です。鎌倉における初代のジェネラルは源頼朝でしたが、その血統はわずか三代で滅亡しました。ジェネラルなくしては幕府は存続しえません。その間隙をついて、後鳥羽法皇が『上皇御謀反』を謀りましたがあえなく失敗。ジェネラルなき幕府はゆるぎなく日本の権力の一翼を担うようになりました。空位のままの幕府将軍の位にまず歴代関白を輩出する九条家出身者を据えます。その後、皇族を将軍職に迎えるようになりましたが、実質的な鎌倉幕府の主たる執権北条家は自ら征夷大将軍になろうとはしませんでした。

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 初代上杉家当主の上杉重房は最初の皇族出身の鎌倉将軍宗尊親王の側近として関東に下向しました。ところがこの宗尊親王が謀反の嫌疑をかけられて京に送還されてしまいます。宗尊親王に限らず、鎌倉幕府の将軍の多くは執権の傀儡であり、長く在位して実権を掌握できないような仕組みになっておりました。また、執権を輩出する北条家も名越流をはじめとする諸家に分かれて勢力争いをしたものですから、そうした政争に巻き込まれやすい立場にあったわけですね。
 宗尊親王失脚と同時に寄る辺を失った上杉重房は、京に帰らず鎌倉幕府の有力御家人である足利泰氏に使えることになります。足利泰氏の妻は北条家の重鎮である名越氏からもらっていたのですが、北条家の内紛により名越光時が粛清されます。そのあおりで、足利泰氏は北条時頼の妹を正室として迎えることを余儀なくされ、名越氏との間に設けた子は庶流として扱われることになりました。これが後に斯波家となる足利尾張守家の起こりです。北条時頼の妹の子は嫡流として扱われ、頼氏と名乗ることになります。その頼氏の妻になったのが、上杉重房の娘でした。一方の足利尾張守家初代当主の足利家氏は北条家から妻をとっているため、足利宗家と尾張守家との関係は少し微妙なものになります。そのせいか、足利頼氏の子、家時は謎の自殺を遂げるに至ります。難太平記に記された伝説によると、源義家の七代子孫が天下をとると、源義家は予言をしたらしい。足利家時はその七代目に当たるわけですが、自らの非力を悟り、自らの命を縮める代償として三代の内に天下を取らしめることを祈ったそうです。その甲斐あってか、家時の孫の足利尊氏が天下を手中に治めました。非常に後付け臭い話ではあります。
 そして、家時の子、貞氏は再び上杉家から妻を迎えることになるわけです。妻の名は上杉清子といいます。彼女の弟が日静です。つまり日静は足利尊氏の叔父にあたるわけですね。彼は師である日印の従者として鎌倉殿中問答に臨み、師が全宗派を論破した様子を記録に残しました。その後、日静は日印から鎌倉の本勝寺と越後の本成寺を譲られて、日印の後継者となります。
 それからしばらくして、鎌倉にいた日静と、京に入った日像はともに人生の大きな転機を迎えることになります。日像の妙顕寺を勅願寺に指定した後醍醐天皇が起こした建武中興はわずか二年足らずで敗れて吉野に逃れた後、上洛した足利尊氏が征夷大将軍に任じられたのです。

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2013年11月28日 (木)

中漠:法華編⑧京都進出

 京都は法華宗が結構盛んな土地柄です。もともと閉鎖的な土地柄に法華宗の少々屈折した過激さを有するところが、京都人の気質にあっているのかなぁ、などとも想像します。とはいっても公家や武家階層に深く根付いているというわけではありません。支配層に食い込んでいるのは、天台・真言と禅でした。京において法華宗徒の中核をなすのは専ら町衆と呼ばれる庶民階層です。

 どんな出来事にも物事の初めというものはありまして、京における法華宗も決して無から生じたわけではありません。京における布教を始めて考えたのは、日朗門流の日像でした。彼は日朗の異父弟にあたります。二人の父親はともに平賀氏出身なので実質兄弟といってもよいのかもしれません。

 日像は京において布教を始めますが、やはり京においては浄土宗も盛んであり、宗論メインの日蓮流のやり方ではトラブルが頻発していたようです。そのせいで日像は京を三度追放されました。流罪を言い渡されて辺地に流されかけたのですが、洛南に潜伏してやり過ごしてほとぼりが冷めた頃にまた説法を始めるということの繰り返しであったといいます。それでもめげずに京で布教を続けていると、救いの手が差し伸べられたのです。それは後醍醐天皇からのものでした。後醍醐天皇は日像のために洛中に寺地を与えます。日像上洛から苦節二十四年の歳月が経過しておりました。
 日像を含め日昭や日朗らは鎌倉の御家人の家系でそこに浸透していったわけですが、京に布教するために必要なコネクションは自ら開拓しなければなりませんでした。そこがトラブルの原因となったわけですが、後醍醐天皇は日像を彼のトラブルごと丸抱えして後ろ盾となったわけです。なぜ、後醍醐天皇はそんなことをしたのでしょう。

 その伏線として1318年(文保二年)、鎌倉幕府は法華宗潰しに走ったという話があります。内管領の長崎円喜が諸宗の高僧を呼んで、法華宗に宗論を挑んだのですね。御家人層の一部にも浸透しているとはいえ、鎌倉幕府にとって法華宗は煙たい存在になっていました。この宗論に法華宗側で受けて立ったのが日朗の弟子の日印でした。日像の兄弟弟子にあたります。もし、この宗論に日印が負ければ、法華宗は潰されることになっていたそうです。しかし、結果は日印が勝利した、と法華宗側の資料は語っています。要するに、鎌倉幕府は法華宗を潰そうとして失敗したわけです。ちなみに、この年に後醍醐天皇は即位しています。
 本来であれば鎌倉幕府が宗論の音頭をとる必要はないはずなのですが、霜月騒動で安達泰盛を討つなどの事件を経て大きくなった鎌倉幕府の権威に様々なものが寄りかかっていたのです。皇室もそうでした。この時皇統は大覚寺統と持明院統の二派に割れ、両派の対立は先鋭化おりました。鎌倉幕府はその中を危ういところでバランスをとりつつ歩みを進めていたわけです。この時、法華宗が潰されなかったのも、鎌倉幕府のバランス志向によるものだったのかもしれません。

