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2013年11月28日 (木)

中漠:法華編⑧京都進出

 京都は法華宗が結構盛んな土地柄です。もともと閉鎖的な土地柄に法華宗の少々屈折した過激さを有するところが、京都人の気質にあっているのかなぁ、などとも想像します。とはいっても公家や武家階層に深く根付いているというわけではありません。支配層に食い込んでいるのは、天台・真言と禅でした。京において法華宗徒の中核をなすのは専ら町衆と呼ばれる庶民階層です。

 どんな出来事にも物事の初めというものはありまして、京における法華宗も決して無から生じたわけではありません。京における布教を始めて考えたのは、日朗門流の日像でした。彼は日朗の異父弟にあたります。二人の父親はともに平賀氏出身なので実質兄弟といってもよいのかもしれません。

 日像は京において布教を始めますが、やはり京においては浄土宗も盛んであり、宗論メインの日蓮流のやり方ではトラブルが頻発していたようです。そのせいで日像は京を三度追放されました。流罪を言い渡されて辺地に流されかけたのですが、洛南に潜伏してやり過ごしてほとぼりが冷めた頃にまた説法を始めるということの繰り返しであったといいます。それでもめげずに京で布教を続けていると、救いの手が差し伸べられたのです。それは後醍醐天皇からのものでした。後醍醐天皇は日像のために洛中に寺地を与えます。日像上洛から苦節二十四年の歳月が経過しておりました。
 日像を含め日昭や日朗らは鎌倉の御家人の家系でそこに浸透していったわけですが、京に布教するために必要なコネクションは自ら開拓しなければなりませんでした。そこがトラブルの原因となったわけですが、後醍醐天皇は日像を彼のトラブルごと丸抱えして後ろ盾となったわけです。なぜ、後醍醐天皇はそんなことをしたのでしょう。

 その伏線として1318年(文保二年)、鎌倉幕府は法華宗潰しに走ったという話があります。内管領の長崎円喜が諸宗の高僧を呼んで、法華宗に宗論を挑んだのですね。御家人層の一部にも浸透しているとはいえ、鎌倉幕府にとって法華宗は煙たい存在になっていました。この宗論に法華宗側で受けて立ったのが日朗の弟子の日印でした。日像の兄弟弟子にあたります。もし、この宗論に日印が負ければ、法華宗は潰されることになっていたそうです。しかし、結果は日印が勝利した、と法華宗側の資料は語っています。要するに、鎌倉幕府は法華宗を潰そうとして失敗したわけです。ちなみに、この年に後醍醐天皇は即位しています。
 本来であれば鎌倉幕府が宗論の音頭をとる必要はないはずなのですが、霜月騒動で安達泰盛を討つなどの事件を経て大きくなった鎌倉幕府の権威に様々なものが寄りかかっていたのです。皇室もそうでした。この時皇統は大覚寺統と持明院統の二派に割れ、両派の対立は先鋭化おりました。鎌倉幕府はその中を危ういところでバランスをとりつつ歩みを進めていたわけです。この時、法華宗が潰されなかったのも、鎌倉幕府のバランス志向によるものだったのかもしれません。

 その一方で、後醍醐天皇は宋の朱子学を学んでおり、天皇親政を夢見ておりました。後醍醐天皇の像は自ら独鈷をもち、真言宗立川流の文観を側近とする一方で、自らの子である護良親王を延暦寺の門跡にすえるなど、特定の宗派に帰依するというよりも諸宗の上に君臨しようとしておりました。故に特に法華宗に傾倒していたわけでもなさそうです。神道の中心である皇統の末裔として、諸宗ににらみをきかせたかったのでしょう。しかし、京の日像は三度も追放を受けるなど鎌倉幕府からみて反社会的な存在であったものと思われます。 天皇親政を目指す後醍醐天皇が鎌倉幕府を敵視しておりました。けだし、後醍醐天皇が日像に対し京における活動拠点を与えたのは、鎌倉幕府に対する陽動となることを期待したのではないでしょうか。

 鎌倉幕府が仲介に立った大覚寺統と持明院統との取り決めにおいては、後醍醐天皇は十年で譲位するということになっておりました。それ以上在位しようとするならば、持明院統のみならず、鎌倉幕府とも事を構えねばなりません。結果として後醍醐天皇が挙兵をしたのですが、その直前に事が露見して後醍醐天皇は隠岐島に流罪になってしまいました。しかし、それに相前後して延暦寺の門跡であった護良親王をはじめ、楠正成、赤松円心則村らがゲリラ戦を仕掛け、幕府はこれを鎮圧し損ねるという醜態をさらします。それを挽回するために幕府は足利高氏を派遣しますが、彼は裏で後醍醐天皇に通じており、丹波篠村で反転して幕府の京における拠点である六波羅探題を攻め滅ぼしてしまいました。
 その結果、現れたのが建武の親政です。この建武体制化において、日像の妙顕寺は勅願寺の指定を受けます。鎌倉幕府に三度の追放という弾圧を受けていた日像が後醍醐天皇により寺地を得、さらに建武体制化で勅願寺の指定を受けるのは破格の待遇といっていいでしょう。ただ単に、後醍醐天皇が法華宗を理解したというよりも、日像が京における布教の過程で組織した信徒集団を使って後醍醐天皇のために働かせたというところでしょうか。尚、京における日像の教派は四条門流と呼ばれるようになりました。これが京における法華宗の活動のはしりとなります。

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