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2013年12月28日 (土)

中漠:法華編㉑寛正の盟約

 1465年(寛正六年)、比叡山延暦寺は非常にきな臭くなっていました。それまで天台宗青蓮院門跡の配下にあって、天台宗の看板を掲げることで存続を認められていた大谷本願寺の蓮如が天台色を一掃、延暦寺に対する上納金の支払いを拒否して浄土真宗の宗旨を鮮明にしたことに対して、延暦寺が大谷本願寺の破却をしたところから始まります。
 何十年かに一度、比叡山延暦寺はこんな風に過激な挙に出ますが、その被害を過去に何度も受けたことのある妙本寺ら洛内の法華寺院達にとってこれは他人事ではありませんでした。個々の寺院は細部に教義の違いがあって仲が悪かったりするのですが、今回の延暦寺の過激さは過去に類例を見ないものでありました。何しろ近江国に逃げた蓮如を追って金森で合戦を行ったりしたいたのですから。これまでは妙本寺が集中的にターゲットとされてましたが、今度延暦寺を敵に回したら妙本寺だけでは済まないだろうというのが彼らの一致した意見ではなかったかと思われます。そんなピリピリとした雰囲気の中、空気を読まない僧侶が室町殿に対して諌暁を試みます。鹿苑寺参詣の途上、足利義政を待ち伏せして『妙法治世集』という書物を手渡します。内容は調べが追いつきませんので想像するしかないのですが、『立正安国論』のような法華経を進める内容でありましょう。それは直訴という強硬手段で実現したものではありましたが、日親と足利義教の時のような拷問と呪詛の如き、毒の含んだ対話ではなく、穏やかな雰囲気なものであったらしいです。この行為を行ったのは本覚寺の日住という僧でした。

 しかしながら、延暦寺はただでは済ませませんでした。しかもターゲットとしたのは事を起こした本覚寺のみではなく、洛中の法華諸寺院に糾弾の書を送りつけて、寺院を破却すると脅しつけたのでした。そこで洛中の法華諸寺院は会合をもちます。個々に対応していたのでは潰されるに決まっている。そこで、教義の多少の違いには目をつぶりつつ、洛中の法華宗を奉じる寺院が一揆を作って互助しようということになりました。これを称して寛正の盟約と言います。この当時、京の町衆の半数がそれらの寺院の檀家であると言われておりました。もし、山門が予告通りに強硬手段に討って出たなら、本願寺教団門徒宗との金森一揆に数倍する戦いが洛内で展開したことでしょう。結局、この一件に関しては法華信徒でもある京極持清が間に立って事なきをえています。この盟約も山門に対する抑止力として働いたということもあったように見えます。

 延暦寺だけではなく、この年には随分と時代そのものがきな臭くなっています。盟約がなった1466年には改元があって文正元年とされますが、この年の九月六日に政所執事の伊勢貞親と政治顧問の季瓊真蘂(きけいしんずい)が失脚することで足利幕府の内部抗争が止められないものとなって、翌年応仁元年一月十八日、応仁の乱が勃発します。
 1470年(文明二年)の頃には京における武家や貴族、寺社などは土御門内裏を除いてその大半を焼失したといいます。なので、この盟約を結んだ寺院も例外ではなかったことでしょう。応仁の乱前後の京の町は全く様相を異にしたといいます。これらの寺院はそれぞれの場所に再建を果たしたでしょうが、新たに建てられる町割りは戦国の時代を生き抜くにふさわしい形に変化してゆきました。

 1485年(文明十七年)八月に洛中で徳政一揆が発生します。酒蔵や土蔵が襲われて証文などが破り捨てられました。酒蔵や土蔵たちは洛中法華寺院のスポンサーでもあります。一方、襲撃側は応仁・文明の乱に駆り出された地方武士達でした。もともとは在国で土豪をやっていた守護の被官たちです。乱の最中はその乱暴狼藉で京の町衆たちに恐れられていた連中ですが、戦後処理を守護達が鳩首会談している最中に平和維持軍として洛内に駐留していた人々です。都市生活は色々金がかかるものですが、彼らは滞在が長期にわたった為に困窮して酒屋土蔵に借金をしたのですが、それが返せなくなった為の仕儀でした。彼らを率いていたのが三好之長というこの時二十七歳の若武者でした。阿波守護細川政之の被官で、応仁の乱を初陣に細川軍の部将の一角をなした人物であり、ならず者と京雀たちに怖れられた人物でもありました。時に、都の南においては畠山政長と畠山義就が山城守護の座を巡って戦争しておりました。おそらく、両畠山の戦いが激化すれば、戦火が洛内に及ぶかもしれません。そうすれば、三好之長は細川軍に動員されることは必定でした。戦には金がかかります。しかも、彼は小なりとはいえ、一軍を任されている立場でした。三好之長はその時に備えて、戦支度をしたかったのでしょう。このやり方しか知らなかったというのはやや問題がありますが。幕府は伊勢貞宗と京極政経(法華宗徒京極持清の三男)を徳政一揆にあたらせます。三好之長は主人の細川政之のもとに逃げ込みました。幕府は三好之長の身柄の引き渡しを要求しますが、細川政之は三好之長を庇って言います。「今回の首謀者は三好だけではなく、細川京兆家や、備中守家の被官も加担している、彼らを処罰するなら、三好も処罰すると」伊勢・京極には他家の被官を処罰する権限を与えられておらず、幕府の追捕使は引き上げざるをえませんでした。結果徳政一揆は鎮圧できなかった訳ですが、細川政之は領国の阿波で国人騒動があったことを口実に十月には三好之長を連れて京を引き上げます。

 洛中駐在の守護大名被官達が徳政一揆をおこした原因となった、両畠山の争いですが、これを片付けたのは南山城の住民たちが自らの手で解決しました。戦争ともなれば耕作地は踏み荒らされますので、山城国南部地帯の住民たちは一揆を汲んで結束し、両畠山軍の退去を要求したのです。領民の援助が得られない軍隊は孤立しますので、やむを得ず両畠山軍は引き上げることになりました。以後、山城国は守護不在の数年間を一揆衆が采配することとなります。これが世にいう山城国一揆です。
 一方の洛中の町衆たちですが、山城国一揆衆の団結で守護の軍勢を撤退させたことが一つの教訓となったようです。三好之長が起した徳政一揆に対して無防備だったことの反省を踏まえて、京の街のグランドデザインを彼ら自身の手で変えてゆくこととなりました。

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2013年12月26日 (木)

中漠:法華編⑳宗祖への回帰または、差別化戦略

 洛中における法華宗四条門流と六条門流のシェアの奪い合いは概ね六条門流優位に進めました。途中観応の擾乱の折には足利直義の執事として働いた上杉重能が暗殺されたり、光巌上皇・光明天皇が南朝に拉致されるという後ろ盾を失う等の局面もありましたが、足利義満の庇護を得たり、関白近衛道嗣の子を門流に迎えたりするなどして教勢を伸ばしました。1410年(応永十七年)には近衛道嗣の子の日秀が、本国寺より分流して町尻小路今出川に本満寺を建立します。
 一方の妙顕寺は二世大覚妙実が南朝との太いパイプを持ち、同時に足利尊氏・義詮の為に働いた事が珍重された要因であったと私は考えております。後醍醐天皇亡き後の南朝勢力の衰亡したとはいえ、義満の代における合一後も後亀山院が吉野に帰ろうとするなどしていくつかのデリケートな問題が残っていました。妙顕寺は幕府から度々祈祷の依頼を受けていますが、その時期と問題の発生時期が一致しているケースがいくつか見当たるというのが、そう考える根拠です。他方、比叡山延暦寺もまた南朝との太いパイプを有していたのですね。後醍醐天皇の皇子である護良親王を天台座主に据えたり、足利尊氏が京に攻め込んできたときにはここを行宮所としていました。交渉ごとの鉄則は複数のルートを持たないことにありますが、延暦寺と妙顕寺は同じ役目を負わされており、それ故延暦寺は妙顕寺に煮え湯を呑まされる事態も発生したのではないか。洛中には四条門流と六条門流という二つの法華宗の有力勢力があったのですが、四条門流の妙顕寺が集中的に襲われたのはそういった事情があったのではなかったかと推察します。