 その一方で、後醍醐天皇は宋の朱子学を学んでおり、天皇親政を夢見ておりました。後醍醐天皇の像は自ら独鈷をもち、真言宗立川流の文観を側近とする一方で、自らの子である護良親王を延暦寺の門跡にすえるなど、特定の宗派に帰依するというよりも諸宗の上に君臨しようとしておりました。故に特に法華宗に傾倒していたわけでもなさそうです。神道の中心である皇統の末裔として、諸宗ににらみをきかせたかったのでしょう。しかし、京の日像は三度も追放を受けるなど鎌倉幕府からみて反社会的な存在であったものと思われます。 天皇親政を目指す後醍醐天皇が鎌倉幕府を敵視しておりました。けだし、後醍醐天皇が日像に対し京における活動拠点を与えたのは、鎌倉幕府に対する陽動となることを期待したのではないでしょうか。

 鎌倉幕府が仲介に立った大覚寺統と持明院統との取り決めにおいては、後醍醐天皇は十年で譲位するということになっておりました。それ以上在位しようとするならば、持明院統のみならず、鎌倉幕府とも事を構えねばなりません。結果として後醍醐天皇が挙兵をしたのですが、その直前に事が露見して後醍醐天皇は隠岐島に流罪になってしまいました。しかし、それに相前後して延暦寺の門跡であった護良親王をはじめ、楠正成、赤松円心則村らがゲリラ戦を仕掛け、幕府はこれを鎮圧し損ねるという醜態をさらします。それを挽回するために幕府は足利高氏を派遣しますが、彼は裏で後醍醐天皇に通じており、丹波篠村で反転して幕府の京における拠点である六波羅探題を攻め滅ぼしてしまいました。
 その結果、現れたのが建武の親政です。この建武体制化において、日像の妙顕寺は勅願寺の指定を受けます。鎌倉幕府に三度の追放という弾圧を受けていた日像が後醍醐天皇により寺地を得、さらに建武体制化で勅願寺の指定を受けるのは破格の待遇といっていいでしょう。ただ単に、後醍醐天皇が法華宗を理解したというよりも、日像が京における布教の過程で組織した信徒集団を使って後醍醐天皇のために働かせたというところでしょうか。尚、京における日像の教派は四条門流と呼ばれるようになりました。これが京における法華宗の活動のはしりとなります。

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2013年11月26日 (火)

中漠:法華編⑦六老僧と諸門流

 日蓮には次代を担った六人の高弟がいました。彼らは独自に拠点を持ち、それぞれの宗派を立てました。これを門流と言います。門流はこの後もいくつかに分かれたり統合したりし、また互いに教学の内容や、正統性を戦わせることになりますが、これは浄土宗や浄土真宗にもあった現象でもあります。どの門流が正しくて、どれが間違っているかなどは素人には判別できません。また、長々と鎌倉時代史をやってますが、本稿は一応戦国時代の宗教的様相を知るよすがとしてのよすがとして仏教史を追っておりますので、各門流の正潤にあまり深入りはしないことと致します。以下、日蓮と彼の六人の高弟達とその周辺を簡略に述べてまいります。

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 日蓮は有力な地方豪族をパトロンとすることに成功していました。先に述べた甲斐国波木井の南部実長もそうですが、下総国の印東氏、平賀氏、池上氏は姻族つながりで日蓮を援助しておりました。系図にすると以下のようになります。池上宗仲は日蓮の没地に本門寺の寺域を寄進した人物です。日昭、日朗は六老僧、日像、日輪は日朗門下にあって修業した人物でした。

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 日昭は日蓮が佐渡に流されている間、鎌倉に残って日蓮の教えを説いておりました。当然禅や念仏衆からの風当たりは強かったのですが、彼は自らを天台沙門徒と称して批判を交わして教団を維持しました。浄土宗になぞらえるなら、法然が流罪になった後、京にとどまって活動を続けていた信空や証空(西山派浄土宗の祖)あたりのポジションです。日昭は鎌倉の浜にある妙法華寺を拠点として活動をしました。彼を祖とする法華宗の一派を濱門流と言います。
 日朗は日昭の甥にあたります。日蓮は晩年に病んで身延を下山し常陸国に湯治に赴きましたが、道中で病に倒れ、武蔵国池上にて示寂しました。そこはもともと池上宗仲の屋敷だったわけですが、日朗は池上宗仲の従兄弟、日昭は伯父にあたるわけです。日朗はそこを寺としました。日朗は権力闘争に敗北した比企氏の遺族の支援を受け、鎌倉に妙本寺という寺を開創しておりましたが、池上宗仲の屋敷を師の廟地としたわけです。寺号は池上本門寺と言います。日朗も伯父である日昭と同じく鎌倉を主な活動場所としておりました。

 日昭や日朗は師が追放された地において、師の留守を守るということはかなりの覚悟を必要としたものと思われます。彼は時に天台僧として幕府の求めに応じて祈?をすることも厭いませんでした。そうした活動が御家人層の支持を得て、流罪となった日蓮の赦免を得ることなどの一助となった面はあったかと思われます。
 但し、赦免された日蓮には幕府から蒙古調伏の祈祷を依頼されたのですが、幕府が法華経第一の姿勢を見せないことを理由にこれを拒否します。配流中の日蓮は、弟子達のように幕府に妥協をするよりも、自らの思想を先鋭化させてゆく方向にのめりこんで行ったわけですね。日蓮の恩赦も幕府が蒙古問題を決できず、民心の安定のために日蓮の『予言』を利用しようとしたフシはあります。日蓮はこれを撥ね付けますが、その五ヶ月後にモンゴル帝国が本当に日本国に攻めて来ました。時に1274年(文永十一年)後に言う所の文永の役です。
 日本にとって幸いなことにこの時の侵攻は大事無く、撃退しおおせましたが、『予言』は的中し、信者達の日蓮への期待はいやが上にも高まります。しかし、日蓮は国家守護よりも、法華経の弘法を重視していました。自らは甲斐国波木井(はきり)の地頭南部実長の勧めにより、彼の領地に草庵を建ててそこに引き籠もりました。これが現代も日蓮宗の総本山となっている身延山久遠寺の縁起です。
 晩年、日蓮は体調を崩し常陸国に湯治に向かいますが、常陸までたどり着くことなく、武蔵国池上郷の池上宗仲の屋敷で示寂します。池上宗仲は有力な日蓮信者であり、日昭、日朗、日像ら日蓮の後継者達とは母方の親戚関係にありました。日蓮の七回忌において彼は日蓮の御影像を作って安置しました。日蓮宗の仏壇には南無妙法蓮華経の題目を中心とした曼荼羅の前に祖師日蓮を模した御影像が置かれますが、それの起こりがこれのようですね。そしてそこを寺としました。そこが池上本門寺です。同寺の開基は池上宗仲ですが、寺は日蓮の高弟である日朗に引き継がれました。日朗は池上宗仲の従兄弟にあたります。

