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2013年11月30日 (土)

中漠:法華編⑨日印と日静

 日蓮が六人の高弟を持ったように、六老僧の一人、日朗もまた有能な弟子に恵まれました。法華宗を京にはじめてもたらした日像もそうでしたが、もう一人、特筆すべきでしが日印です。北条高時に仕える内管領長崎円喜入道が諸宗の高僧を呼んで法華宗に宗論を挑んだ話を先稿にていたしましたが、この時に法華宗代表として宗論に応じたのが日印でした。彼は怜悧な知性を持って諸宗派の論難を次々に論破し、見事法華宗を守り通したと言います。日蓮本人がそうだったように、この宗派においては卓抜したディベーターを多く輩出する傾向にあるようです。紛れもなく日印もまたその一人でした。この鎌倉宗論のみならず、日印は遊行と折伏を重ねることによって日朗門流を盛りたててゆきました。
 正統性はおくとして、初期の法華宗の教団においてはこの日朗系の門流がもっとも勢いがあったように見えます。ところが、日朗が示寂した後、日朗の門流は分裂するに至ります。日印自らは師である日朗から正当に後継者として選ばれたと称しましたが、他の弟子たちがそれを認めなかったのです。日蓮直弟子の日昭と日朗、そして日像は血縁関係にありました。さらに日蓮入滅の地、池上本門寺の開基となった池上宗仲も日朗、日像の血縁にあたります。日像は京にいましたが、彼の実弟である日輪は日朗とともに鎌倉を中心に活動し、日朗の死後は本門寺を継ぎます。日朗の門流は血縁関係ある親族で固められており、自らの才をたのむ日印はそれを打破したかったのではないか、と想像します。日印は日朗の遺品である日蓮ゆかりの重宝をめぐって他の弟子達とトラブルを起こし、分裂は決定的になります。

 但し、日印は転んでもただで起きる人物ではありませんでした。有力な御家人をパトロンにつけることに成功したのです。彼にはその有力御家人出身の直弟子がおりました。名を日静といいます。彼の父親は上杉頼重といい、母親は足利氏出身でした。
 上杉というと戦国武将の上杉謙信が有名ですが、彼は長尾氏出身で関東管領の家格を持っていた上杉氏の名跡を継いだにすぎません。その上杉氏はもともとは藤原北家の勧修寺家出身の公家でありました。ちなみに家名の由来である勧修寺は山城と近江の国境、山科にある真言宗の寺で、勧修寺家はこの寺の旦那として結束した一族です。延暦寺や日蓮が始めた法華宗との直接の関係はありませんでした。本家の方は朝臣として政務を記した日記が後世に残されており、研究家の飯のタネとなっております。
 鎌倉幕府とは『幕府=幕僚たちの府庁』という名が示すように辺境最前線に置かれた出張政庁でありました。その存在はジェネラルとしての将軍がいることが大前提です。鎌倉における初代のジェネラルは源頼朝でしたが、その血統はわずか三代で滅亡しました。ジェネラルなくしては幕府は存続しえません。その間隙をついて、後鳥羽法皇が『上皇御謀反』を謀りましたがあえなく失敗。ジェネラルなき幕府はゆるぎなく日本の権力の一翼を担うようになりました。空位のままの幕府将軍の位にまず歴代関白を輩出する九条家出身者を据えます。その後、皇族を将軍職に迎えるようになりましたが、実質的な鎌倉幕府の主たる執権北条家は自ら征夷大将軍になろうとはしませんでした。

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 初代上杉家当主の上杉重房は最初の皇族出身の鎌倉将軍宗尊親王の側近として関東に下向しました。ところがこの宗尊親王が謀反の嫌疑をかけられて京に送還されてしまいます。宗尊親王に限らず、鎌倉幕府の将軍の多くは執権の傀儡であり、長く在位して実権を掌握できないような仕組みになっておりました。また、執権を輩出する北条家も名越流をはじめとする諸家に分かれて勢力争いをしたものですから、そうした政争に巻き込まれやすい立場にあったわけですね。
 宗尊親王失脚と同時に寄る辺を失った上杉重房は、京に帰らず鎌倉幕府の有力御家人である足利泰氏に使えることになります。足利泰氏の妻は北条家の重鎮である名越氏からもらっていたのですが、北条家の内紛により名越光時が粛清されます。そのあおりで、足利泰氏は北条時頼の妹を正室として迎えることを余儀なくされ、名越氏との間に設けた子は庶流として扱われることになりました。これが後に斯波家となる足利尾張守家の起こりです。北条時頼の妹の子は嫡流として扱われ、頼氏と名乗ることになります。その頼氏の妻になったのが、上杉重房の娘でした。一方の足利尾張守家初代当主の足利家氏は北条家から妻をとっているため、足利宗家と尾張守家との関係は少し微妙なものになります。そのせいか、足利頼氏の子、家時は謎の自殺を遂げるに至ります。難太平記に記された伝説によると、源義家の七代子孫が天下をとると、源義家は予言をしたらしい。足利家時はその七代目に当たるわけですが、自らの非力を悟り、自らの命を縮める代償として三代の内に天下を取らしめることを祈ったそうです。その甲斐あってか、家時の孫の足利尊氏が天下を手中に治めました。非常に後付け臭い話ではあります。
 そして、家時の子、貞氏は再び上杉家から妻を迎えることになるわけです。妻の名は上杉清子といいます。彼女の弟が日静です。つまり日静は足利尊氏の叔父にあたるわけですね。彼は師である日印の従者として鎌倉殿中問答に臨み、師が全宗派を論破した様子を記録に残しました。その後、日静は日印から鎌倉の本勝寺と越後の本成寺を譲られて、日印の後継者となります。
 それからしばらくして、鎌倉にいた日静と、京に入った日像はともに人生の大きな転機を迎えることになります。日像の妙顕寺を勅願寺に指定した後醍醐天皇が起こした建武中興はわずか二年足らずで敗れて吉野に逃れた後、上洛した足利尊氏が征夷大将軍に任じられたのです。

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