 その他の門流も南北朝期の前後に洛内に入ってきました。前稿では書洩らしておりましたが、建武親政期に富士門流系の日尊が後醍醐天皇から寺地の寄進を受けて六角油小路に上行院を建立しております。日頂系というよりも御家人でもあった養父日常系と言ったほうが妥当かと思いますが、弘法寺に学んだ日什は足利義満に許されて六条坊門室町に妙満寺を建てました。同じく日常の中山門流系の日親は足利義教の頃に東洞院綾小路に本法寺を建てるなどしています。

 室町時代前期においては洛中に数多くの法華宗系の門流が林立して競争し続けていました。その状況を許したのは京都という町の豊かさです。このころに貨幣経済が発達し、京の町衆には有徳人と呼ばれる富裕層が生まれておりました。彼らは物流業者である馬貸や金融業者である土蔵を商っておりました。法華宗諸門流は彼らをパトロンにつければ食べてゆくことが可能だったわけです。しかし、それだけでは競争に勝ち残れません。彼らは京の町衆にアピールする主張を編み出していったのです。その方針は『可能な限り日蓮の教えに近く』でした。それは妙顕寺や本国寺が権力に近づいてその意向に沿う行動をとることによって地歩を固めたことに対するアンチ・テーゼでもあります。

 宗祖である日蓮は妥協を許さない宗教家でした。彼は弾圧を受けることも辞さず、むしろ弾圧を受けるほど過激な言説であればあるほど、その教説は正しいものであるという信念をもっておりました。四条門流や六条門流の僧侶たちはその点で評価するならば、信徒や領主たちに受け入れられるようにするために、祖師の教説を曲げざるをえなかった点があったことは否めません。
 宗旨の細かい違いは分からないので立ち入れませんが、京に後からはいってきたり、新興の門流の僧侶たちは、その点をついて自らの教説の正しさをアピールしたのです。簡単にいうと①本門と迹門はどちらが大切か。②法華経を信じない者の寄進は受けてもいいか、受けてはだめか。その中でも王侯からの寄進であれば許せるか。
 最初の論点について説明しますと、妙法蓮華経は長大な経典で二十八の章立てから構成されています。前半十四章を迹門、後半十四章を本門と呼んでおりますが、法華経は最初から最後までが等しく重要なのか、後半部分がより重要なのかという論点です。それまで法華経は最初から最後までが等しく重要である(本迹一致)と教えてきた四条門流や六条門流に対抗して、日尊(日尊門流)、日什(日什門流)、日真(真門流)、日隆(日隆門流)らが攻撃を加えました。

 二番目の論点はなかなかに厄介でした。京の法華宗徒が寺を建て、法華経興隆をはかれているのは、多かれ少なかれ権力者・支配者の外護を受けているためです。そのバーターとして、時に権力者の求めに応じて祈祷や儀式を執り行うことによって、彼らに利益を供与しておりました。しかし、それは立正安国論をはじめとする日蓮の著述を読んでもわかる通り、日蓮はそれをよしとはしません。彼は佐渡流刑後に幕府から元寇調伏の祈祷を依頼されましたが、幕府が法華経を信じるようになるのは無理と判断したため、その祈祷を断りました。それに倣えと言うのが、不受不施義と呼ばれるものです。これは日親によって始められた主張です。まともに従えば、教団は反社会組織と見なされてしまいますし、施しをする人が信徒であると確認しないと布施も施しもできません。教えを広めようとするならば、折伏に次ぐ折伏を繰り返さなければならない。これを是とするにはかなりの勇気が必要です。権力者相手に折伏を試みて失敗すれば確実に弾圧が待っているのですから。しかし、敢えてこれを主張したのが日親でした。
 彼がターゲットとしたのは室町幕府第六代将軍足利義教でした。かれは比叡山延暦寺の門跡出身者で、いわば濁れる山の元頭目です。義教をはじめとする延暦寺の僧侶・元僧侶にしても、日蓮のそんな評価は薬にもしたくはなかったことでしょう。その義教に対して日親は真正面から論争を挑みました。当然のことに義教はそれを拒んで、日親に布教活動の禁止を申し渡しますが、日親はそれに従いません。義教は日親を投獄して相当残酷な拷問にかけました。しかし、日親にとって拷問は望むところでもあったのです。なぜならば、宗祖日蓮は佐渡流罪の折に、『法華経を広めるものは弾圧を受けるだろう。そのように法華経に書かれているが故に。今、自分が弾圧を受けているのは自分が正しいことの何よりの証拠である』と宣言していた故にです。
 伝説によると、日親は足利義教の死を予言したということになっております。事実、日親投獄の一年後に嘉吉の変が起こって足利義教は赤松満祐に暗殺されました。足利義教の死によって、日親を投獄しておく理由がなくなり、日親は釈放されます。日親は以後も活発に布教を続けたそうです。
 京洛という山に囲まれた盆地に法華宗はいくつもの門流が互いに切磋琢磨した結果、京都の人口の約半数までが法華宗になったとのことです。それは単にブルーオーシャンを前にして既得権益を張り巡らすのではなく、過剰なまでの競争が繰り返された結果とみることができるかもしれません。

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2013年12月24日 (火)

中漠:法華編⑲三度目

 さて、妙顕寺改め妙本寺に何か動きがあった時にはその前後に必ず南朝の動きがあり、延暦寺の弾圧があったことを確認しましたが、この法則がもう一回適用されます。今度は後亀山院の無断行幸事件です。
 1392年(明徳三年)に南北朝が合一します。簡単に言うと、足利義満が南朝の後亀山天皇を口先でだまくらかして京都に戻したわけです。一応、鎌倉時代のように両統迭立に戻すという条件がついていましたが、この条件は北朝の同意なしで取り結ばれていたものでした。京に戻って三種の神器を北朝に渡した以降の後亀山天皇の立場は微妙ですので、本稿では後亀山院と呼称します。但し、足利義満は最低限後亀山院の面子だけは潰さないつもりだったようです。1394年長慶院が崩御します。それを期に後亀山院には不登局帝としての太上天皇号を送ります。北朝は大反対だったのですが、ここは足利義満が押し切りました。当然後亀山院も不満で三年後にこの称号を返上します。ここで足利義満が義嗣を天皇位につけようと画策していたと仮定するなら、おそらく新たな『足利天皇家』の権威をもって天皇家の両統迭立は可能であったでしょう。さりながら、それは果たされずに足利義満は没しました。結局のところ残されたのは誰得な妥協の山だったわけです。
 義満の死後、後小松天皇の躬仁(みひと)親王を正式に立太子する動きが出てきたため、後亀山院の不満は一気に爆発します。嵯峨の大覚寺を抜け出して吉野へ出奔しました。

 その翌年に日霽を継いで妙本寺の住持となった月明が権大僧都に任じられます。大覚妙実以来の出世ではありますが、その理由が不明です。勘ぐるならば、再び旧南朝との交渉が必要となったせいでありましょうか。さらに、妙本寺は足利義持の祈願所に指定されます。足利義持は日明貿易などの父親の方針を色々覆した人物でありますが、ことさら一度定めた約定を覆すのは体裁が悪かったはずです。ところが、一年たっても後亀山院は帰ってくる気配がありません。さらに悪いことに、後亀山院が吉野に籠っている間に、後小松天皇は躬仁親王に譲位をしてしまいます。これが称光天皇です。両統迭立の約束は持明院統によって踏みにじられ、後亀山院が面子を保ちながら京都に戻る方法が消え去りました。もし妙本寺が後亀山院の還御を請け負っていたとしたら、これはもう取り返しのつけようのないことです。そして、そんな失態を見逃すような比叡山延暦寺でもないはずです。

 そんな想像はさておき1413年(応永二十年)六月二十五日、妙本寺は延暦寺の犬神人(いぬじにん)に襲撃されます。犬神人とは下級神官のことで祇園社などに属してスイーパー(掃除人)の仕事をしていた人々です。スイープする対象は神域はもちろん、祭りの折に神輿が通る辻々や町で出てくる死体なども含みます。彼らは掃除のプロフェッショナルであっという間に妙本寺の堂宇を焼き払ってしまいました。住持の月明は今度は丹波国に落ち延びます。