 六老僧の中で生前の日蓮の路線に最も忠実であったのは日興と言ってよいでしょう。彼は日蓮の二度の配流に随行し、師の身辺の世話をしました。また後に師の墓所となった身延山久遠寺をまかされたのです。ところが、パトロンである南部実長と路線対立を起こしてしまい、身延山の下山を余儀なくされました。どうも日蓮ばりのストイックな教団運営をしようとして、幕府御家人でもあった南部実長に嫌われたようです。下山した日興は駿河国上野郷の地頭、南条時光という新しいパトロンを得、その領地に大石寺という新しい拠点を立てました。日興の流れを富士門流と言います。
 下山した日興に代わって身延山久遠寺に入ったのが日向です。日興と違って彼は南部実長とウマがあったようですが、他の五老僧達からは身延入りはあまり快く思われていなかったようです。日蓮の法脈における富士門流や身延山の位置づけと教勢は近現代において大きく変わりますが、それは本稿では取り扱いません。

 日蓮の有力檀越に富木常忍という豪族がいました。彼もまた日蓮のパトロンとして活躍しました。但し、彼が出家して日常と名乗ったのは日蓮の死後で、彼は六老僧の中には入っておりません。日常は下総国中山の領地に持仏堂を作りそこを寺としました。法華経寺と言います。彼は日蓮の弟子の一人を養子としました。それが後の六老僧の一人、日頂です。日蓮の生前、1276年(建治二年)に富木常忍は下総国真間にあった真言宗の弘法寺に折伏を仕掛けて住持を追い出して乗っ取り、そこに日頂を入れました。ところが、日頂は養父である日常と折り合いを悪くして、1293年(永仁元年)に日興の富士門流へと走り、重須本門寺の学頭となったと言います。

 六老僧の最後の日持については業績はよくわかりません。池上本門寺に祖師像を作って安置した後、教えを海外に伝えるべく旅立ったとされております。

 日蓮が作った教団の初期段階においては、関東の御家人層の動向と日蓮の思想をどのように広めてゆくかという路線によって、早くも諸派分流が始まっておりました。

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2013年11月23日 (土)

中漠:法華編⑥天台教学の純化

 立正安国論には、禅や念仏などの『新興宗教』を何とかしないと外国の侵略を受けるぞ、と脅す文面があったのは事実です。もっとも幕府は禅や念仏をどうにかするより、騒然とした世情や次第にキナ臭くなってくる海外動静を何とかすることにばかり目が行っており、日蓮の主張をまともに取り合わなかったわけですが、結果として日蓮の主張は一部ではありますが、的中しました。
 1268年(文永五年)高麗国からの使者がモンゴル帝国の国書を携えて来日します。修好を求めたものではありましたが、断ればただではすまないことは自明の理でしょう。日蓮はこれを自らの予言の成就として喧伝し、今からでも遅くないから禅や念仏を弾圧すべしと主張を始めます。しかし、モンゴル帝国は日本国が禅や念仏を保護しているから攻めて来るわけではないので、鎌倉幕府は軍事的防備の方を優先します。
 1271年(文永八年)日蓮は他宗の僧侶に論争を挑んで挑発しますが、それが蒙古侵略前の騒然とした人々の心を刺激しました。やむを得ず、幕府は日蓮を佐渡に流します。その途中で面倒だと思われたのか、死罪にされかけるのですが奇跡が起こって助かったという事件も起こっております。

 立正安国論の中に、法華経を重んじなければ外国の侵略を受けるだろうなどという言辞がなぜ入ったのでしょう。想像するに日蓮が本当に超能力だったり、より現実的には天台宗のネットワークを持っていたり、あるいはひょっとしたら南宋から来朝した禅僧達と対話をしたのかもしれません。
 しかし、文脈を判断するにこれはどうも仏典の引用によるレトリックに過ぎないようです。法華経をないがしろにすると、聖人は国を去り、その後に七難が襲ってくると仁王経という経典に書かれているとし、その七難の内容として、薬師経という別の経典の記述を引いているのです。
 すなわち、人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難と言います。それぞれ、疫病の蔓延、外国からの侵略、星の運行の変化、日蝕や月蝕の発生、風雨の害、旱魃の害を言います。つまり、他国侵逼の難は他の六つの災厄とパッケージされたものなのですね。だから、日蓮は比叡山や清澄寺で学んだ仏典の知識を披歴したに過ぎなかったようにみえます。
 これらの難の中には日蓮が立正安国論を記した時点で実現したもの(人衆疾疫の難、非時風雨の難)もあれば、立正安国論記述後、ずっと後にならないと起こらなかったものもあるのです。よって、厳密に言うならば、立正安国論は『蒙古の襲来を予言』したわけではなく、モンゴル帝国の脅威は『他国侵逼の難』であると読み解いたのです。

