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2013年11月12日 (火)

中漠:法華編①法華という呼称について

 今回から法華編と題して、日蓮及びその法脈にかかる一稿を設けたいと思います。要するに日蓮宗を取り上げるわけなのですが、本稿ではあえて法華という呼称で通したいと思います。現代的な呼称としては日蓮宗が一般的であることは承知しておりますが、以下に理由を述べさせていただきます。

 まず、現代の日蓮宗という正式な呼称は近代において日蓮系各宗派が離合集散した結果成立したという事実があります。本稿では近世以降を扱う予定はありませんが、中世という時代区分の史実を扱うに当たり、歴史的な呼称を使いたいと考えております。
 とは言え、私は私のブログにおいて現代の浄土真宗本願寺派、大谷派につながる宗派のことを本願寺教団と呼んでおります。歴史的呼称を重視するのならば、本願寺教団ではなく当時の呼称を用いて一向宗と呼ぶべきとなるかもしれません。但し、その呼称の元になった一向という僧は実在して一向宗という宗派を実際に起こしております。この宗派は浄土真宗とも混交をし、その結果本願寺系の宗派が世上、一向宗と呼ばれるようになったわけですが、実際には一向の興した一向宗は法然の浄土宗から分かれた時宗に近い方法論を取る一派であり、本願寺系の宗派とも異なる物であるので、自らの宗派をそのように呼ばないよう、本願寺八世の蓮如が自らの門徒達に言い渡したこともあるくらいです。本願寺は現代浄土真宗本願寺派と大谷派に分かれていて、他の真宗宗派の仏光寺派や、高田専修寺派などの呼称は使いにくい、とは言っても当該宗派の中心になっているものは本願寺であることは間違いないので、あえて本願寺教団という呼称を用いております。
 その一方で、日蓮系の諸宗派の教義は多岐に亘っており、浄土真宗と違って特定の本山が宗派の名前となっている例は少なく、正統性を強調する為か、宗祖の名前か法華の名号を掲げる例が多いので、浄土真宗諸派とは事情が異なっております。また、宗祖を本尊に置いている宗派もあれば、置いていない宗派もあり、また宗祖である日蓮も法華経を奉じていたことは間違いありません。故に、中世の歴史を取り扱う本稿においては日蓮の法脈と中世京都の歴史との関わりを述べるに当たり、主に法華の呼称を用いたいと思います。

 法華の教えは、特に当時の日本国の首都である京都という都市において、独特な形で隆盛を極めました。それがどのようなものに由来するのかを本稿で描写して見たいと思います。
 洛中の法華宗隆盛のきっかけとは、法華宗が後醍醐天皇の皇子や足利尊氏の母方の血筋である上杉氏を自らの宗派にとりこんで食い込む工作を行うことにありまました。京の為政者達にとって法華の教えは、法華宗徒を延暦寺に対抗させるために第二の天台宗の拠点を京の町中においたことにありました。そもそも洛中における寺院とは東寺のような官寺でなければ、壬生寺などのいくつかの例外とされた祠くらいしかありませんでした。それを、建武の親政を倒して実権を握った足利兄弟が鎌倉と同じようなノリで天皇のための禁域であった洛内に禅宗寺を建て、そのついでに法華寺が洛内に進出することが許されたのです。それ以後、法華宗は京の特に町衆の中に熱心に受け入れられることになり、いわゆる京都人気質の形成に大きな影響を残すことになります。本稿では、法華宗がどのように成立し、中世京都においてどのような展開をしていったのかを見てゆきます。

 法華宗には数多くの分派があるのですが、宗祖である日蓮がよりどころにした経典は妙法蓮華経です。法華宗については他宗派と政治的な立場についてのスタンスはかなり異なっております。端的に言えば、仏法を主として王法を従としているところです。故に、権力者が法華宗に帰依してしまえば、主君の命令よりも仏法に従わざるを得なくなる理屈なのですね。このあたり、本願寺教団などの浄土教系統の宗派や禅宗諸派とは一線を画しております。
 本編では法華宗の特徴を語るために、その母胎となった旧仏教の話をします。すでに『中世史漠談』や『川の戦国史』で度々触れているとおり、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗等、中世に起こった仏教諸派は全て旧仏教、特に天台宗延暦寺の弾圧をどのようにかわしてゆくかという問題に直面したの末に宗派の輪郭を形作りました。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞は延暦寺の弾圧にあって流罪になりましたし、臨済宗の栄西は禅密兼修を打ち出し弾圧を逃れ、蘭渓道隆が北条時頼の外護を受けて初めて禅宗が形を得たことになりました。それまでは道元のように旧仏教勢力が比較的弱い北陸に逃れるしかなかったのです。

 それほどまでに旧仏教系の力は強かったのですが、この法華宗は室町時代に入って洛中における町衆に受容されてゆきます。そして、そのこと自体が前代には未聞のことでした。法華宗は延暦寺の天台宗が分派独立したものであったが故に、延暦寺の弾圧は情け容赦ないものではありましたが、それにも負けずに京において存続し続け、京文化の中核を担うに至るまでの歴史を不十分な形ではありますが、書いてゆきたいと思います。

 尚、記述の中で各宗派の教義に言及しているところがありますが、そこははっきり言って半可通の思い込みの産物です。一応、歴史的事実は追っているつもりではありますが、各宗派の教義の理解については、不正確なところがままあるかと思いますので、その点はご容赦賜りたいと思います。

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