 吉野の後亀山院を説得したのは武家伝奏の広橋兼宣でした。六年間に及ぶ長い行幸でした。月明が京に戻ってきたのはその同じ年です。その事実もまた、月明が後亀山院の帰還交渉を当初請け負っていたという仮説の補強になるやもしれません。
 京に帰還した月明には驚くべきことが待ち受けていました。妙本寺の弟子たちが自分に無断で洛内に寺を立ててそこの住持に収まっていたのですから。
 まず、日隆が油小路高辻に本応寺という寺を建てていました。日隆と月明は教義を巡ってそりの合わない関係でした。次に日実(妙覚寺の日実とは別人)が同じ本応寺という寺号の寺を四条櫛笥に建てていました。四条櫛笥は妙本寺が妙顕寺と言っていた時代の寺地でした。三条坊門堀川の寺地は処分されてしまっていたのでここに寺を再建したのでしょう。彼も月明とそりが合わない人物だったのですが、彼は襲いかかってきた延暦寺の犬神人達と話をつけていました。こちらはあろうことか、具足山の山号を名乗っておりました。妙覚寺に次いで二度目のことでした。月明はおそらくは激怒したと思いますが、とりあえず五条大宮に妙本寺を再建します。日実の本応寺には延暦寺と話がついているので下手を打つと再建した妙本寺が再び灰燼に帰しかねなかったので、手が出せませんでした。日実の本応寺は後に具足山立本寺と改めます。妙本寺(妙顕寺)、妙覚寺、立本寺の三つの寺院はいずれも法華宗を奉じ、山号が具足山であることから龍華の三具足山と呼ばれます。

 1418年(応永二十五年)に月明は報復にでました。日隆の本応寺を襲ったのです。京に活動の場を失った日隆は摂津国大物に移り、ここで本興寺を建てます。そこは管領細川満元が守護職を務める土地で本興寺の創建には彼の援助があったと言います。日隆は京の町衆の力を借りて京に戻ります。今回協力したのは小袖屋宗句という商人で、千本極楽に寺地を提供しました。ここに本応寺を再興した日隆は自らの宗派を本門法華宗として、四条門流からの独立を宣言しました。本応寺は後に如意王丸という町衆から六角大宮に寺地を譲り受け、寺号を本能寺と改めました。ここがさらに後に織田信長終焉の地となった本能寺です。

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2013年12月21日 (土)

中漠:法華編⑱受難の法則

 このころになると南朝はほぼ何も出来なくなりました。京に何度か侵攻していますが、それはほぼ足利一門の勢力争いで弱みがある側が南朝の名前を借りて攻め込んでいるようなものですし、南朝が独力でやれるのは精々地方でゲリラ戦術を駆使して独立地帯を作る程度のことでありました。それでも足利幕府が内輪もめをやっている間は南朝はプレゼンスを発揮するチャンスもあったのですが、足利義満、細川頼之のコンビが地盤固めをやってからはそのチャンスもほとんどなくなりました。
 九州において懐良親王築いていた王国は今川貞世と大内義弘が蹴散らしていましたし、四国に勢力を持っていた河野氏も北朝に帰順して失脚した細川頼之の討伐に加わる始末です。最後に残ったのが楠木正儀でした。彼は細川頼之の工作で先に北朝に帰順しておりましたが、彼の失脚とともに幕府に居場所がなくなって再び南朝に帰参しておりました。彼は南朝方だった時も度々北朝との和睦交渉を取り仕切っておりました。彼が南朝方を抜けたタイミングは、長慶天皇の践祚と期を一にしております。また、彼の再帰参は長慶天皇の譲位と同じタイミングでありました。長慶天皇の在位中には南北対話の実績はほとんどありません。これをもって、南北朝合一の機運が再び高まったとみてよいでしょう。しかし、南朝にとっては遅すぎた再交渉でもあったようです。

 1385年(至徳二年)九月十日、南朝の年号でいう所の元中二年に南朝強硬派の長慶上皇が高野山の金剛峰寺に以下のような願文を奉納したと言います。「今度の雌雄、思いの如くば殊に報賽の誠を致すべし(今度の雌雄を決するに当たって思い通りになれば厚くお礼をいたします)」
 その前月に紀伊国三ヶ谷で楠木正勝と山名義理との軍事衝突があり、奉納した月に河内長野の金剛寺に幕府軍が進出したため、楠木正儀が出陣しております。案ずるにこの時点ではまだ長慶上皇が実権を握っていて、強硬論が台頭していたものと思われます。しかしながら、紀伊や河内におけるこの戦闘ではいずれも南軍が敗れております。
 興味深いのは幕府は金剛寺の戦いの翌月に妙顕寺をして祈祷をさせていることです。過去の事例から鑑みるに今回の祈祷要請には幕府側から南北対話のパイプとして協力せよという意向があったのではないかと思われます。

 さて、この翌年に妙顕寺は比叡山延暦寺の宗徒たちの手で破却されます。正平一統時に次ぐ二度目の破却ということになります。しかしながら、これを単なる天台宗と法華宗との間の対立軸で読み解くことは適当ではないのではないかと思います。と言うのは、この時点で本国寺も法華宗寺院として足利義満の寄進まで受けていて、京でも妙顕寺と二分するまでの法華宗の勢力であると時の関白二条師嗣に認識すらされていた状況だったからです。妙顕寺と本国寺は対立する因縁があって、不仲ではありましたが、法華宗が目障りであるなら本国寺に何もしないとは思えないですね。残念ながらこの時に延暦寺が本国寺に何かしたという記録は見当たりません。
 とするならば、正平一統時と同様に、延暦寺もまた南朝と接触を持っていたのだが、並行して自分たちの人脈で交渉しようとする妙顕寺を邪魔と感じたため排除したという解釈もありないかと思うのです。

 妙顕寺日霽は若狭国小浜に逃れました。その翌年、足利義満は本国寺五重塔建立の為に材木を寄進しています。叡山の目的が法華宗撲滅にあるとすれば、足利義満は本国寺に援助することで叡山を牽制したと言えるかもしれません。しかし、妙顕寺から分派した具足山妙覚寺は生き残ってますから、法華撲滅と言うには不徹底なやり方でしょう。妙顕寺襲撃の翌々年、楠木正儀は没します。南北対話は妙顕寺や楠木正儀抜きで進められ、1992年(明徳三年)に南朝最後の天皇である後亀山天皇が三種の神器を持参上洛して大覚寺に入りました。

 若狭小浜に逃れた日霽が京に戻れたのはその翌年です。幕府が比叡山延暦寺にとりなしたようですが、その時の条件に『妙顕寺』の寺号を許さないという項目があったようで、妙顕寺は妙本寺と寺号を変更することを余儀なくされました。それ以後は足利義満は本国寺よりも、妙本寺の方に目をかけるようになったようです。
1395年(応永二年)には祈祷を依頼し、その三年後の1398年(応永五年)には自ら妙本寺に訪れ、その翌年に四海安全を祈願させました。
 一方の本国寺側は1395年(応永二年)に北朝側の関白だった近衛道嗣の子を本国寺に受け入れ、時の住持日伝の弟子とし、号して日秀と名乗らせます。さらに1398年(応永五年)には後小松天皇より勅願寺の指定を受けたりして、妙本寺の動きに呼応して本国寺も名望をえる行動をとっているのが興味深いです。地方奉行の治部太郎左衛門という武士が「京都は禅宗に次いで法華宗が盛んである。それは六条本国寺があるためだが、そのほかでもとりわけ妙本寺が朝廷から寺地と寺号を与えられている」と書き残している所からうかがえます。この寺地は三条坊門堀川(今の堀川御池)にあったそうです。
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2013年12月19日 (木)

中漠:法華編⑰バランス・オブ・パワー

 観応の擾乱の後の足利家の執事は仁木頼章が引き継ぎ、尊氏の死を期に引退しました。将軍位を継いだ義詮には細川清氏が執事を引き継ぎましたが、佐々木導誉らの策謀によって失脚させられました。清氏は南朝に降って一時は京都を占領しましたが、反撃をくらって戦死します。
 ここで執事のなり手がいなくなってしまい、お鉢が足利尾張守家出身の高経に回ってきました。彼は大変に気位の高い人物で、『そもそも執事というものは、高師直のような足利家の累代の家人か、上杉家のような外戚が担う役目である、足利一門の中でも宗家と同格である自分には役不足である』と言って固辞しました。高氏はもと高階氏といい、源義国(新田・足利両家の祖先)が下野国に降ったおりに、ともに渡った一族です。高階氏の出自は義国の父、八幡太郎義家の庶子であるという説もありますが、いずれにせよ一門衆とは一線を画した存在であったといえます。上杉氏は先にふれたとおり、宮将軍の鎌倉入りの時に付き従った勧修寺家の一流であり、いわば貴族崩れの武士でした。彼らと自分を同格にするなというわけです。