 法華経を信じさせようとする余りに世情を煽った日蓮だけが悪いわけではないでしょうが、社会不安は増大しており、鎌倉幕府はやむを得ず、日蓮を佐渡に流します。ここはかつて親鸞が流されたところでもありますね。配流先で日蓮は自らの宗教観を深化させ、彼の思想の大本となった天台宗とはやや異なる独自の宗派を作り上げるに至ります。それが法華宗(日蓮宗)でした。例えば、法華経を最高のものとするところは、天台宗と同じですが、法華宗においては南無妙法蓮華経(私はこの素晴らしい法を説いた蓮華経に帰依します)という題目を唱えることで、仏性を目覚めさせることができると説いたのです。このあたりは称名念仏の影響を受けているのではないかと思われます。称名念仏は南無阿弥陀仏(私は阿弥陀仏に帰依します)と念仏を唱えることです。もともと浄土宗のカウンター勢力として現れた日蓮は題目唱和で称名念仏に対抗したのでした。称名念仏が世の中に受け入れられた理由はお金をかけず、身分を問わずに簡単に実践できることにありました。延暦寺は法華経を重視していることは確かですが、法華経に書かれていることを実践しないと仏性は目覚めないという発想から、修行プログラムが組まれていました。当然、金と時間が必要になります。実践するにはある程度の財と身分と時間がないとできません。
 そこを日蓮は南無妙法蓮華経という題目を唱えることから始めようと説いたのです。仏性の目覚めはそこから起きるとしたのですね。日蓮はもとより念仏を唱えることは無間地獄に陥る所業だと見なしています。題目唱和により仏性を目覚めさせることが、解脱に至る唯一の道であるとしたのです。これにより、浄土宗系宗派がターゲットとしていた地方武士・商人・農民層に対して念仏『南無阿弥陀仏』のカウンターとして法華経の題目『南無妙法蓮華経』をアピールすることができるようになりました。日蓮はこの教えによって関東で多数の支持者を得るに至ります。

 もうひとつは過激な折伏です。折伏とは他宗派の信者に宗論を挑み、法華経に帰依させることです。日蓮が折伏のために用いたロジックは比叡山延暦寺仕込みの精緻なものでした。それを端的に述べたのが四箇の格言です。すなわち、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊というものです。それぞれに浄土系宗派、禅宗、真言宗、律宗に対する批判であり、それなりの根拠のついた主張です。おそらくは延暦寺の学僧達の中で練りこまれた他宗派対策だったのではないかと思われます。親鸞は著書である歎異抄において『法然上人であれば、騙されて地獄に落ちたとしても後悔はしない』という言葉を遺しています。親鸞には叡山の僧侶の誰かに宗論を挑まれて追い込まれた経験もあったのではないかとうかがえます。それほどまでに、比叡山延暦寺の学問は分厚いものでした。
 但し、題目唱和で仏性が目覚めるとは、日蓮によるオリジナル要素です。日蓮は念仏に対抗して、衆目を仏教が本来重んずべき法華経に向けるために情熱を注いだ結果、自らが学んだ天台宗とも違う独自の境地にたどり着いたのでした。

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2013年11月21日 (木)

中漠:法華編⑤バーチャ時頼

 日蓮が寓居していた頃の鎌倉は天災続きでした。1256年(康元元年)八月六日には鎌倉に大風と洪水が襲い、その後に赤疱瘡という伝染病が流行しました。北条時頼も病気にかかって執権職を親族の長時に譲っております。幸い死には至りませんでしたが、執権に復職しないまま権力を握り続けました。権力の源泉が幕府執権にあるのではなく、北条一門の惣領にあることが明らかになったため、彼のこの頃の政治を得宗専制と呼ぶようになります。
 その翌年1257年(正嘉元年)八月二十三日には今度は鎌倉に地震が起こりました。さらに翌年1258年(正嘉二年)八月一日には暴風が吹き荒れ、十月十六日には大雨と洪水が起こっております。この間、飢饉や疫病は蔓延し、治安も悪化する事態に陥っております。
 さらに目を海外に転じれば、1259年(正元元年)に日本国と対馬海峡を隔てた隣国高麗がモンゴル帝国に服属しました。この頃のわが国は内憂と外患の真っ只中にあったわけです。

 これをビジネス・チャンスと書いてしまうのは少々不謹慎ですが、新興の念仏や禅はこれらの天災には無力でした。そこで日蓮はかくも天災が立て続けに起こるのは、人々が正しい教えである法華経を信じずに新興宗教にばかり目を向けているからだと断じます。さらにこのまま放置しておけば蒙古の侵略を受けるであろうと警告までしたのです。
 この主張は広く大衆にインパクトを持って受け入れられました。人々の信仰と自然現象は無関係であるという現代の常識と照らしあわせば、この日蓮の主張は根拠の怪しいものではあります。しかし、人々が求めていたのは科学的正しさではなく、天災から救われる方法でした。日蓮はその回答を明確に示したのです。
 そしてこの主張を『立正安国論』と題する小稿にまとめて、得宗北条時頼に送りつけました。
 立正安国論は『論』のついたタイトルですが、いわゆる論文形式で書かれた文章ではなく、旅客と主人という二人の登場人物による対話からストーリーが進む小説のような形式になっております。これは日蓮が信奉する法華経が多数の説話からなっているところに影響されたのかと思うと少し興味深いですのですが、立正安国論にはさらにおっかない仕掛けが施されておりました。

 立正安国論は旅客と主人の対話からなるのですが、読めばそれぞれが誰のことを指しているのか判るようになっているのですね。すなわち、旅客とは得宗北条時頼のことであり、主人とは日蓮本人です。二人の間に激しい論争は繰り広げられますが、最終的に客は理詰めで説く主人の主張を受け入れ、浄土宗への布施などを取りやめることを決めるわけです。すなわち、これは得宗北条時頼の面前で行われるべき日蓮の折伏行を仮想世界で実行したものだったわけですね。

