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2013年11月19日 (火)

中漠:法華編④浄土門論争

 比叡山延暦寺を開いた最澄が中国から持ち帰ったのは、天台教学だけではありませんでした。不完全ながら現世利益を成就するための密教と、僧が仏教僧であることを認められるために不可欠な戒律、そして仏教修業のためのカリキュラムである禅(但し、これは栄西が後に持ち帰ったものとは別系統のものです)です。最澄はその中でも、天台教学すなわち、法華経を最高のものとしました。とはいっても持ち帰ったその他の教学も、継続的に研究をしていました。
 当時の仏教は宗教施設のみならず、中国文明の移入を仲立ちする役割も果たしておりました。国家のニーズとしても、特定の宗派に特化するのではなく、中国の最新の思潮をウォッチする役割を期待していたのですね。日本に入ってくる仏典は漢字で書かれており、自然僧侶は漢学のエキスパートとなります。故に遣唐使などの施設には官僚だけではなく、僧侶が随行していたわけですね。
 そういう事情があったため留学僧が持ち帰った物の中に浄土教に関わる文献が混じったことは不可避でした。比叡山延暦寺は仏教の目的である成仏以外に智慧の大盆としての役割を担っていたわけです。
 比叡山延暦寺は法華経を最高の経典としていますが、その一方で空也、源信、法然などが阿弥陀信仰の学を深めてゆきました。天台宗徒達は、それを苦々しく思い、法然を弾圧します。それは多分、彼らの狭量を示すものではない、と思います。むしろ彼らは法然の教説によって、法華経を中心とした秩序が脅かされることをおそれたのでしょう。

 法然は従来の修行を通して悟る道である聖道門とは別の浄土門という悟りへと向かうルートを指し示しました。浄土門は従来型の仏教から派生したものですが、それ自体が完成された世界観を有しておりました。ぶっちゃけ、浄土門があれば、聖道門がなくともいいわけです。聖道門には厳しい修行や善行などの資格が必要になりますが、浄土門にはそれらを必要としません。成仏への道として聖道門と対置するものとして位置づけたならば、聖道門を学ぼうとするものはいなくなるでしょう。
 比叡山延暦寺はこの法然の突きつけた問い――浄土門をどう扱うか――で揺れ続けました。取るべき道は二つありました。一つは浄土門を完全否定すること。もう一つは、比叡山の学問体系の中に浄土門の居場所を作り、その中に押し込めてしまうことです。後者の場合でも末法には聖道門からの成仏は有り得ないと説くような過激派を潰したり、念仏信者にも聖道門の権威を認めさせたりする必要はあるのですが、一度出来上がった思想をなかったものにすることはまずは不可能です。最終的な落としどころは後者――浄土門の取り込み・融和――になるわけですが、その流れは本来の天台宗の教学とは何の関係もないものでした。比叡山延暦寺には前者を指向する者も数多くおり、そうした方針には不満を抱いておりました。

 日蓮もその一人でした。自らを賤民の子と称したらしいですが、実際の所はよくわかりません。比叡山延暦寺で学問を修めている所をみると、ある程度裕福な階層の出であったのではないかと思われるのですが、本当に賤民の子で、周囲が日蓮の才能を見出して磨き上げた可能性もなくはないです。
 日蓮は博覧強記の人でした。彼は青春時代を比叡山延暦寺で学び、天台宗のみならず、他宗派の教学も学びその教相を理詰めで判尺できる程に実力をつけたのですから。その上で日蓮は天台の教えの通り法華経を中心とした世界観を維持していました。延暦寺による理想の教育の体現者とも言えるでしょう。
 しかし、日蓮自身はそんな延暦寺を他宗派の教学に毒され過ぎていると感じていました。

 延暦寺で学問を修めた日蓮は故郷である安房国で活動を始めます。その頃の東国には宗教上の二つの大きな流れが押し寄せていました。一つは浄土宗の隆盛です。比叡山は京において法然とその弟子達を弾圧しましたが、法然の弟子達は地方に活路を求めていたわけです。法然の弟子、親鸞は佐渡に流された後に赦されるのですが、その後も晩年になるまで京に戻らず関東に拠点を定めて布教活動をおこなっておりました。法然の弟子、弁長は西国に下って鎮西派を立ち上げました。その弟子の良忠は東国に向かい、関東の豪族千葉氏の外護のもと、鎌倉を中心に活動をし、教勢を広げておりました。
 もう一つは臨済宗の蘭渓道隆です。南宋出身の彼は東福寺の円爾の招請を受けて来日し、時の執権北条時頼の帰依を得ていました。それまでの臨済宗諸寺院は栄西流の天台・真言・禅の三宗兼修が主流だったのですが、蘭渓道隆はこれを中国風の禅宗専門寺院に作り変えてしまっていたのです。もちろん延暦寺などはこれに反発したり、蘭渓道隆がモンゴルのスパイではないかとの疑いをかけられたりして伊豆に流されたりしています。ただ、その処罰は緩いもので、その間流刑地であるはずの伊豆にあった真言宗寺の修善寺はしっかり中国風禅宗寺院に作りかえられたりしました。そしてすぐに鎌倉に呼び戻されています。

 日蓮はまず地元の清澄寺を拠点にして念仏排撃を始めますが、その当時、その地の地頭東条景信は念仏者でした。彼と諍いを起こして、清澄寺には居られなくなって、鎌倉に流れます。そこで目にしたのは三宗兼修(これだって日蓮の視点からは赦しがたい汚濁であるのですが)の諸寺院が中国風禅寺に塗り替えられている光景だったのです。

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