 ここですったもんだがあって、結局足利尾張守高経本人は執事にはならず、彼の弱冠十三歳の息子、義将が就任することになりました。実質的に政務を取り仕切ったのは高経でしたが、彼は高慢なところがあって、佐々木導誉と要らざる確執を生んだ末に失脚します。替わって管領という新たな肩書の元、実権を握ったのが細川頼之でした。彼は足利義詮の元執事の清氏の従弟でしたが、謀反を起こした清氏を自ら打ち取った武功の持ち主でもありました。足利尾張守高経は自らが勝ち取った執政の立場を細川家に取られて内心忸怩たるものだったと思われます。同じ年、足利義詮が没します。後を継いだ義満はまだ若干十歳の少年でした。細川頼之が管領となったのは、高経の高慢さよりも義満が幼い間に強力な一門衆が幕政を牛耳ることを避けたかったものと思われます。
 細川頼之は若い足利義満を十年にわたり補佐しますが、その間斯波氏(足利尾張守家改め)をはじめとする敵をたくさん作ってしましたした。斯波義将はその反対勢力を取りまとめたうえで、足利義満が作った花の御所を包囲、細川頼之の罷免を要求します。これは観応の擾乱における高師直による足利尊氏邸包囲事件と同じ状況でした。その状況下で細川頼之は罷免されて領国に帰ります。ここに細川頼之後見体制は終焉するわけです。
 政治は幕政復帰した足利尾張守改め、斯波義将が管領する形となりますが、足利義満はこれに対抗して奉公衆という将軍直属の親衛隊組織を作り、有力御家人に頼らない体制を志向します。これ以降、足利義満は強力な勢力には対抗勢力を生み出すことによって勢力の均衡を図ることになります。斯波義将は細川頼之を追討することを足利義満に迫りますが、それが実現する前に頼之を赦免しました。

 それは洛内の法華宗寺院においても同じでした。1379年(康暦元年)に足利義満は本国寺の大客殿建立の為に材木を寄進します。すでに日静は示寂しており、上杉氏は観応の擾乱で重能は殺されており、その養子の能憲は直義派だったのを許されて、関東管領として鎌倉に赴任しました。以後関東管領職は能憲の宅間上杉氏、伯父の系譜である山内上杉氏、犬懸上杉氏によって継承され、上杉氏は関東経営に専念することになります。それに伴って京の本国寺に対するバックアップは途絶することになります。そんな中での足利義満による寄進は尊氏の生母である上杉氏とのつながりをアピールするすることになり、本国寺の名望がよりあがることになりました。1381年(永徳元年)には関白の二条師嗣が妙顕寺日霽に対して、本国寺は妙顕寺とともに洛内の法華寺院の代表格であると述べています。
 妙顕寺は後醍醐天皇に見いだされるところからスタートし、大覚妙実の代に後光厳天皇に認められる栄誉を浴しました。対する本国寺は上杉氏が関東に去ってしまった格好だったのですが、ここで足利義満のスポンサードが入ること、そして妙顕寺も住持継承のごたごたから分裂したことによってその差が埋め合わされて、洛中法華の双璧が形成されていったわけです。
 三代将軍足利義満は斯波義将の力を利用して細川頼之の勢力を削ぎ、細川頼之の追い落としに協力した土岐康行、山名氏清らを粛清して力の均衡を作りその上に君臨するという手法をとってゆきます。洛中法華のありようはその縮図でもあったと言えるかもしれません。
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2013年12月17日 (火)

中漠:法華編⑯自己実現の物語と町衆の具足山

 観応の擾乱の説明と並行して妙顕寺の動向を見てゆきましたが、大略南朝に尊氏が働きかけをするタイミングで妙顕寺に祈祷の依頼やら褒賞などが来ています。さらに深く考えてゆくと、日像が京都に妙顕寺を建てることができたのは、大覚妙実を自らの教団内に取り込むことに成功したためではないかと思われます。日像は三度京都を追放されていますが、大覚妙実が日像の宗門に入ったのは二度目の追放の後です。三度目の追放の折はすぐに後醍醐天皇に許されて、上京に寺地まで与えられているのですね。それは大覚妙実がとりなしを行ったためではないでしょうか。彼は近衛経忠もしくは後醍醐天皇の子息であると言われており、僧籍に入って大覚寺で学んでいたところを日像と出会い、師事したわけです。一方もし、後醍醐天皇が自らの子、もしくは側近の子息が三度も追放を食らう程『過激』な宗派に入っていたと知ったなら、どのような行動をとるでしょうか。徹底的に引き離して隔離するのも一法ではありますが、穏便な手立てを考えるなら、寺地とそれなりの寺格をあたえるということもありうる話です。

1294年(永仁二年) 日像、上洛する。以後妙顕寺を建てるまでに三度京を追放される。
1297年(永仁五年) 大覚妙実、生誕。
1307年         日像、土佐配流
1308年         日像、紀伊流罪
1313年(正和二年) 大覚寺で学んでいた大覚妙実、真言宗から改宗して日像の弟子になる。
1318年(文保二年) 後醍醐天皇、即位。
             日印、鎌倉殿中問答に勝利し、幕府「題目宗」の布教を許す。
1321年(元亨元年) 日像、洛内追放
             後醍醐天皇、日像に対し洛中に妙顕寺を建てることを許す。
1324年(正中元年) 正中の変。
1328年(嘉永元年) 後醍醐天皇、鎌倉本国寺(京都本国寺の前身)を勅願寺とする。
1334年(建武元年) 妙顕寺、勅願寺となる。

 建武の中興の崩壊後、京に入った足利尊氏は一時後醍醐天皇の身柄を拘束しましたが、脱出されて吉野に朝廷を作られてしまいました。直義は北朝を正統とすべしと考えていたようでしたが、尊氏は選択肢として南朝の正統性も認めて両統迭立のオプションを捨てきれなかったフシがあります。その構想に大覚妙実が乗って足利幕府と南朝のパイプ役を果たしたと考えれば、観応の擾乱の折の妙顕寺の動向もわからなくありません。
 当初は光厳上皇に警戒されていた妙顕寺も、拉致された上皇達の返還への尽力によって後光厳天皇に認められて洛中に居場所を確保でき、それに伴って日蓮は大菩薩、日朗、日像は菩薩号を受けるにまでいたります。これはまさに大覚妙実の自己実現の物語と言えるかもしれません。

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 大覚妙実の後を継いだ朗源は鎌倉幕府における有力御家人であった千葉一族出身で、日朗、日像らと同様関東出身です。もともとの形に戻ったといえるかもしれません。よって、朗源の代における幕府からの祈祷依頼は1366年(貞治五年)の一回だけでした。大覚妙実の祈りは天に通じて雨を降らせ、勅語や寺地の恵みをもたらしていました。ことに後光巌天皇の勅の中の四海唱導には四条門流の宗徒達は大いに勇気づけられたことであったでしょう。このまま活躍し続けていれば、いつかは帝や将軍も法華に帰依して、日蓮が掲げた立正安国が実現するのではないか。そう思われたと思われます。大覚妙実が示寂して、その夢は醒めました。天皇や将軍は妙顕寺に祈祷を依頼します。しかし、それは今まで信じていた他の宗旨を廃してまで日蓮や法華経を信じるということではありませんでした。将軍家はもともとは真言宗で、鎌倉の北条家の影響で禅に傾倒している形です。法華宗だけではなく、天台宗その他さまざまな寺院に対して加持祈祷を依頼し、その法力を権力の源泉にしていたわけですね。本質的な状況は日蓮の時代と何ら変わっていなかった訳です。