 表向きには北条時頼は大人の対応をしました。すなわち、ガン無視です。しかし、その翌月に草庵が念仏者の襲撃を受け、さらに翌年にも念仏者に襲われました。立正安国論が得宗に提出されたことを知ったのかもしれません。さらにうがてば、その情報の提供元は北条時頼本人かもしれません。
 日蓮が立正安国論を提出した翌年、日蓮は幕府に逮捕され伊豆の伊東に流されました。やはり立正安国論の内容が幕府を怒らせたのかもしれませんが、立て続けに騒動となっているため、その張本人の保護を兼ねて伊豆に避難させたという見方もありえます。少なくとも、北条時頼は過去に蘭渓道隆を同じ伊豆国の修善寺に流しておりますが、すぐに赦して寺社の建造をさせています。日蓮は伊東に流されている間は安全を確保しておりました。本気で罰するつもりなら、流刑地で暗殺も可能だったはずです。例えば、源頼家などは伊豆の修善寺で暗殺されておりますよね。
 ちなみに、日蓮が伊東流罪になった翌年、蘭渓道隆も甲斐に二度目の『流罪』になっております。やはり騒動が相次いだために、ヤバそうな僧侶達は目の届く遠隔地に保護したと見て良さそうです。蘭渓道隆は配流先の甲斐国東光寺の寺風を禅風にしっかり改めるなど、配流地でやりたい放題しています。そして時頼の死後は彼の菩提を弔うために時頼の最明寺を興禅寺と改め、そこの住持を務めました。さらに言うと、伊東配流を赦されて後、故郷の安房に戻った日蓮は地頭の東条景信率いる念仏者集団に襲われて弟子は殺害されて自身も傷を負うという目にあっています。

 以上のことを総合すると、北条時頼は読みようによっては無礼千万な立正安国論の内容はスルーし、世論鎮静化と人身保護の観点から日蓮を辺地に避難させたと考えるのが妥当なところでしょう。

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2013年11月19日 (火)

中漠:法華編④浄土門論争

 比叡山延暦寺を開いた最澄が中国から持ち帰ったのは、天台教学だけではありませんでした。不完全ながら現世利益を成就するための密教と、僧が仏教僧であることを認められるために不可欠な戒律、そして仏教修業のためのカリキュラムである禅(但し、これは栄西が後に持ち帰ったものとは別系統のものです)です。最澄はその中でも、天台教学すなわち、法華経を最高のものとしました。とはいっても持ち帰ったその他の教学も、継続的に研究をしていました。
 当時の仏教は宗教施設のみならず、中国文明の移入を仲立ちする役割も果たしておりました。国家のニーズとしても、特定の宗派に特化するのではなく、中国の最新の思潮をウォッチする役割を期待していたのですね。日本に入ってくる仏典は漢字で書かれており、自然僧侶は漢学のエキスパートとなります。故に遣唐使などの施設には官僚だけではなく、僧侶が随行していたわけですね。
 そういう事情があったため留学僧が持ち帰った物の中に浄土教に関わる文献が混じったことは不可避でした。比叡山延暦寺は仏教の目的である成仏以外に智慧の大盆としての役割を担っていたわけです。
 比叡山延暦寺は法華経を最高の経典としていますが、その一方で空也、源信、法然などが阿弥陀信仰の学を深めてゆきました。天台宗徒達は、それを苦々しく思い、法然を弾圧します。それは多分、彼らの狭量を示すものではない、と思います。むしろ彼らは法然の教説によって、法華経を中心とした秩序が脅かされることをおそれたのでしょう。

 法然は従来の修行を通して悟る道である聖道門とは別の浄土門という悟りへと向かうルートを指し示しました。浄土門は従来型の仏教から派生したものですが、それ自体が完成された世界観を有しておりました。ぶっちゃけ、浄土門があれば、聖道門がなくともいいわけです。聖道門には厳しい修行や善行などの資格が必要になりますが、浄土門にはそれらを必要としません。成仏への道として聖道門と対置するものとして位置づけたならば、聖道門を学ぼうとするものはいなくなるでしょう。
 比叡山延暦寺はこの法然の突きつけた問い――浄土門をどう扱うか――で揺れ続けました。取るべき道は二つありました。一つは浄土門を完全否定すること。もう一つは、比叡山の学問体系の中に浄土門の居場所を作り、その中に押し込めてしまうことです。後者の場合でも末法には聖道門からの成仏は有り得ないと説くような過激派を潰したり、念仏信者にも聖道門の権威を認めさせたりする必要はあるのですが、一度出来上がった思想をなかったものにすることはまずは不可能です。最終的な落としどころは後者――浄土門の取り込み・融和――になるわけですが、その流れは本来の天台宗の教学とは何の関係もないものでした。比叡山延暦寺には前者を指向する者も数多くおり、そうした方針には不満を抱いておりました。

 日蓮もその一人でした。自らを賤民の子と称したらしいですが、実際の所はよくわかりません。比叡山延暦寺で学問を修めている所をみると、ある程度裕福な階層の出であったのではないかと思われるのですが、本当に賤民の子で、周囲が日蓮の才能を見出して磨き上げた可能性もなくはないです。
 日蓮は博覧強記の人でした。彼は青春時代を比叡山延暦寺で学び、天台宗のみならず、他宗派の教学も学びその教相を理詰めで判尺できる程に実力をつけたのですから。その上で日蓮は天台の教えの通り法華経を中心とした世界観を維持していました。延暦寺による理想の教育の体現者とも言えるでしょう。
 しかし、日蓮自身はそんな延暦寺を他宗派の教学に毒され過ぎていると感じていました。

 延暦寺で学問を修めた日蓮は故郷である安房国で活動を始めます。その頃の東国には宗教上の二つの大きな流れが押し寄せていました。一つは浄土宗の隆盛です。比叡山は京において法然とその弟子達を弾圧しましたが、法然の弟子達は地方に活路を求めていたわけです。法然の弟子、親鸞は佐渡に流された後に赦されるのですが、その後も晩年になるまで京に戻らず関東に拠点を定めて布教活動をおこなっておりました。法然の弟子、弁長は西国に下って鎮西派を立ち上げました。その弟子の良忠は東国に向かい、関東の豪族千葉氏の外護のもと、鎌倉を中心に活動をし、教勢を広げておりました。
 もう一つは臨済宗の蘭渓道隆です。南宋出身の彼は東福寺の円爾の招請を受けて来日し、時の執権北条時頼の帰依を得ていました。それまでの臨済宗諸寺院は栄西流の天台・真言・禅の三宗兼修が主流だったのですが、蘭渓道隆はこれを中国風の禅宗専門寺院に作り変えてしまっていたのです。もちろん延暦寺などはこれに反発したり、蘭渓道隆がモンゴルのスパイではないかとの疑いをかけられたりして伊豆に流されたりしています。ただ、その処罰は緩いもので、その間流刑地であるはずの伊豆にあった真言宗寺の修善寺はしっかり中国風禅宗寺院に作りかえられたりしました。そしてすぐに鎌倉に呼び戻されています。

