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2013年12月 5日 (木)

中漠:法華編⑪洛中における潜在的南朝勢力

 本稿から5回くらいをかけて観応の擾乱について述べてみたいと思います。一見日蓮の法華宗とは何の関係もなさそうに見えますが、観応の擾乱は妙顕寺や本国寺が洛中に寺地を賜った折の当事者達が起した事件です。同時期の妙顕寺や本国寺の動向を合わせてこの事変を観察すれば、別な実像が見えてくるのではないかと思い、筆を起こしてみました。

 妙顕寺が御溝傍今小路から四条櫛笥に移った翌年、1342年(暦応五年)に日像は示寂しました。後継したのは妙実という弟子でした。彼の正確な出自ははっきりしないのですが、一説に後醍醐天皇の皇子であるとも、一説に近衛経忠の子息であるとも言われております。近衛経忠は後醍醐天皇の朝廷において、関白、内覧、左大臣を歴任し、建武体制崩壊後、北朝の光巌天皇治下で関白を任命されるも吉野に脱走。後醍醐天皇と後村上天皇の側近として仕えました。いずれが本当の親であったにせよ、彼は南朝系の高貴な血筋の人物であることには変わりません。また、妙実は多田頼貞という南朝方で戦った武将と親交を結び、彼のために備前国に松寿寺という寺院を開基しております。足利尊氏が京都を占領して、北朝の天子が据えられたといっても、南朝系の人物の活躍の余地は大きくあったわけです。

 妙実が妙顕寺の住持を継いだのと同じ年に洛内で重大事件が起こります。美濃国守護の土岐頼遠が笠懸の帰りに光巌上皇の牛車と行き逢い、上皇の従者から下馬を命じられたことに腹を立てて、あろうことか光巌上皇の牛車に矢を射かけてしまったのです。土岐一族は正中の変の頃から後醍醐天皇の討幕運動に加担していた一族です。足利尊氏との関係から、土岐頼遠と彼の父親である土岐頼貞は北朝に味方しましたが、土岐頼遠本人は全く北朝の権威を認めていないことが明らかになったわけです。それでなくとも土岐頼遠とは別系統の土岐一族の中には南朝方に与している者がいました。
 その中の一人に土岐頼直という人物がいます。土岐頼遠の兄にあたる人物で、太平記においては足利尊氏方として東寺合戦で奮戦した記述があるそうですが、一説においては尊氏が九州から上洛戦をした折に、南朝方の脇屋義助軍に従軍して後醍醐天皇とともに比叡山に籠っていたらしい。この土岐頼直が太平記の頼直と同一人物をさすのかどうかわかりませんが、比叡山に籠っていた土岐頼直は法華宗徒でした。
 一方の土岐頼貞・頼遠親子は南禅寺の夢窓疎石に師事して禅宗を収めており、夢窓疎石は頼遠の助命を請いましたが、足利直義は自らの禅の師でもある夢窓疎石の嘆願よりも秩序の維持を重んじて、土岐頼遠を斬首に処しました。但し、そのままでは土岐一族はすべて南朝に与しかねないので、頼遠の甥、頼康に美濃守護家を継がせて美濃国守護土岐家を存続させました。

 光巌上皇にとってみれば、土岐一族は恐怖すべき存在であり、足利直義は信頼できる人物に見えたことでしょう。一方で、洛中に妙顕寺のような後醍醐天皇の引立てで勅願寺になったような寺に妙実のような南朝に連なる人物が住持を務めているような状況に危惧を感じたのではないかと思われます。光巌上皇は北朝の治天ではありましたが、土岐頼遠が端無くも示した通り、武家政権の傀儡でしかなく、勘気に任せて寺を潰すことはできません。この事件は光巌上皇の心に深い翳を作りました。

 足利直義の執事に上杉重能という人物がいました。彼は貴族の勧修寺家出身ではありましたが、親戚筋の武家である上杉家に養子に入った人物です。彼の叔父が日静という法華宗の僧でありました。光巌上皇は彼に目をかけ、洛中に広大な寺地を与えます。与えられた寺地は堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の十二町にも及ぶ広さでした。妙顕寺を圧するどころか下手をすると足利尊氏の館や御所よりも広かったわけですね。その結果、日静の本国寺から始まり、その甥にあたる上杉重能、重能を執事として使う足利直義、直義らが担いだ治天の君である光巌上皇のラインが出来上がりました。

 足利直義は尊氏と京において二頭政治を敷く一方の極でありました。兄尊氏より有能な政治家であり、足利幕府の初動を政治の面で安定化させた実力者でした。併せて謀略家でもあり、鎌倉に幽閉された護良親王を暗殺した梟雄でもあります。本国寺は光巌天皇が言い出したこととはいえ、幕府が許可を出さねば洛中に大寺を建てることは不可能です。また、京都のような市街地において寺は城塞の機能も有します。足利尊氏が九州から上洛した折、後醍醐天皇とが京で争った時においても、後醍醐天皇が光巌上皇と一緒に延暦寺に避難しようとしたのを拒んで東寺に入りました。そこに足利尊氏が入って市街戦の本陣兼仮の行宮となったこともあります。同様に本国寺の広大な敷地もいざという時に兵が集結できるように構想されたのではないかと私は考えております。現に本国寺は戦国時代の後半になって、城塞としての機能を十二分に果たすことになります。

 本国寺は妙顕寺と同じ日朗系の寺院でしたが、先述したとおり、日朗の弟子間で日印とその他の弟子との折り合いが悪く、それぞれが別の門流を作っておりました。光巌上皇にとって本国寺は南朝系の妙顕寺を牽制するものだったと思われます。ただし、南朝方の土岐頼直をして法華宗徒にしたのは日静の師である日印である、ということは多分光巌上皇も知らなかったことでしょう。

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