 そんな中、妙顕寺が分裂します。なかなか部外者にはこの辺りの事情を知りがたいのですが、朗源の後継を日霽と争った結果、日実という僧が妙顕寺をでて、一寺を建立したのです。驚くべきことにそのパトロンとなったのは天皇や公家、武士階層ではなく、商人でありました。京の町衆である小野妙覚が日実の後ろ盾となり、四条櫛笥にあった妙顕寺のすぐそば、四条大宮に具足山妙覚寺という寺院を建てたのです。ここには小野妙覚の邸宅があったそうです。寺号の妙覚はパトロンとなった小野妙覚の法号で、それだけならまだ納得できるのですが、この寺の山号は具足山といい、妙顕寺と同じものが付けられました。後醍醐天皇の勅願寺となり、後光巌天皇も四海唱導と謳った妙顕寺と同格であると主張しているのと同じことでした。戦闘的な日蓮の教団であれば、普通こういうものはすぐさまつぶされるように思われます。現に、比叡山延暦寺はもっと過激に他宗の寺院を破却しまくってます。しかし、どういう事情かこの妙覚寺はこの後も具足山を山号にしたまま生き残ってゆきます。もしこれが一介の商家出身の宗徒に過ぎない小野妙覚の調整の賜物であるとすれば、京の町衆の実力の凄さを感じることができるかもしれません。尚、戦国時代に入ってからですがこの寺で修行した僧から戦国大名が出ております。美濃の蝮こと、斎藤道三です。

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2013年12月14日 (土)

中漠:法華編⑮北朝復活

 足利尊氏の留守中、京を守っていたのは嫡子義詮でした。退位したとはいえ崇光上皇は光巌・光明上皇とともに京都におり、義詮は京の治安を守るだけではなく、彼らの保護も役目として負わされていました。鎌倉での足利尊氏戦勝が伝えられた時、京では南朝が賀名生をいでて住吉経由で八幡まで迫っておりました。その期間中洛内で暴れまわっていたのが祇園社、延暦寺傘下の寺で、現在の八坂神社です。二月二十五日、足利直義が毒殺される前日に、祇園社は尊氏が狼藉荷を禁じたはずの妙顕寺を焼きます。さらに翌閏二月一日には東山渋谷にあった仏光寺を焼いたあと、そこの住持の顕詮が南朝の住吉行宮に参候して、社の造営を奏します。義詮はこの期間祇園社に天下静謐を祈らせます。一見して祇園社が足利義詮を見限って南朝についたとも見えますが、その義詮はこの住吉行宮での接触の三日後に祇園社に対して天下静謐を祈らせております。
 これを分析するに、南朝との交渉窓口を祇園社に移してあたらせたということだったかもしれませんね。もちろん、その条件として洛中洛外の目障りな寺院に対しての乱暴狼藉には目を瞑ってもらうという条件でだったでしょう。しかし、直義の時とは違って今回の南朝は強硬かつ、迅速でした。南朝と祇園社との接触の十日後に足利尊氏は鎌倉を追われ、その翌日に義詮は南朝軍に京を追われます。
 奇妙なことに、京を追われた義詮の依頼を受けて祇園社は閏二月二十五日、義詮の京都脱出の五日後に天下静謐の祈祷を行っています。但し、祇園社はその翌週には南朝の依頼で同じことを行ってます。このあたり、権力の移行期に自らを双方に高く売りつけながら生き延びようとする祇園社のしたたかさなのかもしれません。

 三月に入って尊氏は鎌倉を、義詮は京都を奪還しました。今回の南朝の動きは迅速でしたがいかんせん、基礎体力が足りていなかったわけです。京都奪還にあたって延暦寺は義詮から褒賞をもらってますから、軍事行動と同時に足利軍を手伝ったのかと思言われます。しかし、光巌・光明・崇光の三上皇は南朝に拉致されて賀名生に移されてしまいました。義詮にとっては痛恨事であったでしょう。やむなく崇光上皇の弟の後光厳天皇を立てて北朝を復活させることとしました。
 一方の南朝も一時的にとはいえ京都奪還に成功しました。と同時に自らの体力のなさも自覚し、旧直義党を糾合します。1353年(文和二年)には楠木正儀と山名党が京都を占拠します。義詮はこれを撃退するのですが、その後になって足利尊氏はやっと帰京します。一年以上都を開けていたのですね。長い遠征でしたが、これで義詮は武将として使えるまでに成長します。1355年(文和四年)には今度は足利直冬と桃井党が京都を占領しますが、足利尊氏・義詮親子がこれを撃退しました。その奪還した京都において足利義詮は妙顕寺に対して二度目の乱入狼藉禁止の命令を出します。同じ寺院に同じ内容のものを二度も出すというのは奇異に見えますが、敵味方入り乱れる中、妙顕寺も被害を蒙っているだけに再度の保証が必要だったのでしょう。ただし、足利幕府が何の見返りもなく、妙顕寺の為に禁制をだすのは考えにくいですね。

 南朝の攻撃を跳ね返した足利尊氏・義詮親子の次なる課題は、南朝に拉致された三上皇の帰還でした。妙顕寺のための禁制を出した三ヶ月後の八月八日、南朝に拉致された三上皇のうち、光明上皇が解放されて京都に入ります。他の二上皇よりも早めに解放されたのは上皇の中でも最高ランクの治天ではないことと、剃髪出家したことが考慮されたものかとは思います。注目すべきは光明天皇が帰還したのと同じ月に妙顕寺が近江と備前に寺領をもらっていることです。
 さらに二年後の1357年(延文二年)の正月になって、今度は尊氏・義詮親子は妙顕寺と祇園社に命じて天下静謐を祈らせます。祇園社が天下静謐を祈ることはあまり珍しくはありません。しかし祇園社はこの五年前に妙顕寺の法華堂を破却しておりこの取り合わせは一見奇異に見えます。祇園社とその背後にいる延暦寺に禁制を守れと目配りをおこなったということでしょう。現に禁制が破られた時、なぜか足利義詮は南朝に京を追われています。しかし今度は逆の結果が出ました。天下静謐の祈祷とタイミングを同じくして大きなイベントがおこりました。祈祷の翌月に光厳・崇光の二上皇が京都に帰還したのです。

 以上を踏まえての推論ですが、妙顕寺は足利親子の依頼を受けて、拉致された三上皇の返還交渉に携わっていたのではないかと私は考えております。その所作として、光厳・崇光の二上皇が帰還した年の八月に妙顕寺が後光厳天皇の綸旨により四海静謐を祈祷させる光栄に浴したことをあげます。もともと妙顕寺は後醍醐天皇の引立てにあって洛中で布教活動を許された寺です。勅願寺にもなりましたが、これは大覚寺統の指定によるものです。足利尊氏や義詮の保護は受けたものの、北朝系の天皇・上皇とはあまり縁がありませんでした。寧ろ二度も禁制が必要になるくらい迫害を受けていたのですね。その妙顕寺に北朝の天皇から依頼が来るのですから、これは彼らにとって利益となる計らいを妙顕寺がしたと考えれば、すんなり呑み込めるのではないかと思います。

 三上皇が揃って再び洛内の土を踏んだ頃、足利尊氏には寿命が近づいておりました。背中にできた腫物が原因といい、癌であったようです。幕府は洛中洛外の諸寺院に尊氏の為に祈祷をさせました。もちろん妙顕寺もその中の一つでした。祈祷の甲斐なく、1358年(延文三年)四月三十日、足利尊氏は没します。
 その年の夏は大干ばつに襲われたそうです。後光厳天皇は京洛の諸寺院に雨乞いを命じますが、うまく行きません。お鉢が妙顕寺にまわってきました。祈祷をするのは住持妙実です。祈祷を始めるや瞬く間に大雨が降ったなどという話があります。妙顕寺は北朝朝廷から『四海唱導』をなすべしとのお墨付き、妙実に対しては、大僧正号、と『大覚』の称号をもらいました。以後妙実は大覚妙実上人と呼ばれるようになります。
 『四海唱導』は世界中に教え説き、人を導きなさいという意味です。布教活動の実質的な承認ですね。お墨付きそのものは光明天皇の代に本国寺も『四海太平』の勅をいただいておりますが、大覚妙実は宗祖日蓮に大菩薩号、師匠筋の日朗、日像に菩薩号をいただくことにも成功しております。さらに、妙実がいただいた称号の『大覚』は彼が法華宗に改宗する以前に学んだ嵯峨野にある真言宗寺院の大覚寺にちなんだものです。さらに穿てば、大覚寺は大覚寺統の名前のもとになった寺院であり、これを与えた後光厳天皇が妙実をして南朝につながりのある者として見ていたのではないかと思うのです。