 日蓮はまず地元の清澄寺を拠点にして念仏排撃を始めますが、その当時、その地の地頭東条景信は念仏者でした。彼と諍いを起こして、清澄寺には居られなくなって、鎌倉に流れます。そこで目にしたのは三宗兼修(これだって日蓮の視点からは赦しがたい汚濁であるのですが)の諸寺院が中国風禅寺に塗り替えられている光景だったのです。

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2013年11月16日 (土)

中漠:法華編③依って立つところの法華経

 天台教学がもっとも重んじたのが妙法蓮華経、すなわち法華経です。素人解釈で恐縮なのですが、法華経の内容はどんなものなのかを本稿で講じたいと思います。

 まず、大前提として、法華経に限らず、仏典(いわゆるお経)と呼ばれるものは仏教の教祖である仏陀が著述したものではありません。仏陀が開いた原始仏教教団の中で、仏陀の教えとして伝えられたものが教団の中で取捨選択、編集されて書かれたものです。そして、後世において、仏典を研究する過程で得られた真理を仏陀の行いに仮託して新たな仏典が書かれたこともありました。そこには地域的な習俗も取り入れられたりしております。例えば、われわれ日本人は毎年八月十五日にお盆の供養を行いますが、その元になった盂蘭盆会は仏陀の時代はもちろん、インドにおいて執り行われたことはありません。仏教が日本に伝来する過程で中国の習俗が仏典の中に紛れ込んで始まったものだそうです。

 阿弥陀仏に帰依する浄土教もインドが発祥ではありますが、仏陀の教えという世界観を借りた新たなる物語に近いものです。浄土教の特徴は仏陀の教えには耐用年数があると考え、耐用期限の切れた仏陀に代わって、阿弥陀如来が後世の衆生を救うというものです。浄土教が編まれた時代においても、既に異なる観点から様々な仏典が編まれておりました。そして仏典のそれぞれの教えに矛盾が生じるようになっておりました。時代が下るにつれてその時代の価値観に応じた新たな仏典が編まれてしまうため、オリジナルの仏陀の思想は未来においては消失してしまうと考えたなら、その発想はあながち間違いでもないでしょう。
 但し、その考え方は仏教教団自身の存続を脅かすものでした。妙法蓮華経は仏陀その人が編纂したものではないものの、仏陀の衣鉢を継ぐ仏教教団の中で育まれてきた教えの集大成です。
 仏典相互の矛盾は仏教教団においても、大きな問題として捉えられておりました。そして、浄土教が出来上がる以前にその正統性を担保する解を用意していたのです。それが方便と久遠実成です。

 方便とは現代語にある『嘘も方便』の方便のことです。現代語においては嘘も場合によっては許されるという意味あいですが、仏教用語である方便は微妙にニュアンスが異なります。
 簡潔にいえば、方便とは悟りへの至り方という意味です。仏陀の至った境地に至るにはどのようにすればよいのか、それを探求するのが仏教教団の仕事でした。
 真理に至る道筋は一つではあるものの、それを理解するレベルに達するための工程は様々ある。仏性という悟りに至るための素養がなければ、唯一の真理を前にしても役に立たないということだそうです。
 仏典相互の矛盾の発生原因は、真理を説く前段階として、相手の理解力に見合った手段がとられた結果にある。それが方便であるということなのですね。

 方便については以上の説明でご理解いただけたと思いますが、では仏教徒が方便で仏性をよびさまされた衆生が帰依すべき真理は方便の中に埋もれてしまうのではないかという疑問がわきます。それに対する回答が久遠実成なのです。
 仏陀が悟りを開いたのは紀元前五世紀あたりのインドにおいてではなく、それよりもはるか昔(久遠)に悟りを得(実成)ており、釈迦牟尼は仏陀が輪廻転生を重ねた生まれ変わりの一人であるという考え方なのですね。これが意味することは、悟りは時空を超越しているということです。この論に立つならば、仏陀の教えに耐用年数があると考えるのは誤りということになります。まず第一に悟りを得たのは紀元前五世紀の仏陀だけではないということ。久遠の昔から紀元前五世紀の期間を経ても同じ悟りに至れるということなのです。そして、明日のあなたのすぐ隣に、悟りを得た仏陀が現れてもそれは何の不思議もないことになるのですね。すなわち、天台教学でいうところの仏陀が得たという悟りの境地は永遠のもの、時間を超越したものなのです。

 そのことを説いたのが法華経であるそうです。法華経で用いられているレトリックは仏陀とその弟子達、菩薩や神々が現れて種々の説話を語らいながら仏を正しく信じる人々の救済を約束する物語です。般若心経が比較的短い文章の中で色即是空などの抽象的概念を語っていることに比べて、大部の中で仏陀や神々が魂の救済を約束する物語を綴る法華経は、読みようによってはお経というよりは、壮大な世界観を備えた伝奇小説であるかのようにも感じられます。法華経は人は誰でも仏性を持つ。それを輪廻の繰り返しの中で育ててゆけば、悟りへと至れると約束しております。

 その観点からすると、仏陀による救済をもはやあり得ないことを前提とする阿弥陀信仰は相容れないものということになってしまうわけなのですね。比叡山延暦寺はこの法華経を中心に据えて、密教や禅、戒律の研究を併行しておりました。阿弥陀信仰の元となる経典はインド仏教から大乗仏教が派生する過程で、法華経の成立からそう遠くない時点で成立したものです。例えば中国に漢訳仏典を翻訳移入した鳩摩羅什は法華経の漢訳を行いましたが、同時に仏説阿弥陀経という阿弥陀信仰の経典も漢訳していたのです。日本においては中国からそれらの教えが同時並行的に移入されました。流入する漢訳仏典の中から阿弥陀信仰は西方浄土を模したといわれる平等院鳳凰堂や、空也・源信が阿弥陀による救済を説くなどの影響をもたらし、法然が従来型の聖道門とは別の浄土門を説く浄土宗を開く形に結実しました。空也・源信・法然はいずれも延暦寺で学んだ僧だったのですね。
 その説は法華経を最高とする比叡山延暦寺の学問ヒエラルキーを脅かすものであると考えられました。浄土宗は比叡山発祥ではありますが、これを最初に弾圧したのも、比叡山であったわけです。
 比叡山で学んだ日蓮もまた、その中の一人でありました。

