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2013年11月14日 (木)

中漠:法華編②母胎としての延暦寺

 日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の代において、朝鮮半島の百済王より仏像・仏具が献上されたところから始まるとされています。仏教は当初、有力豪族である蘇我一族が外護していたのですが、それが大化の改新で滅ぼされ、我が国に律令制が導入されます。
 それまでの日本の政治は天皇を中心とする豪族連合であり、権力闘争をする豪族達の勢力均衡の中でなりたっておりました。律令制度は、大陸の広大な大地を統治するために考え出された官僚機構を擁する制度であり、その移植への道のりは決して平たんなものではなかったことは想像に難くありません。

 仏教は国家の制度に組み込まれてゆきました。聖武天皇の発願により東大寺に大仏を建立することになります。その建立のために日本全土に国分寺と呼ばれる官寺を配します。朝廷と国司のネットワークの構築と並行して、大和国に置かれた諸寺院を中心とした官寺のネットワークも日本全国に広がりました。道鏡の政治への容喙も、その流れの延長線上にあったものとして理解していいでしょう。道鏡は皇位簒奪を企てたと言われておりますが、これはどうやら俗説らしいです。失脚して下野国に流されたのは確かですが、この時代皇位を狙ったと疑われただけで皇子の何人かは死を賜っているのですから、生きて流されたという事実自体が簒奪未遂は後付けであることを物語っているでしょう。

 壬申の乱以降、皇位は天武天皇(=大海人皇子)系の皇統にあったわけですが、それが称徳天皇の代で途切れてしまいます。その後を継いだのが、天智天皇系の光仁天皇、そして桓武天皇でした。
 律令制への移行に伴う権力争奪戦は藤原北家が最終的な勝利を手にし、他の豪族や皇族達を圧倒することで一応の決着をみます。桓武天皇は律令制度にもメスをいれます。輸入した官僚組織の中で、うまく運営できない機構については、令外官というものを作ってこれを代行させました。検非違使や征夷大将軍なんかがそうです。検非違使を作ったために京職(右京大夫・左京大夫)と呼ばれる都の治安を守る当初組織は名ばかりになったわけですが、その名は後世において戦国武将が争って手に入れようとすることになります。

 仏教においても同様でした。今でこそ、仏教は祭祀を司るものでしかありませんが、当時の人々の目から見れば、仏教は科学に比すべき学問です。奈良時代の仏教は六つの宗派がありました。法相宗 (唯識)、三論宗 (中論・十二門論・百論)、?舎宗、成実宗 (成実論)、華厳宗 (華厳経)、律宗 (四分律) の六つです。これらを称して南都六宗と言いますが、後の中世発祥の仏教のように各宗派で教団を形成するわけではなく、法相学、三論学と言うべき仏教を研究する学派のようなものだったと言います。

 統治には学問が必要なことは間違いはないのですが、桓武天皇は南都諸寺院の影響を受けない平安京のための寺を求めておりました。平安京は四神相応の地の条件に合っていると言われています。風水の考え方で北に山、南に湖、東に川、西に大道があると都として栄えると言われているそうです。さらに北東の方角は丑寅、鬼門と言い、この方角から災いが訪れるとされているので、ここに魔除けを置くことがあります。京の鬼門は比叡山にあたります。そこに最澄は延暦寺を建てました。この一事をもっても、朝廷は延暦寺に京都を中心とした国家鎮護の役割を期待したと言えるでしょう。

 このニーズに基づき、最澄が唐に渡って最新の仏教を学んで帰ってきました。最澄が唐から持ち帰ったのは、天台教学・戒律・密教・禅の四つの教学でした。比叡山延暦寺においては、その四つの教学が組みこまれていました。天台教学は大乗仏教の思想体系の一部であり、詳細は後ほど解説します。戒律は仏僧が守るべきルールのことですが、中国ではこのルールを正しく学んで修業した者を正式な僧として認める制度があり、これを真似て日本の朝廷が国家プロジェクトとして中国の律宗僧鑑真を招き、国家公認の受戒機関を作りました。これを戒壇と言います。

奈良時代の仏教体制においては南都の東大寺、筑紫国大宰府の観世音寺、下野国薬師寺に戒壇を築きました。これを称して天下の三戒壇と言います。逆に言うと戒壇なくしては、僧侶身分が認められることがないということです。最澄は延暦寺にも戒壇を設けてもらえるよう運動をしましたが、生前には成就せず、死後になってようやく認められました。
 密教は小乗・大乗に対する金剛乗(ヴァジラヤーナ)と呼ばれる特殊な仏教です。神秘主義的な修行を通して現世利益を成就するものとして始まったそうです。一年足らずの短期間で四つの教学を学んだ最澄も密教については本腰をいれられず、やむを得ず同時期に留学してみっちり密教を学んだ空海に頭を下げて勉強をさせてもらったそうです。

 最澄が持ち帰った禅は、後に栄西や道元が宋から持ち帰った南方禅とは別系統の禅宗です。比叡山延暦寺は日本における天台宗の総本山ですが、そこでは天台教学だけではなく、別宗派も一緒に研究できる余地が最初からあったわけです。
 最澄の弟子の円仁は入唐して密教を学んで帰りましたが、その折に五会念仏を学び、それを延暦寺の修行カリキュラムの中に加えています。この五会念仏は浄土教から来たものだったりします。のちに法然が浄土宗を立ち上げますが、その種は円仁がもたらしたものだったわけですね。

 延暦寺は日本における天台宗の総本山ですが、天台教学のみをやっていただけではなく、いわゆる総合大学的な雰囲気のある教団でした。
 それは智慧の大盆と呼ぶべきもので、延暦寺の上にはさまざまな教派の研究がなされていたわけです。いわば延暦寺は知の探求の場を与える組織だったということができるかもしれません。それぞれの教派に自らの教義を深化させる場だったわけです。それを適切に運営するためには、一つの教派が別の教派を完全否定するなどということはやってはいけないことになるわけですね。

 反面宗教というものは、正しさの基準を示すものでもあります。相反する教学が互いに矛盾する規範を示すとすれば、どこかで正邪を判断しなければなりません。しかし、延暦寺がそれをやるとすれば、それまでに蓄積した他教派についての探求の成果を全て放棄することになります。それは延暦寺自身の価値をおとしめることになりますので、できない相談だったことでしょう。

 臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、法華宗に対して延暦寺は戦闘的な対応をとってきましたが、それは決して理由のないことではなく、今あげた教派は自らの教義を絶対正義とし、互いに他を否定する傾向にありました。それは延暦寺の諸宗共存路線とは真っ向から対立するものだったわけですね。

 最後に天台宗の総本山である比叡山延暦寺で学ぶ天台教学が最も重んじた教典があります。これが妙法蓮華経、いわゆる法華経と呼ばれるものでした。

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