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2013年12月12日 (木)

中漠:法華編⑭正平一統

 この新体制は半年ももちませんでした。突然、播磨の赤松則祐(円心の息子)と近江の佐々木導誉が挙兵します。直義が対策を講じる前に足利尊氏と義詮親子がそれぞれ播磨と近江に勝手に出陣してしまいました。どちらも足利一門ではなく、足利尊氏と気脈を通じていた梟雄たちです。狙いは京都を東西から挟撃することにありました。それを察した直義は京を脱出して北国に逃れます。都には光巌上皇と崇光天皇が置き去りにされていました。一応延暦寺に避難する申し出はしたようですが、断られたようです。

 途上、近江で一戦を経たのち、足利尊氏は京に入ります。ここで尊氏は妙顕寺に対する乱暴狼藉への禁制をだしております。ということは実際に乱暴狼藉があったもしくは、起りそうな状況を尊氏が封じる挙にでたということでもあります。その真意はその翌月の尊氏の行動をみれば察することができるでしょう。足利尊氏は南朝に降伏したのです。足利直義が南朝に降伏した時点で上杉重能は既に亡くなっております。養子の能憲は関東を根拠地にしており、高師直暗殺を主導しましたが、当時は若干十八歳にして京にいた期間はわずか半年余りです。なので足利直義に本国寺に斟酌することはなかったと思われます。本国寺に何かの役割を期待しているのなら、そもそも京都を退転することもなかったでしょう。本国寺については1345年(貞和元年)に広大な寺地を光巌上皇から賜って以来、応安年間に二条某から妙顕寺住持に対して、妙顕寺に並ぶ威勢をもつ法華宗寺院として本国寺があげられるまで、詳しい動向は拾えておりません。
 妙顕寺住持妙実を南朝の貴人に連なる人物としてみた場合、足利尊氏が妙顕寺への乱入狼藉を禁じたことは、別な政治的意味をもっているように思われます。すなわち、その翌月の九月二十二日に足利尊氏は南朝に降伏したのです。先に直義が南朝へは降伏しておりますが、直義は高師直を討った後、事実上この降伏を棚上げしてしまっております。それを逆手に取った戦術でした。

 もちろん、南朝から見れば弟が破った約定を兄がまた破らない保証はないのですから、当然直義が降伏した時よりも条件をつり上げるでしょうし、交渉は難航したことでしょう。足利尊氏は自分が持っている南朝人脈を総動員してこの交渉にあたったのではないでしょうか。だとすれば、妙顕寺への保護と引き換えに妙実もまたこの交渉に駆り出された可能性はあったのではないかと思います。その他の南朝人脈だと南禅寺の夢窓疎石がいますが、尊氏の南朝降伏直前の九月三十日に示寂しております。そもそも兄弟そろってこの師父に帰依してますから元気だったとしてもどちらかの為に動けたとは考えにくい。一方の妙顕寺は足利直義、上杉重能らが後ろ盾になった本国寺とは先代の因縁もあってライバル関係にありましたから、そうした申し出があれば、断る理由も希薄だったのではないでしょうか。

 1351年(観応二年)十月、尊氏の降伏交渉はまとまり、北朝で使っていた観応の年号は廃されて観応二年は正平六年となります。事実上北朝は廃されて南朝が正統な日本国の君主となります。これを称して正平一統といいます。翌十一月には北朝の崇光天皇が退位し、一天二日の異常事態たる南北朝は一旦休止します。持明院統としてはたまったものではありませんが。直義降伏の時とは違い、今度は南朝も各地に挙兵を促しています。また尊氏には北朝の廃止をさせています。尊氏としてはそこまで妥協しても直義を倒すことを優先させました。観応の擾乱までは色々ブレのある人物でしたが、観応の擾乱以後足利尊氏はほとんどブレなくなりました。逆境が尊氏の人格を変えたのかもしれません。それが足利幕府の真の始まりであり、曲がりなりにも十五代の継続させた原動力となったのでしょう。
 足利直義は北陸で敗れ、鎌倉に逃げ込みましたがその直後に尊氏自らが鎌倉に追撃に向かい捕虜にしました。直義は寺に押し込められますが間もなく毒殺されます。その日は奇しくも高師直の一周忌にあたりました。尊氏の報復であったと思われます。足利直義を中心として反高師直で結束した足利一門衆グループは一度ここで瓦解するのですが、事態はさらに動転します。尊氏の直義討伐の留守を狙って南朝軍が義詮の守る京都に攻め込んできたのでした。

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2013年12月11日 (水)

中漠:法華編⑬観応の擾乱

 足利直義失脚後の幕府の体制は、足利尊氏、その執事高師直、そして足利直義の代理としての義詮が中心になります。とはいってもこのとき足利義詮は弱冠二十一歳。しかも京で育ったわけではなく、それまでずっと鎌倉にいたわけですから、京都の政治情勢には疎くてもやむを得ないところです。尊氏を支えるというよりも、次代の指導者として尊氏と高師直らの助けの必要な状態でありました。それまでは足利直義と高師直の両輪の上に尊氏が乗るという形になっていましたから、明らかに体制にほころびが生じているわけです。
 しかも、高師直が一門衆を圧迫している状況であったため、巨大な氏族である足利一門衆がこれに不満をもつことは避けられませんでした。それが一番最初に現れたのが、中国地方においてです。当時ここを治めていたのが長門探題を務めていた足利直冬。彼は足利尊氏の庶子でありましたが、尊氏に認められず、直義が養子にしたという人物でした。そういう事情があって、足利直冬は一門衆ではありましたが、その立場は直義の引き立てによるものでした。直義の失脚に伴い、直冬には足利幕府に従う理由はなくなったも同然です。足利直冬は上洛しようとして、播磨の赤松円心に押しとどめられるのですが、なおも押し通ろうとして兵を催促しました。そのことが足利尊氏の知るところになり、直冬は中国から追い出されますが、九州に逃れ、そこで少弐氏と結託して盛り返します。

 足利尊氏と高師直はこれを討伐するために出兵します。しかし、その背後で足利直義は蠢動しておりました。と言うよりも、直冬の行動は直義と示し合わせていたフシがあります。足利尊氏と高師直の出陣後に足利直義は京を脱出、そしてあろうことか南朝に降伏したのです。吉野から賀名生に逃れた南朝方には直義の底意を疑う者もいましたが、九州では直冬と南朝の懐良親王が連携して足利方の一色氏範を追い出しています。また、高師直には吉野を追い出された恨みもあったため、後村上天皇は真意を疑いつつも、この話に乗りました。足利直義は挙兵して京に攻め込みます。ここを守っていた足利義詮はあっというまに京を抜かれ、撤退を余儀なくされます。
 直冬攻めのために山陽道を西下する途上にあった足利尊氏と高師直はこの知らせを聞いて京に戻ろうとしますが、打出浜(現在の兵庫県芦屋市)で待ち構えていた足利直義軍と遭遇します。
 足利直義は尊氏ではなく、高師直を討つことを掲げて挙兵しました。高師直は戦争に強いのは確かですが、多くの人々に憎まれておりました。打出浜に臨んだ時、尊氏軍には陣から抜け出す武将が続出して不利な戦いを強いられました。尊氏・高師直は降参します。和議にあたって尊氏は高師直の助命を条件とし、直義は一旦それを飲みます。しかし、京への護送中に高師直は武庫川べりで直義軍に一族もろとも打ち取られてしまいました。手を下したのは上杉重能の養子能憲です。養父重能は流罪になったにもかかわらず、直後に高師直の手で暗殺されています。先に手を出した以上、このような運命になってしまうことはやむを得ざるところでしょう。ただし、尊氏の面子は丸潰れになりました。