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2013年11月14日 (木)

中漠:法華編②母胎としての延暦寺

 日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の代において、朝鮮半島の百済王より仏像・仏具が献上されたところから始まるとされています。仏教は当初、有力豪族である蘇我一族が外護していたのですが、それが大化の改新で滅ぼされ、我が国に律令制が導入されます。
 それまでの日本の政治は天皇を中心とする豪族連合であり、権力闘争をする豪族達の勢力均衡の中でなりたっておりました。律令制度は、大陸の広大な大地を統治するために考え出された官僚機構を擁する制度であり、その移植への道のりは決して平たんなものではなかったことは想像に難くありません。

 仏教は国家の制度に組み込まれてゆきました。聖武天皇の発願により東大寺に大仏を建立することになります。その建立のために日本全土に国分寺と呼ばれる官寺を配します。朝廷と国司のネットワークの構築と並行して、大和国に置かれた諸寺院を中心とした官寺のネットワークも日本全国に広がりました。道鏡の政治への容喙も、その流れの延長線上にあったものとして理解していいでしょう。道鏡は皇位簒奪を企てたと言われておりますが、これはどうやら俗説らしいです。失脚して下野国に流されたのは確かですが、この時代皇位を狙ったと疑われただけで皇子の何人かは死を賜っているのですから、生きて流されたという事実自体が簒奪未遂は後付けであることを物語っているでしょう。

 壬申の乱以降、皇位は天武天皇(=大海人皇子)系の皇統にあったわけですが、それが称徳天皇の代で途切れてしまいます。その後を継いだのが、天智天皇系の光仁天皇、そして桓武天皇でした。
 律令制への移行に伴う権力争奪戦は藤原北家が最終的な勝利を手にし、他の豪族や皇族達を圧倒することで一応の決着をみます。桓武天皇は律令制度にもメスをいれます。輸入した官僚組織の中で、うまく運営できない機構については、令外官というものを作ってこれを代行させました。検非違使や征夷大将軍なんかがそうです。検非違使を作ったために京職(右京大夫・左京大夫)と呼ばれる都の治安を守る当初組織は名ばかりになったわけですが、その名は後世において戦国武将が争って手に入れようとすることになります。

 仏教においても同様でした。今でこそ、仏教は祭祀を司るものでしかありませんが、当時の人々の目から見れば、仏教は科学に比すべき学問です。奈良時代の仏教は六つの宗派がありました。法相宗 (唯識)、三論宗 (中論・十二門論・百論)、?舎宗、成実宗 (成実論)、華厳宗 (華厳経)、律宗 (四分律) の六つです。これらを称して南都六宗と言いますが、後の中世発祥の仏教のように各宗派で教団を形成するわけではなく、法相学、三論学と言うべき仏教を研究する学派のようなものだったと言います。

 統治には学問が必要なことは間違いはないのですが、桓武天皇は南都諸寺院の影響を受けない平安京のための寺を求めておりました。平安京は四神相応の地の条件に合っていると言われています。風水の考え方で北に山、南に湖、東に川、西に大道があると都として栄えると言われているそうです。さらに北東の方角は丑寅、鬼門と言い、この方角から災いが訪れるとされているので、ここに魔除けを置くことがあります。京の鬼門は比叡山にあたります。そこに最澄は延暦寺を建てました。この一事をもっても、朝廷は延暦寺に京都を中心とした国家鎮護の役割を期待したと言えるでしょう。

 このニーズに基づき、最澄が唐に渡って最新の仏教を学んで帰ってきました。最澄が唐から持ち帰ったのは、天台教学・戒律・密教・禅の四つの教学でした。比叡山延暦寺においては、その四つの教学が組みこまれていました。天台教学は大乗仏教の思想体系の一部であり、詳細は後ほど解説します。戒律は仏僧が守るべきルールのことですが、中国ではこのルールを正しく学んで修業した者を正式な僧として認める制度があり、これを真似て日本の朝廷が国家プロジェクトとして中国の律宗僧鑑真を招き、国家公認の受戒機関を作りました。これを戒壇と言います。

奈良時代の仏教体制においては南都の東大寺、筑紫国大宰府の観世音寺、下野国薬師寺に戒壇を築きました。これを称して天下の三戒壇と言います。逆に言うと戒壇なくしては、僧侶身分が認められることがないということです。最澄は延暦寺にも戒壇を設けてもらえるよう運動をしましたが、生前には成就せず、死後になってようやく認められました。
 密教は小乗・大乗に対する金剛乗(ヴァジラヤーナ)と呼ばれる特殊な仏教です。神秘主義的な修行を通して現世利益を成就するものとして始まったそうです。一年足らずの短期間で四つの教学を学んだ最澄も密教については本腰をいれられず、やむを得ず同時期に留学してみっちり密教を学んだ空海に頭を下げて勉強をさせてもらったそうです。

 最澄が持ち帰った禅は、後に栄西や道元が宋から持ち帰った南方禅とは別系統の禅宗です。比叡山延暦寺は日本における天台宗の総本山ですが、そこでは天台教学だけではなく、別宗派も一緒に研究できる余地が最初からあったわけです。
 最澄の弟子の円仁は入唐して密教を学んで帰りましたが、その折に五会念仏を学び、それを延暦寺の修行カリキュラムの中に加えています。この五会念仏は浄土教から来たものだったりします。のちに法然が浄土宗を立ち上げますが、その種は円仁がもたらしたものだったわけですね。

 延暦寺は日本における天台宗の総本山ですが、天台教学のみをやっていただけではなく、いわゆる総合大学的な雰囲気のある教団でした。
 それは智慧の大盆と呼ぶべきもので、延暦寺の上にはさまざまな教派の研究がなされていたわけです。いわば延暦寺は知の探求の場を与える組織だったということができるかもしれません。それぞれの教派に自らの教義を深化させる場だったわけです。それを適切に運営するためには、一つの教派が別の教派を完全否定するなどということはやってはいけないことになるわけですね。

