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2013年12月26日 (木)

中漠:法華編⑳宗祖への回帰または、差別化戦略

 洛中における法華宗四条門流と六条門流のシェアの奪い合いは概ね六条門流優位に進めました。途中観応の擾乱の折には足利直義の執事として働いた上杉重能が暗殺されたり、光巌上皇・光明天皇が南朝に拉致されるという後ろ盾を失う等の局面もありましたが、足利義満の庇護を得たり、関白近衛道嗣の子を門流に迎えたりするなどして教勢を伸ばしました。1410年(応永十七年)には近衛道嗣の子の日秀が、本国寺より分流して町尻小路今出川に本満寺を建立します。
 一方の妙顕寺は二世大覚妙実が南朝との太いパイプを持ち、同時に足利尊氏・義詮の為に働いた事が珍重された要因であったと私は考えております。後醍醐天皇亡き後の南朝勢力の衰亡したとはいえ、義満の代における合一後も後亀山院が吉野に帰ろうとするなどしていくつかのデリケートな問題が残っていました。妙顕寺は幕府から度々祈祷の依頼を受けていますが、その時期と問題の発生時期が一致しているケースがいくつか見当たるというのが、そう考える根拠です。他方、比叡山延暦寺もまた南朝との太いパイプを有していたのですね。後醍醐天皇の皇子である護良親王を天台座主に据えたり、足利尊氏が京に攻め込んできたときにはここを行宮所としていました。交渉ごとの鉄則は複数のルートを持たないことにありますが、延暦寺と妙顕寺は同じ役目を負わされており、それ故延暦寺は妙顕寺に煮え湯を呑まされる事態も発生したのではないか。洛中には四条門流と六条門流という二つの法華宗の有力勢力があったのですが、四条門流の妙顕寺が集中的に襲われたのはそういった事情があったのではなかったかと推察します。

 その他の門流も南北朝期の前後に洛内に入ってきました。前稿では書洩らしておりましたが、建武親政期に富士門流系の日尊が後醍醐天皇から寺地の寄進を受けて六角油小路に上行院を建立しております。日頂系というよりも御家人でもあった養父日常系と言ったほうが妥当かと思いますが、弘法寺に学んだ日什は足利義満に許されて六条坊門室町に妙満寺を建てました。同じく日常の中山門流系の日親は足利義教の頃に東洞院綾小路に本法寺を建てるなどしています。

 室町時代前期においては洛中に数多くの法華宗系の門流が林立して競争し続けていました。その状況を許したのは京都という町の豊かさです。このころに貨幣経済が発達し、京の町衆には有徳人と呼ばれる富裕層が生まれておりました。彼らは物流業者である馬貸や金融業者である土蔵を商っておりました。法華宗諸門流は彼らをパトロンにつければ食べてゆくことが可能だったわけです。しかし、それだけでは競争に勝ち残れません。彼らは京の町衆にアピールする主張を編み出していったのです。その方針は『可能な限り日蓮の教えに近く』でした。それは妙顕寺や本国寺が権力に近づいてその意向に沿う行動をとることによって地歩を固めたことに対するアンチ・テーゼでもあります。

 宗祖である日蓮は妥協を許さない宗教家でした。彼は弾圧を受けることも辞さず、むしろ弾圧を受けるほど過激な言説であればあるほど、その教説は正しいものであるという信念をもっておりました。四条門流や六条門流の僧侶たちはその点で評価するならば、信徒や領主たちに受け入れられるようにするために、祖師の教説を曲げざるをえなかった点があったことは否めません。
 宗旨の細かい違いは分からないので立ち入れませんが、京に後からはいってきたり、新興の門流の僧侶たちは、その点をついて自らの教説の正しさをアピールしたのです。簡単にいうと①本門と迹門はどちらが大切か。②法華経を信じない者の寄進は受けてもいいか、受けてはだめか。その中でも王侯からの寄進であれば許せるか。
 最初の論点について説明しますと、妙法蓮華経は長大な経典で二十八の章立てから構成されています。前半十四章を迹門、後半十四章を本門と呼んでおりますが、法華経は最初から最後までが等しく重要なのか、後半部分がより重要なのかという論点です。それまで法華経は最初から最後までが等しく重要である(本迹一致)と教えてきた四条門流や六条門流に対抗して、日尊(日尊門流)、日什(日什門流)、日真(真門流)、日隆(日隆門流)らが攻撃を加えました。

 二番目の論点はなかなかに厄介でした。京の法華宗徒が寺を建て、法華経興隆をはかれているのは、多かれ少なかれ権力者・支配者の外護を受けているためです。そのバーターとして、時に権力者の求めに応じて祈祷や儀式を執り行うことによって、彼らに利益を供与しておりました。しかし、それは立正安国論をはじめとする日蓮の著述を読んでもわかる通り、日蓮はそれをよしとはしません。彼は佐渡流刑後に幕府から元寇調伏の祈祷を依頼されましたが、幕府が法華経を信じるようになるのは無理と判断したため、その祈祷を断りました。それに倣えと言うのが、不受不施義と呼ばれるものです。これは日親によって始められた主張です。まともに従えば、教団は反社会組織と見なされてしまいますし、施しをする人が信徒であると確認しないと布施も施しもできません。教えを広めようとするならば、折伏に次ぐ折伏を繰り返さなければならない。これを是とするにはかなりの勇気が必要です。権力者相手に折伏を試みて失敗すれば確実に弾圧が待っているのですから。しかし、敢えてこれを主張したのが日親でした。
 彼がターゲットとしたのは室町幕府第六代将軍足利義教でした。かれは比叡山延暦寺の門跡出身者で、いわば濁れる山の元頭目です。義教をはじめとする延暦寺の僧侶・元僧侶にしても、日蓮のそんな評価は薬にもしたくはなかったことでしょう。その義教に対して日親は真正面から論争を挑みました。当然のことに義教はそれを拒んで、日親に布教活動の禁止を申し渡しますが、日親はそれに従いません。義教は日親を投獄して相当残酷な拷問にかけました。しかし、日親にとって拷問は望むところでもあったのです。なぜならば、宗祖日蓮は佐渡流罪の折に、『法華経を広めるものは弾圧を受けるだろう。そのように法華経に書かれているが故に。今、自分が弾圧を受けているのは自分が正しいことの何よりの証拠である』と宣言していた故にです。
 伝説によると、日親は足利義教の死を予言したということになっております。事実、日親投獄の一年後に嘉吉の変が起こって足利義教は赤松満祐に暗殺されました。足利義教の死によって、日親を投獄しておく理由がなくなり、日親は釈放されます。日親は以後も活発に布教を続けたそうです。
 京洛という山に囲まれた盆地に法華宗はいくつもの門流が互いに切磋琢磨した結果、京都の人口の約半数までが法華宗になったとのことです。それは単にブルーオーシャンを前にして既得権益を張り巡らすのではなく、過剰なまでの競争が繰り返された結果とみることができるかもしれません。

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