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2013年12月24日 (火)

中漠:法華編⑲三度目

 さて、妙顕寺改め妙本寺に何か動きがあった時にはその前後に必ず南朝の動きがあり、延暦寺の弾圧があったことを確認しましたが、この法則がもう一回適用されます。今度は後亀山院の無断行幸事件です。
 1392年(明徳三年)に南北朝が合一します。簡単に言うと、足利義満が南朝の後亀山天皇を口先でだまくらかして京都に戻したわけです。一応、鎌倉時代のように両統迭立に戻すという条件がついていましたが、この条件は北朝の同意なしで取り結ばれていたものでした。京に戻って三種の神器を北朝に渡した以降の後亀山天皇の立場は微妙ですので、本稿では後亀山院と呼称します。但し、足利義満は最低限後亀山院の面子だけは潰さないつもりだったようです。1394年長慶院が崩御します。それを期に後亀山院には不登局帝としての太上天皇号を送ります。北朝は大反対だったのですが、ここは足利義満が押し切りました。当然後亀山院も不満で三年後にこの称号を返上します。ここで足利義満が義嗣を天皇位につけようと画策していたと仮定するなら、おそらく新たな『足利天皇家』の権威をもって天皇家の両統迭立は可能であったでしょう。さりながら、それは果たされずに足利義満は没しました。結局のところ残されたのは誰得な妥協の山だったわけです。
 義満の死後、後小松天皇の躬仁(みひと)親王を正式に立太子する動きが出てきたため、後亀山院の不満は一気に爆発します。嵯峨の大覚寺を抜け出して吉野へ出奔しました。

 その翌年に日霽を継いで妙本寺の住持となった月明が権大僧都に任じられます。大覚妙実以来の出世ではありますが、その理由が不明です。勘ぐるならば、再び旧南朝との交渉が必要となったせいでありましょうか。さらに、妙本寺は足利義持の祈願所に指定されます。足利義持は日明貿易などの父親の方針を色々覆した人物でありますが、ことさら一度定めた約定を覆すのは体裁が悪かったはずです。ところが、一年たっても後亀山院は帰ってくる気配がありません。さらに悪いことに、後亀山院が吉野に籠っている間に、後小松天皇は躬仁親王に譲位をしてしまいます。これが称光天皇です。両統迭立の約束は持明院統によって踏みにじられ、後亀山院が面子を保ちながら京都に戻る方法が消え去りました。もし妙本寺が後亀山院の還御を請け負っていたとしたら、これはもう取り返しのつけようのないことです。そして、そんな失態を見逃すような比叡山延暦寺でもないはずです。

 そんな想像はさておき1413年(応永二十年)六月二十五日、妙本寺は延暦寺の犬神人(いぬじにん)に襲撃されます。犬神人とは下級神官のことで祇園社などに属してスイーパー(掃除人)の仕事をしていた人々です。スイープする対象は神域はもちろん、祭りの折に神輿が通る辻々や町で出てくる死体なども含みます。彼らは掃除のプロフェッショナルであっという間に妙本寺の堂宇を焼き払ってしまいました。住持の月明は今度は丹波国に落ち延びます。

 吉野の後亀山院を説得したのは武家伝奏の広橋兼宣でした。六年間に及ぶ長い行幸でした。月明が京に戻ってきたのはその同じ年です。その事実もまた、月明が後亀山院の帰還交渉を当初請け負っていたという仮説の補強になるやもしれません。
 京に帰還した月明には驚くべきことが待ち受けていました。妙本寺の弟子たちが自分に無断で洛内に寺を立ててそこの住持に収まっていたのですから。
 まず、日隆が油小路高辻に本応寺という寺を建てていました。日隆と月明は教義を巡ってそりの合わない関係でした。次に日実(妙覚寺の日実とは別人)が同じ本応寺という寺号の寺を四条櫛笥に建てていました。四条櫛笥は妙本寺が妙顕寺と言っていた時代の寺地でした。三条坊門堀川の寺地は処分されてしまっていたのでここに寺を再建したのでしょう。彼も月明とそりが合わない人物だったのですが、彼は襲いかかってきた延暦寺の犬神人達と話をつけていました。こちらはあろうことか、具足山の山号を名乗っておりました。妙覚寺に次いで二度目のことでした。月明はおそらくは激怒したと思いますが、とりあえず五条大宮に妙本寺を再建します。日実の本応寺には延暦寺と話がついているので下手を打つと再建した妙本寺が再び灰燼に帰しかねなかったので、手が出せませんでした。日実の本応寺は後に具足山立本寺と改めます。妙本寺(妙顕寺)、妙覚寺、立本寺の三つの寺院はいずれも法華宗を奉じ、山号が具足山であることから龍華の三具足山と呼ばれます。

 1418年(応永二十五年)に月明は報復にでました。日隆の本応寺を襲ったのです。京に活動の場を失った日隆は摂津国大物に移り、ここで本興寺を建てます。そこは管領細川満元が守護職を務める土地で本興寺の創建には彼の援助があったと言います。日隆は京の町衆の力を借りて京に戻ります。今回協力したのは小袖屋宗句という商人で、千本極楽に寺地を提供しました。ここに本応寺を再興した日隆は自らの宗派を本門法華宗として、四条門流からの独立を宣言しました。本応寺は後に如意王丸という町衆から六角大宮に寺地を譲り受け、寺号を本能寺と改めました。ここがさらに後に織田信長終焉の地となった本能寺です。

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