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2013年12月21日 (土)

中漠:法華編⑱受難の法則

 このころになると南朝はほぼ何も出来なくなりました。京に何度か侵攻していますが、それはほぼ足利一門の勢力争いで弱みがある側が南朝の名前を借りて攻め込んでいるようなものですし、南朝が独力でやれるのは精々地方でゲリラ戦術を駆使して独立地帯を作る程度のことでありました。それでも足利幕府が内輪もめをやっている間は南朝はプレゼンスを発揮するチャンスもあったのですが、足利義満、細川頼之のコンビが地盤固めをやってからはそのチャンスもほとんどなくなりました。
 九州において懐良親王築いていた王国は今川貞世と大内義弘が蹴散らしていましたし、四国に勢力を持っていた河野氏も北朝に帰順して失脚した細川頼之の討伐に加わる始末です。最後に残ったのが楠木正儀でした。彼は細川頼之の工作で先に北朝に帰順しておりましたが、彼の失脚とともに幕府に居場所がなくなって再び南朝に帰参しておりました。彼は南朝方だった時も度々北朝との和睦交渉を取り仕切っておりました。彼が南朝方を抜けたタイミングは、長慶天皇の践祚と期を一にしております。また、彼の再帰参は長慶天皇の譲位と同じタイミングでありました。長慶天皇の在位中には南北対話の実績はほとんどありません。これをもって、南北朝合一の機運が再び高まったとみてよいでしょう。しかし、南朝にとっては遅すぎた再交渉でもあったようです。

 1385年(至徳二年)九月十日、南朝の年号でいう所の元中二年に南朝強硬派の長慶上皇が高野山の金剛峰寺に以下のような願文を奉納したと言います。「今度の雌雄、思いの如くば殊に報賽の誠を致すべし(今度の雌雄を決するに当たって思い通りになれば厚くお礼をいたします)」
 その前月に紀伊国三ヶ谷で楠木正勝と山名義理との軍事衝突があり、奉納した月に河内長野の金剛寺に幕府軍が進出したため、楠木正儀が出陣しております。案ずるにこの時点ではまだ長慶上皇が実権を握っていて、強硬論が台頭していたものと思われます。しかしながら、紀伊や河内におけるこの戦闘ではいずれも南軍が敗れております。
 興味深いのは幕府は金剛寺の戦いの翌月に妙顕寺をして祈祷をさせていることです。過去の事例から鑑みるに今回の祈祷要請には幕府側から南北対話のパイプとして協力せよという意向があったのではないかと思われます。

 さて、この翌年に妙顕寺は比叡山延暦寺の宗徒たちの手で破却されます。正平一統時に次ぐ二度目の破却ということになります。しかしながら、これを単なる天台宗と法華宗との間の対立軸で読み解くことは適当ではないのではないかと思います。と言うのは、この時点で本国寺も法華宗寺院として足利義満の寄進まで受けていて、京でも妙顕寺と二分するまでの法華宗の勢力であると時の関白二条師嗣に認識すらされていた状況だったからです。妙顕寺と本国寺は対立する因縁があって、不仲ではありましたが、法華宗が目障りであるなら本国寺に何もしないとは思えないですね。残念ながらこの時に延暦寺が本国寺に何かしたという記録は見当たりません。
 とするならば、正平一統時と同様に、延暦寺もまた南朝と接触を持っていたのだが、並行して自分たちの人脈で交渉しようとする妙顕寺を邪魔と感じたため排除したという解釈もありないかと思うのです。

 妙顕寺日霽は若狭国小浜に逃れました。その翌年、足利義満は本国寺五重塔建立の為に材木を寄進しています。叡山の目的が法華宗撲滅にあるとすれば、足利義満は本国寺に援助することで叡山を牽制したと言えるかもしれません。しかし、妙顕寺から分派した具足山妙覚寺は生き残ってますから、法華撲滅と言うには不徹底なやり方でしょう。妙顕寺襲撃の翌々年、楠木正儀は没します。南北対話は妙顕寺や楠木正儀抜きで進められ、1992年(明徳三年)に南朝最後の天皇である後亀山天皇が三種の神器を持参上洛して大覚寺に入りました。

 若狭小浜に逃れた日霽が京に戻れたのはその翌年です。幕府が比叡山延暦寺にとりなしたようですが、その時の条件に『妙顕寺』の寺号を許さないという項目があったようで、妙顕寺は妙本寺と寺号を変更することを余儀なくされました。それ以後は足利義満は本国寺よりも、妙本寺の方に目をかけるようになったようです。
1395年(応永二年)には祈祷を依頼し、その三年後の1398年(応永五年)には自ら妙本寺に訪れ、その翌年に四海安全を祈願させました。
 一方の本国寺側は1395年(応永二年)に北朝側の関白だった近衛道嗣の子を本国寺に受け入れ、時の住持日伝の弟子とし、号して日秀と名乗らせます。さらに1398年(応永五年)には後小松天皇より勅願寺の指定を受けたりして、妙本寺の動きに呼応して本国寺も名望をえる行動をとっているのが興味深いです。地方奉行の治部太郎左衛門という武士が「京都は禅宗に次いで法華宗が盛んである。それは六条本国寺があるためだが、そのほかでもとりわけ妙本寺が朝廷から寺地と寺号を与えられている」と書き残している所からうかがえます。この寺地は三条坊門堀川(今の堀川御池)にあったそうです。
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