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2013年11月26日 (火)

中漠:法華編⑦六老僧と諸門流

 日蓮には次代を担った六人の高弟がいました。彼らは独自に拠点を持ち、それぞれの宗派を立てました。これを門流と言います。門流はこの後もいくつかに分かれたり統合したりし、また互いに教学の内容や、正統性を戦わせることになりますが、これは浄土宗や浄土真宗にもあった現象でもあります。どの門流が正しくて、どれが間違っているかなどは素人には判別できません。また、長々と鎌倉時代史をやってますが、本稿は一応戦国時代の宗教的様相を知るよすがとしてのよすがとして仏教史を追っておりますので、各門流の正潤にあまり深入りはしないことと致します。以下、日蓮と彼の六人の高弟達とその周辺を簡略に述べてまいります。

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 日蓮は有力な地方豪族をパトロンとすることに成功していました。先に述べた甲斐国波木井の南部実長もそうですが、下総国の印東氏、平賀氏、池上氏は姻族つながりで日蓮を援助しておりました。系図にすると以下のようになります。池上宗仲は日蓮の没地に本門寺の寺域を寄進した人物です。日昭、日朗は六老僧、日像、日輪は日朗門下にあって修業した人物でした。

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 日昭は日蓮が佐渡に流されている間、鎌倉に残って日蓮の教えを説いておりました。当然禅や念仏衆からの風当たりは強かったのですが、彼は自らを天台沙門徒と称して批判を交わして教団を維持しました。浄土宗になぞらえるなら、法然が流罪になった後、京にとどまって活動を続けていた信空や証空(西山派浄土宗の祖)あたりのポジションです。日昭は鎌倉の浜にある妙法華寺を拠点として活動をしました。彼を祖とする法華宗の一派を濱門流と言います。
 日朗は日昭の甥にあたります。日蓮は晩年に病んで身延を下山し常陸国に湯治に赴きましたが、道中で病に倒れ、武蔵国池上にて示寂しました。そこはもともと池上宗仲の屋敷だったわけですが、日朗は池上宗仲の従兄弟、日昭は伯父にあたるわけです。日朗はそこを寺としました。日朗は権力闘争に敗北した比企氏の遺族の支援を受け、鎌倉に妙本寺という寺を開創しておりましたが、池上宗仲の屋敷を師の廟地としたわけです。寺号は池上本門寺と言います。日朗も伯父である日昭と同じく鎌倉を主な活動場所としておりました。

 日昭や日朗は師が追放された地において、師の留守を守るということはかなりの覚悟を必要としたものと思われます。彼は時に天台僧として幕府の求めに応じて祈?をすることも厭いませんでした。そうした活動が御家人層の支持を得て、流罪となった日蓮の赦免を得ることなどの一助となった面はあったかと思われます。
 但し、赦免された日蓮には幕府から蒙古調伏の祈祷を依頼されたのですが、幕府が法華経第一の姿勢を見せないことを理由にこれを拒否します。配流中の日蓮は、弟子達のように幕府に妥協をするよりも、自らの思想を先鋭化させてゆく方向にのめりこんで行ったわけですね。日蓮の恩赦も幕府が蒙古問題を決できず、民心の安定のために日蓮の『予言』を利用しようとしたフシはあります。日蓮はこれを撥ね付けますが、その五ヶ月後にモンゴル帝国が本当に日本国に攻めて来ました。時に1274年(文永十一年)後に言う所の文永の役です。
 日本にとって幸いなことにこの時の侵攻は大事無く、撃退しおおせましたが、『予言』は的中し、信者達の日蓮への期待はいやが上にも高まります。しかし、日蓮は国家守護よりも、法華経の弘法を重視していました。自らは甲斐国波木井(はきり)の地頭南部実長の勧めにより、彼の領地に草庵を建ててそこに引き籠もりました。これが現代も日蓮宗の総本山となっている身延山久遠寺の縁起です。
 晩年、日蓮は体調を崩し常陸国に湯治に向かいますが、常陸までたどり着くことなく、武蔵国池上郷の池上宗仲の屋敷で示寂します。池上宗仲は有力な日蓮信者であり、日昭、日朗、日像ら日蓮の後継者達とは母方の親戚関係にありました。日蓮の七回忌において彼は日蓮の御影像を作って安置しました。日蓮宗の仏壇には南無妙法蓮華経の題目を中心とした曼荼羅の前に祖師日蓮を模した御影像が置かれますが、それの起こりがこれのようですね。そしてそこを寺としました。そこが池上本門寺です。同寺の開基は池上宗仲ですが、寺は日蓮の高弟である日朗に引き継がれました。日朗は池上宗仲の従兄弟にあたります。

 六老僧の中で生前の日蓮の路線に最も忠実であったのは日興と言ってよいでしょう。彼は日蓮の二度の配流に随行し、師の身辺の世話をしました。また後に師の墓所となった身延山久遠寺をまかされたのです。ところが、パトロンである南部実長と路線対立を起こしてしまい、身延山の下山を余儀なくされました。どうも日蓮ばりのストイックな教団運営をしようとして、幕府御家人でもあった南部実長に嫌われたようです。下山した日興は駿河国上野郷の地頭、南条時光という新しいパトロンを得、その領地に大石寺という新しい拠点を立てました。日興の流れを富士門流と言います。
 下山した日興に代わって身延山久遠寺に入ったのが日向です。日興と違って彼は南部実長とウマがあったようですが、他の五老僧達からは身延入りはあまり快く思われていなかったようです。日蓮の法脈における富士門流や身延山の位置づけと教勢は近現代において大きく変わりますが、それは本稿では取り扱いません。

 日蓮の有力檀越に富木常忍という豪族がいました。彼もまた日蓮のパトロンとして活躍しました。但し、彼が出家して日常と名乗ったのは日蓮の死後で、彼は六老僧の中には入っておりません。日常は下総国中山の領地に持仏堂を作りそこを寺としました。法華経寺と言います。彼は日蓮の弟子の一人を養子としました。それが後の六老僧の一人、日頂です。日蓮の生前、1276年(建治二年)に富木常忍は下総国真間にあった真言宗の弘法寺に折伏を仕掛けて住持を追い出して乗っ取り、そこに日頂を入れました。ところが、日頂は養父である日常と折り合いを悪くして、1293年(永仁元年)に日興の富士門流へと走り、重須本門寺の学頭となったと言います。

 六老僧の最後の日持については業績はよくわかりません。池上本門寺に祖師像を作って安置した後、教えを海外に伝えるべく旅立ったとされております。

 日蓮が作った教団の初期段階においては、関東の御家人層の動向と日蓮の思想をどのように広めてゆくかという路線によって、早くも諸派分流が始まっておりました。

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