 新体制は足利尊氏とそれを補佐する真の実力者直義、足利家跡継ぎ見習いの義詮の三頭立ての政権となりました。しかし、直義は高師直との戦いで勝ちを拾うために無理をしすぎていました。その一つは南朝に降ったこと、もう一つは敵を高師直として足利尊氏とはしなかったことでした。南朝への降伏に関しては直義は反故にして光巌上皇の不安を宥めましたが、それでも今後政治的な事情が変わればまた裏切られるのではないかという不信が芽生えることはやむを得ないことだったでしょう。そして、尊氏打倒ではなく、高師直打倒としたこと。直義としては尊氏を傀儡として操るつもりだったのですが、直義が尊氏の惣領権を否定していない以上、尊氏が惣領権を行使することを押しとどめる名分はないのです。京に戻った足利尊氏は逼塞するどころか、以前以上に一門衆に対して当主意識をむき出しにした対応をとります。これは直義が京で政治がとれるのは尊氏がその業務を代行させているに過ぎないということを示したデモンストレーションでもありました。足利氏の一門衆に動揺が広がります。

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2013年12月 7日 (土)

中漠:法華編⑫執事戦争

 上杉重能は足利直義の執事です。彼をはじめとする足利直義の側近衆が危険視する勢力がいました。足利尊氏の執事である高師直です。高師直は足利尊氏に忠実な執事であり、直義よりも軍事能力に秀でていました。
 足利尊氏が京を掌握し、幕府を開いて以来、足利家は従来の足利家の譜代衆や一門衆だけではなく、関西にいて土岐頼遠や佐々木高氏(導誉)ら、非一門衆の協力をとりつけて軍団を指揮監督する必要が出てきました。従来の譜代・一門衆は足利直義が、そして、関西に拠点を持つ非一門衆は高師直が対応するようになっていたのです。高師直はいわば今の会社組織でいうところの新規事業担当役員であったわけですね。足利家一門衆や譜代衆は昔からの気心の知れた人々ですが、高師直はそういう人々とは毛並みの違った人々を相手にする気苦労の多い役目を負わされていたわけです。

 そんな中、摂河泉地方で楠木正行が示威行動を始めます。南朝方は貞和年間までに楠木正成、名和長年、千種忠顕、新田義貞、脇屋義助、北畠顕家等、主力メンバーの大半が討ち取られておりました。残存の最後の有望株が楠木正行だったわけです。しかしながら、彼のフィールドである摂河泉地方においても、まともに戦えるだけの戦力はありませんでした。そこでやむなくとった先方が父親である楠木正成譲りのゲリラ戦法でした。足利直義はこれに対応するために細川顕氏と山名時氏を派遣します。ともに足利家の譜代衆でした。楠木正行を何とかしさえすれば、南朝による組織的な反攻はほぼ不可能になります。であるからこそ、足利直義派一門・譜代衆である細川・山名を差し向けて関西の諸豪族に対する足利家のプレゼンスを示したかったはずでした。しかし、結果としては楠木正行の注文相撲に見事にはまって敗北します。
 この後始末を託されたのが新規事業担当役員の高師直だったのです。彼は圧倒的な兵力で楠木正行を押し包み、四条畷の合戦において楠木正行を討ち取ることに成功しました。さらにその余勢をかって南朝の根拠地である吉野まで攻め入ります。後村上天皇は吉野からさらに山奥の賀名生に逃れ、南朝勢力はほぼ壊滅。南北朝の争いの趨勢はほぼ決っしました。高師直は与えられたミッションを完遂しました。同時に、高師直自ら率いる非一門・非譜代で構成した軍団の実力を立証したわけです。

 逆に足利一門・譜代衆は面目を失うことになりました。その後の政治的駆け引きがあって、1349年(貞和五年)六月に高師直は執事職罷免を突如言い渡されます。足利直義が兄、尊氏に迫ったためです。表向きには上杉重能、畠山重宗等の直義側近による高師直についての糾弾がありました。彼らが言うことには高師直は土岐頼遠に近いものの考え方をしているということでした。すなわち、天皇が人間である必要はない。物言わぬ木石で十分であると。もっともこれは太平記にある言葉で、必ずしも高師直本人の考えではないかもしれません。

 これは当然起こりうる権力闘争であったと思われます。主は違えど高師直と上杉重能はともに執事でした。鎌倉幕府を事実上取り仕切った北条家はもともと源家の執権、すなわち執事であります。発足間もない足利氏の幕府はいずれ執事によって切り盛りされることは容易に予想されることです。よって、上杉重能は足利尊氏の執事である高師直をのぞかねばならなかったのです。

 この政争で高師直は後の先をとりました。一旦、執権職の罷免を受け入れ逼塞したように見せたのです。上杉重能は追い打ちをかけるように、高師直を暗殺しようとしましたが、それよりも早く高師直は動きました。
 1349年(貞和五年)十二月、高師直は兵を率いて足利直義の屋敷へ迫ります。密かに畿内の豪族たちに動員をかけていたのです。足利直義派もこの事態を予想して洛中に兵を集めるつもりでしたが、直義の支持基盤は関東に拠点を持つ有力一門衆や御家人衆でした。ことを起こすに当たり、関東にある彼らの強力な兵力を事前に洛中の本国寺あたりに集結させていたなら、高師直には手も足も出す余地はなかったものと思われます。師直は畿内の豪族、悪党層に絞って声をかけて迅速な動員を成功させたのです。
 師直の貫録勝ちでした。足利直義は兄尊氏の屋敷に逃げ込み、師直はその屋敷を囲んで直義の身柄引き渡しを要求します。もはや直義はどこにも逃げられませんでした。直義は政務の職を辞して出家、上杉重能と畠山重宗も出家の上流罪が申し渡されましたが、間もなく上杉と畠山は暗殺されます。高師直はやることにそつはありませんでした。

 政務を退いた直義にかわる足利尊氏を補佐として鎌倉にいる千寿王が指名されました。元服して足利義詮と名乗ります。彼は上洛すると、京都近辺の諸寺(実相寺、妙顕寺、桂宮院、恩徳院、備後浄土寺)に天下静謐を祈らせます。その折の法華宗代表は妙顕寺でした。直義は没落し、上杉重能は暗殺されています。その上で、天下静謐を後醍醐天皇の勅願寺として指定された妙顕寺に祈らせることは、すなわち本国寺に対する妙顕寺の優位を足利幕府が認めたという意味もあったのかもしれません。

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2013年12月 5日 (木)

中漠:法華編⑪洛中における潜在的南朝勢力

 本稿から5回くらいをかけて観応の擾乱について述べてみたいと思います。一見日蓮の法華宗とは何の関係もなさそうに見えますが、観応の擾乱は妙顕寺や本国寺が洛中に寺地を賜った折の当事者達が起した事件です。同時期の妙顕寺や本国寺の動向を合わせてこの事変を観察すれば、別な実像が見えてくるのではないかと思い、筆を起こしてみました。

 妙顕寺が御溝傍今小路から四条櫛笥に移った翌年、1342年(暦応五年)に日像は示寂しました。後継したのは妙実という弟子でした。彼の正確な出自ははっきりしないのですが、一説に後醍醐天皇の皇子であるとも、一説に近衛経忠の子息であるとも言われております。近衛経忠は後醍醐天皇の朝廷において、関白、内覧、左大臣を歴任し、建武体制崩壊後、北朝の光巌天皇治下で関白を任命されるも吉野に脱走。後醍醐天皇と後村上天皇の側近として仕えました。いずれが本当の親であったにせよ、彼は南朝系の高貴な血筋の人物であることには変わりません。また、妙実は多田頼貞という南朝方で戦った武将と親交を結び、彼のために備前国に松寿寺という寺院を開基しております。足利尊氏が京都を占領して、北朝の天子が据えられたといっても、南朝系の人物の活躍の余地は大きくあったわけです。

