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2013年12月14日 (土)

中漠:法華編⑮北朝復活

 足利尊氏の留守中、京を守っていたのは嫡子義詮でした。退位したとはいえ崇光上皇は光巌・光明上皇とともに京都におり、義詮は京の治安を守るだけではなく、彼らの保護も役目として負わされていました。鎌倉での足利尊氏戦勝が伝えられた時、京では南朝が賀名生をいでて住吉経由で八幡まで迫っておりました。その期間中洛内で暴れまわっていたのが祇園社、延暦寺傘下の寺で、現在の八坂神社です。二月二十五日、足利直義が毒殺される前日に、祇園社は尊氏が狼藉荷を禁じたはずの妙顕寺を焼きます。さらに翌閏二月一日には東山渋谷にあった仏光寺を焼いたあと、そこの住持の顕詮が南朝の住吉行宮に参候して、社の造営を奏します。義詮はこの期間祇園社に天下静謐を祈らせます。一見して祇園社が足利義詮を見限って南朝についたとも見えますが、その義詮はこの住吉行宮での接触の三日後に祇園社に対して天下静謐を祈らせております。
 これを分析するに、南朝との交渉窓口を祇園社に移してあたらせたということだったかもしれませんね。もちろん、その条件として洛中洛外の目障りな寺院に対しての乱暴狼藉には目を瞑ってもらうという条件でだったでしょう。しかし、直義の時とは違って今回の南朝は強硬かつ、迅速でした。南朝と祇園社との接触の十日後に足利尊氏は鎌倉を追われ、その翌日に義詮は南朝軍に京を追われます。
 奇妙なことに、京を追われた義詮の依頼を受けて祇園社は閏二月二十五日、義詮の京都脱出の五日後に天下静謐の祈祷を行っています。但し、祇園社はその翌週には南朝の依頼で同じことを行ってます。このあたり、権力の移行期に自らを双方に高く売りつけながら生き延びようとする祇園社のしたたかさなのかもしれません。

 三月に入って尊氏は鎌倉を、義詮は京都を奪還しました。今回の南朝の動きは迅速でしたがいかんせん、基礎体力が足りていなかったわけです。京都奪還にあたって延暦寺は義詮から褒賞をもらってますから、軍事行動と同時に足利軍を手伝ったのかと思言われます。しかし、光巌・光明・崇光の三上皇は南朝に拉致されて賀名生に移されてしまいました。義詮にとっては痛恨事であったでしょう。やむなく崇光上皇の弟の後光厳天皇を立てて北朝を復活させることとしました。
 一方の南朝も一時的にとはいえ京都奪還に成功しました。と同時に自らの体力のなさも自覚し、旧直義党を糾合します。1353年(文和二年)には楠木正儀と山名党が京都を占拠します。義詮はこれを撃退するのですが、その後になって足利尊氏はやっと帰京します。一年以上都を開けていたのですね。長い遠征でしたが、これで義詮は武将として使えるまでに成長します。1355年(文和四年)には今度は足利直冬と桃井党が京都を占領しますが、足利尊氏・義詮親子がこれを撃退しました。その奪還した京都において足利義詮は妙顕寺に対して二度目の乱入狼藉禁止の命令を出します。同じ寺院に同じ内容のものを二度も出すというのは奇異に見えますが、敵味方入り乱れる中、妙顕寺も被害を蒙っているだけに再度の保証が必要だったのでしょう。ただし、足利幕府が何の見返りもなく、妙顕寺の為に禁制をだすのは考えにくいですね。

 南朝の攻撃を跳ね返した足利尊氏・義詮親子の次なる課題は、南朝に拉致された三上皇の帰還でした。妙顕寺のための禁制を出した三ヶ月後の八月八日、南朝に拉致された三上皇のうち、光明上皇が解放されて京都に入ります。他の二上皇よりも早めに解放されたのは上皇の中でも最高ランクの治天ではないことと、剃髪出家したことが考慮されたものかとは思います。注目すべきは光明天皇が帰還したのと同じ月に妙顕寺が近江と備前に寺領をもらっていることです。
 さらに二年後の1357年(延文二年)の正月になって、今度は尊氏・義詮親子は妙顕寺と祇園社に命じて天下静謐を祈らせます。祇園社が天下静謐を祈ることはあまり珍しくはありません。しかし祇園社はこの五年前に妙顕寺の法華堂を破却しておりこの取り合わせは一見奇異に見えます。祇園社とその背後にいる延暦寺に禁制を守れと目配りをおこなったということでしょう。現に禁制が破られた時、なぜか足利義詮は南朝に京を追われています。しかし今度は逆の結果が出ました。天下静謐の祈祷とタイミングを同じくして大きなイベントがおこりました。祈祷の翌月に光厳・崇光の二上皇が京都に帰還したのです。

 以上を踏まえての推論ですが、妙顕寺は足利親子の依頼を受けて、拉致された三上皇の返還交渉に携わっていたのではないかと私は考えております。その所作として、光厳・崇光の二上皇が帰還した年の八月に妙顕寺が後光厳天皇の綸旨により四海静謐を祈祷させる光栄に浴したことをあげます。もともと妙顕寺は後醍醐天皇の引立てにあって洛中で布教活動を許された寺です。勅願寺にもなりましたが、これは大覚寺統の指定によるものです。足利尊氏や義詮の保護は受けたものの、北朝系の天皇・上皇とはあまり縁がありませんでした。寧ろ二度も禁制が必要になるくらい迫害を受けていたのですね。その妙顕寺に北朝の天皇から依頼が来るのですから、これは彼らにとって利益となる計らいを妙顕寺がしたと考えれば、すんなり呑み込めるのではないかと思います。

 三上皇が揃って再び洛内の土を踏んだ頃、足利尊氏には寿命が近づいておりました。背中にできた腫物が原因といい、癌であったようです。幕府は洛中洛外の諸寺院に尊氏の為に祈祷をさせました。もちろん妙顕寺もその中の一つでした。祈祷の甲斐なく、1358年(延文三年)四月三十日、足利尊氏は没します。
 その年の夏は大干ばつに襲われたそうです。後光厳天皇は京洛の諸寺院に雨乞いを命じますが、うまく行きません。お鉢が妙顕寺にまわってきました。祈祷をするのは住持妙実です。祈祷を始めるや瞬く間に大雨が降ったなどという話があります。妙顕寺は北朝朝廷から『四海唱導』をなすべしとのお墨付き、妙実に対しては、大僧正号、と『大覚』の称号をもらいました。以後妙実は大覚妙実上人と呼ばれるようになります。
 『四海唱導』は世界中に教え説き、人を導きなさいという意味です。布教活動の実質的な承認ですね。お墨付きそのものは光明天皇の代に本国寺も『四海太平』の勅をいただいておりますが、大覚妙実は宗祖日蓮に大菩薩号、師匠筋の日朗、日像に菩薩号をいただくことにも成功しております。さらに、妙実がいただいた称号の『大覚』は彼が法華宗に改宗する以前に学んだ嵯峨野にある真言宗寺院の大覚寺にちなんだものです。さらに穿てば、大覚寺は大覚寺統の名前のもとになった寺院であり、これを与えた後光厳天皇が妙実をして南朝につながりのある者として見ていたのではないかと思うのです。

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