 反面宗教というものは、正しさの基準を示すものでもあります。相反する教学が互いに矛盾する規範を示すとすれば、どこかで正邪を判断しなければなりません。しかし、延暦寺がそれをやるとすれば、それまでに蓄積した他教派についての探求の成果を全て放棄することになります。それは延暦寺自身の価値をおとしめることになりますので、できない相談だったことでしょう。

 臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、法華宗に対して延暦寺は戦闘的な対応をとってきましたが、それは決して理由のないことではなく、今あげた教派は自らの教義を絶対正義とし、互いに他を否定する傾向にありました。それは延暦寺の諸宗共存路線とは真っ向から対立するものだったわけですね。

 最後に天台宗の総本山である比叡山延暦寺で学ぶ天台教学が最も重んじた教典があります。これが妙法蓮華経、いわゆる法華経と呼ばれるものでした。

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2013年11月12日 (火)

中漠:法華編①法華という呼称について

 今回から法華編と題して、日蓮及びその法脈にかかる一稿を設けたいと思います。要するに日蓮宗を取り上げるわけなのですが、本稿ではあえて法華という呼称で通したいと思います。現代的な呼称としては日蓮宗が一般的であることは承知しておりますが、以下に理由を述べさせていただきます。

 まず、現代の日蓮宗という正式な呼称は近代において日蓮系各宗派が離合集散した結果成立したという事実があります。本稿では近世以降を扱う予定はありませんが、中世という時代区分の史実を扱うに当たり、歴史的な呼称を使いたいと考えております。
 とは言え、私は私のブログにおいて現代の浄土真宗本願寺派、大谷派につながる宗派のことを本願寺教団と呼んでおります。歴史的呼称を重視するのならば、本願寺教団ではなく当時の呼称を用いて一向宗と呼ぶべきとなるかもしれません。但し、その呼称の元になった一向という僧は実在して一向宗という宗派を実際に起こしております。この宗派は浄土真宗とも混交をし、その結果本願寺系の宗派が世上、一向宗と呼ばれるようになったわけですが、実際には一向の興した一向宗は法然の浄土宗から分かれた時宗に近い方法論を取る一派であり、本願寺系の宗派とも異なる物であるので、自らの宗派をそのように呼ばないよう、本願寺八世の蓮如が自らの門徒達に言い渡したこともあるくらいです。本願寺は現代浄土真宗本願寺派と大谷派に分かれていて、他の真宗宗派の仏光寺派や、高田専修寺派などの呼称は使いにくい、とは言っても当該宗派の中心になっているものは本願寺であることは間違いないので、あえて本願寺教団という呼称を用いております。
 その一方で、日蓮系の諸宗派の教義は多岐に亘っており、浄土真宗と違って特定の本山が宗派の名前となっている例は少なく、正統性を強調する為か、宗祖の名前か法華の名号を掲げる例が多いので、浄土真宗諸派とは事情が異なっております。また、宗祖を本尊に置いている宗派もあれば、置いていない宗派もあり、また宗祖である日蓮も法華経を奉じていたことは間違いありません。故に、中世の歴史を取り扱う本稿においては日蓮の法脈と中世京都の歴史との関わりを述べるに当たり、主に法華の呼称を用いたいと思います。

 法華の教えは、特に当時の日本国の首都である京都という都市において、独特な形で隆盛を極めました。それがどのようなものに由来するのかを本稿で描写して見たいと思います。
 洛中の法華宗隆盛のきっかけとは、法華宗が後醍醐天皇の皇子や足利尊氏の母方の血筋である上杉氏を自らの宗派にとりこんで食い込む工作を行うことにありまました。京の為政者達にとって法華の教えは、法華宗徒を延暦寺に対抗させるために第二の天台宗の拠点を京の町中においたことにありました。そもそも洛中における寺院とは東寺のような官寺でなければ、壬生寺などのいくつかの例外とされた祠くらいしかありませんでした。それを、建武の親政を倒して実権を握った足利兄弟が鎌倉と同じようなノリで天皇のための禁域であった洛内に禅宗寺を建て、そのついでに法華寺が洛内に進出することが許されたのです。それ以後、法華宗は京の特に町衆の中に熱心に受け入れられることになり、いわゆる京都人気質の形成に大きな影響を残すことになります。本稿では、法華宗がどのように成立し、中世京都においてどのような展開をしていったのかを見てゆきます。

 法華宗には数多くの分派があるのですが、宗祖である日蓮がよりどころにした経典は妙法蓮華経です。法華宗については他宗派と政治的な立場についてのスタンスはかなり異なっております。端的に言えば、仏法を主として王法を従としているところです。故に、権力者が法華宗に帰依してしまえば、主君の命令よりも仏法に従わざるを得なくなる理屈なのですね。このあたり、本願寺教団などの浄土教系統の宗派や禅宗諸派とは一線を画しております。
 本編では法華宗の特徴を語るために、その母胎となった旧仏教の話をします。すでに『中世史漠談』や『川の戦国史』で度々触れているとおり、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗等、中世に起こった仏教諸派は全て旧仏教、特に天台宗延暦寺の弾圧をどのようにかわしてゆくかという問題に直面したの末に宗派の輪郭を形作りました。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞は延暦寺の弾圧にあって流罪になりましたし、臨済宗の栄西は禅密兼修を打ち出し弾圧を逃れ、蘭渓道隆が北条時頼の外護を受けて初めて禅宗が形を得たことになりました。それまでは道元のように旧仏教勢力が比較的弱い北陸に逃れるしかなかったのです。

 それほどまでに旧仏教系の力は強かったのですが、この法華宗は室町時代に入って洛中における町衆に受容されてゆきます。そして、そのこと自体が前代には未聞のことでした。法華宗は延暦寺の天台宗が分派独立したものであったが故に、延暦寺の弾圧は情け容赦ないものではありましたが、それにも負けずに京において存続し続け、京文化の中核を担うに至るまでの歴史を不十分な形ではありますが、書いてゆきたいと思います。

 尚、記述の中で各宗派の教義に言及しているところがありますが、そこははっきり言って半可通の思い込みの産物です。一応、歴史的事実は追っているつもりではありますが、各宗派の教義の理解については、不正確なところがままあるかと思いますので、その点はご容赦賜りたいと思います。

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