 妙実が妙顕寺の住持を継いだのと同じ年に洛内で重大事件が起こります。美濃国守護の土岐頼遠が笠懸の帰りに光巌上皇の牛車と行き逢い、上皇の従者から下馬を命じられたことに腹を立てて、あろうことか光巌上皇の牛車に矢を射かけてしまったのです。土岐一族は正中の変の頃から後醍醐天皇の討幕運動に加担していた一族です。足利尊氏との関係から、土岐頼遠と彼の父親である土岐頼貞は北朝に味方しましたが、土岐頼遠本人は全く北朝の権威を認めていないことが明らかになったわけです。それでなくとも土岐頼遠とは別系統の土岐一族の中には南朝方に与している者がいました。
 その中の一人に土岐頼直という人物がいます。土岐頼遠の兄にあたる人物で、太平記においては足利尊氏方として東寺合戦で奮戦した記述があるそうですが、一説においては尊氏が九州から上洛戦をした折に、南朝方の脇屋義助軍に従軍して後醍醐天皇とともに比叡山に籠っていたらしい。この土岐頼直が太平記の頼直と同一人物をさすのかどうかわかりませんが、比叡山に籠っていた土岐頼直は法華宗徒でした。
 一方の土岐頼貞・頼遠親子は南禅寺の夢窓疎石に師事して禅宗を収めており、夢窓疎石は頼遠の助命を請いましたが、足利直義は自らの禅の師でもある夢窓疎石の嘆願よりも秩序の維持を重んじて、土岐頼遠を斬首に処しました。但し、そのままでは土岐一族はすべて南朝に与しかねないので、頼遠の甥、頼康に美濃守護家を継がせて美濃国守護土岐家を存続させました。

 光巌上皇にとってみれば、土岐一族は恐怖すべき存在であり、足利直義は信頼できる人物に見えたことでしょう。一方で、洛中に妙顕寺のような後醍醐天皇の引立てで勅願寺になったような寺に妙実のような南朝に連なる人物が住持を務めているような状況に危惧を感じたのではないかと思われます。光巌上皇は北朝の治天ではありましたが、土岐頼遠が端無くも示した通り、武家政権の傀儡でしかなく、勘気に任せて寺を潰すことはできません。この事件は光巌上皇の心に深い翳を作りました。

 足利直義の執事に上杉重能という人物がいました。彼は貴族の勧修寺家出身ではありましたが、親戚筋の武家である上杉家に養子に入った人物です。彼の叔父が日静という法華宗の僧でありました。光巌上皇は彼に目をかけ、洛中に広大な寺地を与えます。与えられた寺地は堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の十二町にも及ぶ広さでした。妙顕寺を圧するどころか下手をすると足利尊氏の館や御所よりも広かったわけですね。その結果、日静の本国寺から始まり、その甥にあたる上杉重能、重能を執事として使う足利直義、直義らが担いだ治天の君である光巌上皇のラインが出来上がりました。

 足利直義は尊氏と京において二頭政治を敷く一方の極でありました。兄尊氏より有能な政治家であり、足利幕府の初動を政治の面で安定化させた実力者でした。併せて謀略家でもあり、鎌倉に幽閉された護良親王を暗殺した梟雄でもあります。本国寺は光巌天皇が言い出したこととはいえ、幕府が許可を出さねば洛中に大寺を建てることは不可能です。また、京都のような市街地において寺は城塞の機能も有します。足利尊氏が九州から上洛した折、後醍醐天皇とが京で争った時においても、後醍醐天皇が光巌上皇と一緒に延暦寺に避難しようとしたのを拒んで東寺に入りました。そこに足利尊氏が入って市街戦の本陣兼仮の行宮となったこともあります。同様に本国寺の広大な敷地もいざという時に兵が集結できるように構想されたのではないかと私は考えております。現に本国寺は戦国時代の後半になって、城塞としての機能を十二分に果たすことになります。

 本国寺は妙顕寺と同じ日朗系の寺院でしたが、先述したとおり、日朗の弟子間で日印とその他の弟子との折り合いが悪く、それぞれが別の門流を作っておりました。光巌上皇にとって本国寺は南朝系の妙顕寺を牽制するものだったと思われます。ただし、南朝方の土岐頼直をして法華宗徒にしたのは日静の師である日印である、ということは多分光巌上皇も知らなかったことでしょう。

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2013年12月 3日 (火)

中漠:法華編⑩ブルーオーシャン・レッドオーシャン

 平安京が造営された時代から鎌倉時代まで、東寺や壬生寺などいくつかの例外を除いては、寺というものは条坊の外に置かれるものでした。神道由来の都は清浄が保たれなければならない、という発想故ではなかったかと思料します。都の中で死んだ人間は鳥辺野や紫野等、洛外の埋葬地に送られてそこに葬られます。罪人の処刑場として使われる三条川原も洛外扱いです。

 もちろん武家もそうです。それ故か、鎌倉時代に後鳥羽上皇と北条義時が争った承久の乱後に、鎌倉幕府は京の朝廷を監視する目的で六波羅探題を置きましたが、それとても鴨川の東側、条坊の外側にありました。
 日像が後醍醐天皇から寺地を賜った日像が建てた妙顕寺もそうです。勅願寺の指定を受けてはいたものの、御溝傍今小路(上京区)は他の寺院と同じく平安京の碁盤の外です。それが当時の常識でした。

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 ところが、建武の新政は長続きせず、後醍醐天皇は吉野で崩御します。替わって京に入ってきた足利尊氏は、毛並みこそは良かったものの、鎌倉生まれの鎌倉育ちでそういった京都の常識とは無縁というか、自分の常識が京都の常識とはずれていることに気づいていないところがありました。
 足利尊氏は自らの一族の菩提寺を三条坊門柳馬場に作ってしまったのですね。最明寺入道北条時頼以降、北条家の当主は自分の家を寺にしてしまって、そこで政治を見ていました。彼らはもともと武家なのだから、別段死の穢れを忌避することはしなかったのです。だから、足利尊氏が上洛後も鎌倉の常識を引きずって条坊内に寺を建てたのです。この寺を号して等持寺といいます。流石に京都暮らしが長くなると足利尊氏も空気を読んで、墓所を洛北に移して等持院を建てました。
 彼は寛容な性格で、政敵である後醍醐天皇の菩提を弔う為に洛西に天龍寺を建てるなどして、決して後醍醐天皇の事跡のすべてを覆すことはしませんでした。それどころか、後醍醐天皇をはじめとする歴代天皇が行わなかったことを始めます。そんな足利尊氏も、鎌倉の武家であるが故に、お茶目なミステイクをしでかしたわけですが、当初はこの失敗を認めずに、糊塗しにかかりました。等持寺以外にも、洛内に寺を作ってしまえばいいじゃないかと考えたのですね。

 足利尊氏・直義が等持寺を作ったのと同じ年の1341年(暦応四年)に妙顕寺は御溝傍今小路から四条櫛笥に移ります。地名から判断するに、現在の阪急四条大宮駅のあたりであり、堂々たる洛中の寺ということになります。
  足利兄弟が日像に期待したのは、戦乱の中没落した法華宗の寺僧達の統制でした。それは日像が弟子の妙実にあてた手紙にも書かれていることです。事実上近隣にライバルはいません。日像がターゲットとしたのは、御家人や京の町衆達でした。ライバルのいない処女地において、思うがままに自らの勢力を固められる状況をビジネス用語でブルー・オーシャンと呼びます。日像は自らの前途に青い海原を見たのではないでしょうか。

 1345年(貞和元年)京に来ていた日静が光巌上皇から洛内に寺地を賜ります。東西に堀川通り、大宮通り。南北に七条通り、六条坊門通りに囲まれた領域でした。当時京にあった里内裏や武家の館に比べても破格の広さです。日静はここに本国寺を建てました。さらに、光明天皇からも正嫡付法の綸旨という、日印=日静の門流こそ日蓮の教えを正統に受け継がれたものであることを保証する綸旨を与えました。日静自身は勧修寺家から分かれた上杉家出身で、甥にあたる上杉重能は足利尊氏・直義の側近として仕えておりました。本国寺は江戸時代になって、寺号に水戸光圀の圀の字をもらって本圀寺と改称しますが、本稿においては本国寺で通します。四条門流が後醍醐天皇の保護を得たのと同様に、日静は足利尊氏や上杉氏の外護があったと見て間違いのないところでしょう。日静が京において開いた流派を六条門流といいます。

 日像は本国寺創建の三年前、1342年(康永元年)に亡くなります。日像と日印は兄弟弟子でしたが、師日朗から譲られた日蓮ゆかりの重宝を巡って深刻な対立関係にありました。
 本国寺のターゲットもまた、妙顕寺と同じく在京の御家人であり、町衆です。ビジネス用語では限られたシェアを相争う市場のことを血の海になぞらえてレッドオーシャンと呼びます。京における法華宗はこうして一派に統一されることなく、二派に分かれてシェアの分捕りあいをすることになります。その対立構造に輪をかけたのが、南北朝期の騒乱の政治情勢でした。

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